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その黒猫は、今夜も港で待っている。  作者: 幸円一
本編

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16/19

最終話 その黒猫は、今夜も港で待っている。

 7月16日、日曜日の夜。

 祭りの翌日の尾之浦は、昨日の賑わいをすべて使い果たしてしまったように静かだった。


 海岸通りに並んでいた屋台はすでに姿を消し、道の端には、踏まれて色の剥げた紙片がわずかに残っている。昨日まで通りを照らしていた提灯や、七夕から残っていた笹飾りも昼間のうちに片付けられて、商店街がなんだか広く感じた。


 港へ下りると、人の声はほとんど聞こえなくなった。

 防波堤の下で、波がゆっくりとコンクリートを洗っている。停泊している漁船がわずかに揺れ、張られた係留ロープが、ときおり低い音を鳴らしていた。


 蓮は、港の外灯が届くぎりぎりのところで、黒猫を見つけた。

 係船柱の上に前足を揃え、海の方を眺めていた。


「遅かったな、レン」

「祭りの翌日に報告へ来たんだから、早い方だろ」


 蓮が答えると、黒猫はゆっくりとこちらを振り返った。

「昨夜は、ずいぶん賑やかな猫の集会があったそうじゃないか」

「知ってたのか?」

「港にいれば、大抵の噂は流れてくる。俺に声がかからなかったのは、いささか不満だがな」

「あれは猫石の集会だぞ」

「猫には違いない」

「招待されたかったのか?」

「いや、人混みは得意じゃない」

「どっちだよ」

 黒猫は返事の代わりに、長い尻尾を一度だけ揺らした。


 蓮は係船柱の隣に腰を下ろす。

「それで?」

 黒猫が尋ねた。

「事件は解決したのか、助手」

「一応は」

「歯切れが悪いな」

「ほとんどは解決した。でも、最後に一つだけ、よく分からないことがあった」


 蓮は昨日の夜、丑寅守神社で起きたことを話し始めた。


 町から姿を消していた猫石は、天童薫と町の小学生たちが、持ち主から許可を得て借りたものだったこと。

 猫石の底に貼られていたマスキングテープには、それぞれを元の場所へ返すために、店や家の名前が書かれていたこと。

 御牧珠美は、弟の勇斗たちが何かを隠していると気づき、事情を聞き出したあと、調べる側から計画を手伝う側へ寝返っていたこと。

 そして夏祭りの夜、町のいたるところから集まった猫石たちは、丑寅守神社の拝殿前で大きな輪を作り、本当に夜の会議を開いているように並んでいたこと。


「なるほど」

 黒猫は短く答えた。

「猫石を町の人間に見てもらうための、里帰りというわけか」

「ああ。薫さんのおじいさんは、猫石そのものだけじゃなくて、『猫石がいる町の風景』を作ろうとしてたらしい」

「ずいぶんと回りくどい芸術家だな。人間の芸術はわからん」

 黒猫はフン、と鼻を鳴らした。


「でも、薫さんは、一晩だけ猫石そのものを見てほしかったんだ。町の景色の一部じゃなくて、主役として」

 境内で、猫石を指さしながら笑っていた人たち。

 昔自分が色を塗った猫石を、孫に誇らしそうに教えていた老人。

 いつも自分の家の庭にいる金色の猫石を、友達へ自慢していた男の子。

 使い捨てカメラの小さなファインダー越しに見た、ウインクの猫石と薫の笑顔。

 夜の丑寅守神社の境内で見た光景が、蓮の頭の中によみがえった。

「作戦は大成功だったよ。薫さんも、そう言ってた」

「では、何が分からない?」

 黒猫が尋ねる。

「猫石の数だ」

 蓮は答えた。


「薫さんたちが、町の人から借りた猫石は全部で四十七匹だった」

 薫たちは、どの猫石をどこの家や店から借りたのか、すべてリストに記録していた。猫石の特徴と、返却先。底に貼ったマスキングテープの文字。

 珠美も加わり、借りた猫石はその都度リストへ記録していた。薫たちが借りたのは、間違いなく四十七匹だった。


「でも、昨日の夜、境内に集まっていた猫石は五十七匹いた」

 黒猫の耳が、わずかに動いた。

「十匹、多かったということか」

「ああ」

 町の人々がひとしきり猫石を眺め、そろそろ返却を始めようという頃、薫たちは境内の猫石をリストと照合した。そのとき初めて、リストに載っていない猫石が混じっていることに気づいた。


「その十匹には、返却先を書いたマスキングテープも貼られてなかった」

「剥がれたんじゃないのか?」

「俺たちも最初はそう思った。でも、薫さんが借りた四十七匹は、全部リストと照合できたんだ。テープが貼られた四十七匹は、一匹も欠けてなかった」

「なら、その十匹は別の手段で神社に集まったというわけだ」

「そういうことになる」


 昨夜のうちに、自分の家や店から借りられていた猫石を見つけた人は、そのまま持ち帰った。残った猫石は神社で一晩預かり、今朝、蓮たちも返却を手伝った。

 けれど、出所の分からない十匹だけは、返す場所がなかった。


「結局、その十匹は丑寅守神社で預かることになったよ」

「迷い猫か」

「迷い猫石だな」

「ずいぶんと面倒なものが迷い込んだものだ」

「宮司さんは、少し楽しそうだったけどな。持ち主が見つかるまで、境内に置いておくって」


 どれも古びた猫石だった。

 色の落ちたもの。

 苔のついたもの。

 表情さえ分からないほど、絵の具が剥がれてしまったものもいた。

 境内を訪れた町の人たちに尋ねても、元いた場所を知る者は一人もいなかった。


 蓮は、係船柱の上に座る黒猫を見る。

「猫石が動いたと思うか?」

「どうだろうな」

 黒猫は、そっけなく答えた。

 その視線は蓮ではなく、暗い海へ向けられている。

「まあ……現実的に考えたら、騒動を知った計画外の子どもたちが、どこかから勝手に持ち込んだんだろうな」

 薫の計画を聞きつけ、面白がった子どもが、自分の知っている猫石を勝手に運んだ。

 持ち主に許可を取っていないから、返却先のテープも貼られていなかった。

 それが、一番ありそうな答えだった。


「他に考えられるとしたら――」

「まあ、もういいだろう」

 黒猫が、蓮の言葉を遮った。

「知った顔が集まっていれば、そこに顔を出したくなることもあるだろうさ」

「……意外にロマンチストな面もあるんだな」

「同じ猫なんでな。人間よりは、お互いのことが分かるのさ」


 黒猫は当然のことを言うように答えた。

 それが冗談なのか、本気なのか、蓮には分からなかった。

 黒猫なら、もしかすると本当に、猫石たちが歩いて神社へ向かう姿を見たのかもしれない。

 けれど、聞いても素直に教えてはくれないだろう。


 蓮はそれ以上尋ねず、港の向こうへ目を向けた。


 今回のことが起きるまで、猫石は尾之浦にいて当たり前のものだった。

 道端にいても、店先にいても、わざわざ足を止めることはない。誰が作ったのかも、どうして町にいるのかも知らなかった。


「今回のことがなかったら、俺はこれからも猫石を気にしなかったと思う」

 蓮は言った。

「だからって、これから毎日、猫石を探して歩くようになるわけでもない。しばらくは町で見かけるたびに足を止めるかもしれないけど、それもそのうちしなくなると思う」

 黒猫は、黙って蓮の話を聞いている。

「でも、そんなに仲がいいわけじゃないクラスメイトでも、誕生日だと知れば『おめでとう』くらい言うだろ。猫石とも、それくらいの距離でちょうどいいんじゃないかな」

「……そうだな」

 珍しく、黒猫は蓮の言葉に頷いた。


「もっと、知りたいな」

 猫石だけではない。この町には、蓮が知っているつもりで、何も知らないものがまだたくさんあるのだろう。

 毎日歩いている道。

 いつも話している友達。

 何気なく通り過ぎている店や、古い建物。

 当たり前に見えるもののひとつひとつに、誰かの思い出や、蓮の知らない理由が隠れているのかもしれない。


「今回、みんなと調べて回るのも、結構楽しかったし」

「事件が起きて喜ぶとは、助手のくせにずいぶん探偵らしくなったものだな」

「そういう意味じゃないって」

 蓮が睨むと、黒猫は愉快そうに目を細めた。


「では、不出来な助手よ」


 黒猫は係船柱の上で、蓮へ向き直った。


「次は、何を見つける?」

「次?」

「この町には、お前がまだ見落としているものがあるのだろう?」

 蓮は少し考えた。

 けれど、答えはすぐには浮かばなかった。


「分からない」

 蓮は正直に答えた。

「でも、今まで見えてなかったものを、もう少し見てみたいとは思う」

 それが事件なのか、誰かの悩みなのか、町に残された昔話なのかは分からない。

 それでも、蓮一人では気づけないことも、弥太郎や珠美、柑奈、三咲と一緒なら見つけられる気がした。


 黒猫は、満足そうに一度だけ頷いた。

「それなら、退屈はしないだろうさ」

 そう言い残すと、係船柱から音もなく飛び降りる。黒猫は港の端をゆっくりと歩き、外灯の届かない方へ向かう。闇へ入る直前、黒猫が最後に一度だけこちらを振り返った。外灯の光を受け、金色の目が暗がりに浮かぶ。次の瞬間、その姿は夜の闇へ溶けるように見えなくなった。


 港には再び、波と船の音だけが残った。

 蓮は立ち上がり、ズボンについた砂を払う。


 夏休みまで、あと少し。

 夏は毎年、同じようにやってくる。

 友達と遊び、宿題を後回しにして、気づけば終わっている。きっと今年も、そんな夏になるのだと思っていた。

 けれど、猫石のことを知った今、いつも見ていた町の景色は、昨日までとは少しだけ違って見える。


 この町には、蓮の知らないものがまだ残っている。

 そして、それを一緒に探す仲間もいる。


 今年の夏は、なんだかいつもとは違う夏になる。

 蓮は、そんな気がしていた。

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