最終話 その黒猫は、今夜も港で待っている。
7月16日、日曜日の夜。
祭りの翌日の尾之浦は、昨日の賑わいをすべて使い果たしてしまったように静かだった。
海岸通りに並んでいた屋台はすでに姿を消し、道の端には、踏まれて色の剥げた紙片がわずかに残っている。昨日まで通りを照らしていた提灯や、七夕から残っていた笹飾りも昼間のうちに片付けられて、商店街がなんだか広く感じた。
港へ下りると、人の声はほとんど聞こえなくなった。
防波堤の下で、波がゆっくりとコンクリートを洗っている。停泊している漁船がわずかに揺れ、張られた係留ロープが、ときおり低い音を鳴らしていた。
蓮は、港の外灯が届くぎりぎりのところで、黒猫を見つけた。
係船柱の上に前足を揃え、海の方を眺めていた。
「遅かったな、レン」
「祭りの翌日に報告へ来たんだから、早い方だろ」
蓮が答えると、黒猫はゆっくりとこちらを振り返った。
「昨夜は、ずいぶん賑やかな猫の集会があったそうじゃないか」
「知ってたのか?」
「港にいれば、大抵の噂は流れてくる。俺に声がかからなかったのは、いささか不満だがな」
「あれは猫石の集会だぞ」
「猫には違いない」
「招待されたかったのか?」
「いや、人混みは得意じゃない」
「どっちだよ」
黒猫は返事の代わりに、長い尻尾を一度だけ揺らした。
蓮は係船柱の隣に腰を下ろす。
「それで?」
黒猫が尋ねた。
「事件は解決したのか、助手」
「一応は」
「歯切れが悪いな」
「ほとんどは解決した。でも、最後に一つだけ、よく分からないことがあった」
蓮は昨日の夜、丑寅守神社で起きたことを話し始めた。
町から姿を消していた猫石は、天童薫と町の小学生たちが、持ち主から許可を得て借りたものだったこと。
猫石の底に貼られていたマスキングテープには、それぞれを元の場所へ返すために、店や家の名前が書かれていたこと。
御牧珠美は、弟の勇斗たちが何かを隠していると気づき、事情を聞き出したあと、調べる側から計画を手伝う側へ寝返っていたこと。
そして夏祭りの夜、町のいたるところから集まった猫石たちは、丑寅守神社の拝殿前で大きな輪を作り、本当に夜の会議を開いているように並んでいたこと。
「なるほど」
黒猫は短く答えた。
「猫石を町の人間に見てもらうための、里帰りというわけか」
「ああ。薫さんのおじいさんは、猫石そのものだけじゃなくて、『猫石がいる町の風景』を作ろうとしてたらしい」
「ずいぶんと回りくどい芸術家だな。人間の芸術はわからん」
黒猫はフン、と鼻を鳴らした。
「でも、薫さんは、一晩だけ猫石そのものを見てほしかったんだ。町の景色の一部じゃなくて、主役として」
境内で、猫石を指さしながら笑っていた人たち。
昔自分が色を塗った猫石を、孫に誇らしそうに教えていた老人。
いつも自分の家の庭にいる金色の猫石を、友達へ自慢していた男の子。
使い捨てカメラの小さなファインダー越しに見た、ウインクの猫石と薫の笑顔。
夜の丑寅守神社の境内で見た光景が、蓮の頭の中によみがえった。
「作戦は大成功だったよ。薫さんも、そう言ってた」
「では、何が分からない?」
黒猫が尋ねる。
「猫石の数だ」
蓮は答えた。
「薫さんたちが、町の人から借りた猫石は全部で四十七匹だった」
薫たちは、どの猫石をどこの家や店から借りたのか、すべてリストに記録していた。猫石の特徴と、返却先。底に貼ったマスキングテープの文字。
珠美も加わり、借りた猫石はその都度リストへ記録していた。薫たちが借りたのは、間違いなく四十七匹だった。
「でも、昨日の夜、境内に集まっていた猫石は五十七匹いた」
黒猫の耳が、わずかに動いた。
「十匹、多かったということか」
「ああ」
町の人々がひとしきり猫石を眺め、そろそろ返却を始めようという頃、薫たちは境内の猫石をリストと照合した。そのとき初めて、リストに載っていない猫石が混じっていることに気づいた。
「その十匹には、返却先を書いたマスキングテープも貼られてなかった」
「剥がれたんじゃないのか?」
「俺たちも最初はそう思った。でも、薫さんが借りた四十七匹は、全部リストと照合できたんだ。テープが貼られた四十七匹は、一匹も欠けてなかった」
「なら、その十匹は別の手段で神社に集まったというわけだ」
「そういうことになる」
昨夜のうちに、自分の家や店から借りられていた猫石を見つけた人は、そのまま持ち帰った。残った猫石は神社で一晩預かり、今朝、蓮たちも返却を手伝った。
けれど、出所の分からない十匹だけは、返す場所がなかった。
「結局、その十匹は丑寅守神社で預かることになったよ」
「迷い猫か」
「迷い猫石だな」
「ずいぶんと面倒なものが迷い込んだものだ」
「宮司さんは、少し楽しそうだったけどな。持ち主が見つかるまで、境内に置いておくって」
どれも古びた猫石だった。
色の落ちたもの。
苔のついたもの。
表情さえ分からないほど、絵の具が剥がれてしまったものもいた。
境内を訪れた町の人たちに尋ねても、元いた場所を知る者は一人もいなかった。
蓮は、係船柱の上に座る黒猫を見る。
「猫石が動いたと思うか?」
「どうだろうな」
黒猫は、そっけなく答えた。
その視線は蓮ではなく、暗い海へ向けられている。
「まあ……現実的に考えたら、騒動を知った計画外の子どもたちが、どこかから勝手に持ち込んだんだろうな」
薫の計画を聞きつけ、面白がった子どもが、自分の知っている猫石を勝手に運んだ。
持ち主に許可を取っていないから、返却先のテープも貼られていなかった。
それが、一番ありそうな答えだった。
「他に考えられるとしたら――」
「まあ、もういいだろう」
黒猫が、蓮の言葉を遮った。
「知った顔が集まっていれば、そこに顔を出したくなることもあるだろうさ」
「……意外にロマンチストな面もあるんだな」
「同じ猫なんでな。人間よりは、お互いのことが分かるのさ」
黒猫は当然のことを言うように答えた。
それが冗談なのか、本気なのか、蓮には分からなかった。
黒猫なら、もしかすると本当に、猫石たちが歩いて神社へ向かう姿を見たのかもしれない。
けれど、聞いても素直に教えてはくれないだろう。
蓮はそれ以上尋ねず、港の向こうへ目を向けた。
今回のことが起きるまで、猫石は尾之浦にいて当たり前のものだった。
道端にいても、店先にいても、わざわざ足を止めることはない。誰が作ったのかも、どうして町にいるのかも知らなかった。
「今回のことがなかったら、俺はこれからも猫石を気にしなかったと思う」
蓮は言った。
「だからって、これから毎日、猫石を探して歩くようになるわけでもない。しばらくは町で見かけるたびに足を止めるかもしれないけど、それもそのうちしなくなると思う」
黒猫は、黙って蓮の話を聞いている。
「でも、そんなに仲がいいわけじゃないクラスメイトでも、誕生日だと知れば『おめでとう』くらい言うだろ。猫石とも、それくらいの距離でちょうどいいんじゃないかな」
「……そうだな」
珍しく、黒猫は蓮の言葉に頷いた。
「もっと、知りたいな」
猫石だけではない。この町には、蓮が知っているつもりで、何も知らないものがまだたくさんあるのだろう。
毎日歩いている道。
いつも話している友達。
何気なく通り過ぎている店や、古い建物。
当たり前に見えるもののひとつひとつに、誰かの思い出や、蓮の知らない理由が隠れているのかもしれない。
「今回、みんなと調べて回るのも、結構楽しかったし」
「事件が起きて喜ぶとは、助手のくせにずいぶん探偵らしくなったものだな」
「そういう意味じゃないって」
蓮が睨むと、黒猫は愉快そうに目を細めた。
「では、不出来な助手よ」
黒猫は係船柱の上で、蓮へ向き直った。
「次は、何を見つける?」
「次?」
「この町には、お前がまだ見落としているものがあるのだろう?」
蓮は少し考えた。
けれど、答えはすぐには浮かばなかった。
「分からない」
蓮は正直に答えた。
「でも、今まで見えてなかったものを、もう少し見てみたいとは思う」
それが事件なのか、誰かの悩みなのか、町に残された昔話なのかは分からない。
それでも、蓮一人では気づけないことも、弥太郎や珠美、柑奈、三咲と一緒なら見つけられる気がした。
黒猫は、満足そうに一度だけ頷いた。
「それなら、退屈はしないだろうさ」
そう言い残すと、係船柱から音もなく飛び降りる。黒猫は港の端をゆっくりと歩き、外灯の届かない方へ向かう。闇へ入る直前、黒猫が最後に一度だけこちらを振り返った。外灯の光を受け、金色の目が暗がりに浮かぶ。次の瞬間、その姿は夜の闇へ溶けるように見えなくなった。
港には再び、波と船の音だけが残った。
蓮は立ち上がり、ズボンについた砂を払う。
夏休みまで、あと少し。
夏は毎年、同じようにやってくる。
友達と遊び、宿題を後回しにして、気づけば終わっている。きっと今年も、そんな夏になるのだと思っていた。
けれど、猫石のことを知った今、いつも見ていた町の景色は、昨日までとは少しだけ違って見える。
この町には、蓮の知らないものがまだ残っている。
そして、それを一緒に探す仲間もいる。
今年の夏は、なんだかいつもとは違う夏になる。
蓮は、そんな気がしていた。




