第1話 夜の港の黒猫。
小学二年生の宮坂蓮が、夏休みの終盤に東京からこの尾之浦町へ引っ越してきて、まだひと月も経っていなかった。
すぐ近くにある海にも、その潮風にも、坂道にも馴染めない。町の人たちは、知らない相手にも当たり前のように挨拶をする。
転校先の教室では、隣の席でもない子まで、東京のことや前の学校のことを次々に聞いてきた。
蓮には、何もかもが近すぎた。
春に、父親を海の事故で亡くした。
そのあと、母親は東京での暮らしを片づけ、蓮を連れて自分が生まれ育った尾之浦の実家へ戻ってきた。今は祖母が一人で暮らしている家だった。
母親は荷ほどきや手続きに追われていた。すでに新しい仕事にも通い始め、夜になると疲れた顔で、それでも蓮には笑ってみせる。
「学校、どうだった?」
そう聞かれる度、蓮は「普通」と答えた。母親に泣きつけば、母親まで泣いてしまうような気がした。
だから蓮は、家では泣かなかった。
夕食を終えると、蓮は居間で難しそうな顔で何かの書類とにらめっこしている母親へ声をかけた。
「少し、散歩してくる」
「港まで?」
「うん」
母親は壁の時計を確かめた。
「外灯のあるところから離れないこと。遅くならないうちに帰ってくるのよ」
「分かってる」
玄関を出ると、潮を含んだ風が頬に触れた。
家から漁港までは、歩いて数分もかからない。昼間は漁師や釣り人の姿がある港も、夜になるとほとんど人気がなくなった。係留された船が波に揺れ、ときおり、岸壁へぶつかる鈍い音を響かせている。
蓮は、漁港の外れに置かれた古びた木製のベンチへ腰を下ろした。濃紺に変わった空の下で、一人、海を眺める。
父親が亡くなった海と、ここはまったく違う場所だ。それでも、暗い海面を見つめていると、どこかで父親につながっているような気がした。
その日は、いつもより潮の匂いが強かった。
しばらく、暗い海を見つめていた。
蓮は俯いた。
目の奥が熱くなり、頬を涙が伝った。父親を思い出したからだけではない気がした。知らない町。知らない家。知らない学校。ここには、まだ知り合いも、友達と呼べる人もいない。
ここなら、誰にも見られない。夜の漁港には、誰もいない。
そう思っていた。
「そこは俺の指定席なんだが」
突然、背後から声がした。蓮は慌てて涙を拭い、振り返った。人の姿は見当たらない。
代わりに、少し離れたところに一匹の黒猫が座っていた。暗闇に溶けるような毛並みの中で、二つの金色の目だけが、じっと蓮を見つめている。蓮は辺りを見回した。
「別に使うなとは言わないがな」
また声がした。黒猫は静かに立ち上がると、尻尾を揺らしながら蓮の方へ歩いてきた。どう見ても、しゃべっているのはこの黒猫だった。
「真ん中に座って、一人で占領することはないだろう。少し詰めてくれないか」
ベンチの横まで来ると、そう言って蓮を見上げる。
「え、あ……」
蓮は戸惑いながらも、ベンチの端へ身体をずらした。黒猫は満足そうに目を細めた。少し身体をかがめて勢いをつけると、音もなくベンチへ飛び乗る。蓮の隣で香箱を組み、何事もなかったかのように海を眺め始めた。
蓮は横目で黒猫を窺った。
どこからどう見ても、猫だった。
「……猫、だよな?」
黒猫の尻尾が、不満そうにベンチを叩いた。
「犬に見えるか?」
「……猫に見える」
「じゃあ猫だろう」
黒猫は海へ顔を向けたまま答えた。
「猫と一緒に座るのは嫌か?」
「え? あ、いや、そんなことないけど」
「なら問題ないな」
問題なのはそこじゃない。
蓮はもう一度、黒猫をまじまじと見つめた。驚いていると思われるのが、なんだか悔しかった。なるべく平気なふりをして尋ねる。
「なんで、猫なのにしゃべってるの?」
黒猫が蓮へ顔を向けた。
「なんで猫がしゃべらないと思ってるんだ?」
「だって、普通は――」
「猫から『私たちはしゃべることができません』と言われたことがあるか?」
蓮は少し考えてから、無言で首を横に振った。
「だったらいいだろう、猫がしゃべっても。猫の自由だ」
納得はできなかった。けれど、反論する言葉も見つからなかった。
「まあ、それを言うなら、お前がここに来るのも自由だな」
黒猫は再び海へ向き直る。
「どうせ隣に座るなら、退屈しのぎに話くらい聞いてやる」
偉そうな言い方だった。
泣いていた理由を尋ねるわけでもない。心配するわけでも、慰めるわけでもない。ただ、自分の指定席の半分を取り戻して、ついでに話を聞いてやると言っている。
理屈っぽくて、嫌なやつだ。そう思った。
それなのに蓮は、不思議と立ち上がって帰る気にはならなかった。
「最近ここいらで見かける顔だな。越してきたのか?」
「……うん」
「どこからだ?」
「東京」
「ずいぶん遠くから来たものだな」
黒猫はそれ以上、何も聞かなかった。蓮は隣にいる黒猫を見る。金色の目は、退屈そうに海を眺めていた。
必要以上にこちらへ踏み込んでこない。そのことが、今の蓮にはありがたかった。
「まず、名前くらいは聞いておこうか」
「……蓮。宮坂蓮」
「レンか」
黒猫は一度だけ蓮を見て、すぐに海へ視線を戻した。
「何年生だ?」
「二年生」
「そうか」
そこで会話が途切れた。波の音と、船の軋む音だけが聞こえる。けれど、不思議と気まずくはなかった。
その夜、蓮は父親のことを話さなかった。黒猫も聞かなかった。代わりに、坂道が多くて歩くのが大変なことや、学校にやたらと話しかけてくる、うるさい男子がいることを少しだけ話した。
黒猫は、時々鼻を鳴らしながら、それを聞いていた。
翌日の夜も、蓮は港へ向かった。
それからしばらく、黒猫は、尾之浦で蓮がいちばん気楽に話せる相手になった。




