第15話 猫石の、いる風景。
薫は蓮たちを手招きしながら、境内の奥へ進んだ。
猫石の輪から少し離れた石灯籠の台座に、一匹の猫石が佇んでいた。片目をつむった、ウインクの猫石だった。
「この子、昔、おじいちゃんと一緒に塗り直した猫石なの」
薫は猫石のそばにしゃがみ込み、右耳のところを指さした。
「ほら、ここ。ちょっと色がはみ出してるでしょ?」
言われてみれば、右耳の白い絵の具が、首元の赤い模様にほんの少しだけはみ出していた。
「さっき宮坂くんが言った通り、蒲田桜将は私のおじいちゃん。本名は、天童兼吉。私、結構おじいちゃんっ子でね。小さい頃は、よくあとをついて回ってたんだ」
薫は、懐かしそうに目を細めた。
「私が生まれる前に、新しい猫石を作る活動は終わってたんだけど、おじいちゃんは色褪せたり絵の具が剥がれたりした猫石を見つけると、そのたびに塗り直してたの」
「薫さんも手伝ってたんですか?」
三咲が尋ねる。
「うん。道具を運んだり、筆を洗ったりするのがほとんどだったけど、たまに色を塗らせてもらったりね。だから私にとって猫石は、ほかの人より少しだけ特別なんだと思う」
薫はそう言って、猫石の頭を軽く撫でた。
「おじいちゃんが猫石を作った理由は知ってる?」
「新しい名物にして、町を盛り上げようという意図があったと、図書館の資料で読みました」
蓮が答えると、薫は頷いた。
「うん。もちろん、それも間違いじゃないよ。でもね――」
薫は、記憶を探すように少し間を置いた。
「昔、猫石を塗り直してるときに、おじいちゃんが言ったの。『猫石がいる風景を作りたかったんだ』って」
「猫石がいる風景?」
弥太郎が聞き返す。
「うん。小さかった私には、正直あんまり意味が分からなかったんだけどね」
薫は少し照れくさそうに笑うと、境内の外へ目を向けた。
「でも、もう少し大きくなってから町を歩いていて、ふと分かった気がしたの」
商店街の店先。民家の庭。
曲がり角や、坂道の石垣。
晴れの日も、雨の日も。
学校へ向かう途中にも、誰かと遊んでいるときにも、散歩をしているときにも。
面白い話をして笑っているときも、悲しいことがあって泣いているときにも。
この町には、当たり前のように猫石が佇んでいる。
「きっとおじいちゃんは、猫石そのものを作っていただけじゃない。この尾之浦を大きなキャンバスみたいにして、猫石のいる風景を描いてたんだと思う」
蓮の頭の中にも、そんな尾之浦の景色が浮かんだ。
「みんなは今回、いろいろ猫石のことを調べてくれたみたいだけど、それより前は、猫石のことをどれくらい知ってた?」
薫の質問に、五人は顔を見合わせた。
「正直に言うと、全然知りませんでした」
三咲が申し訳なさそうに答える。
「ごめんなさい」
柑奈も続けた。
「ううん。謝らなくていいの」
薫は穏やかに首を横へ振った。
「むしろ、それでいいんだと思う。町のいろんなところに猫石がいても、誰もいちいち不思議に思わない。誰が作ったのか知らなくても、道端で見かけたら『いつもの猫石だ』って思う。それくらい、当たり前みたいに猫石がいて、町の暮らしに馴染んでる」
薫は、輪になった猫石たちを見つめた。
「それが、おじいちゃんの描きたかったものだったんじゃないかな」
「猫石のいる尾之浦そのものが、作品ってことか」
弥太郎が呟いた。
町全体を使った、果てしなく壮大な作品。
それなのに、不思議と気取ったところのない、とても素朴なものに思えた。
「今回手伝ってくれた子たちも、最初はほとんど猫石の由来を知らなかったよ。誰が作ったのかも、いつから町にいるのかも」
薫は、境内を走り回る子どもたちへ目を向けた。
「だけど、それも含めておじいちゃんの作品なんだと思う」
その表情には、祖父への誇らしさが浮かんでいた。
「でも、俺は知れてよかったけどな」
弥太郎が言った。
薫だけでなく、蓮たちも弥太郎へ顔を向ける。
「今まで、猫石なんて気にしたことなかったけどさ。誰が作ったとか、なんで町中にいるのかとか、いろいろ知ったら、前よりちょっと好きになった」
「私も」
三咲が頷いた。
「これから町で猫石を見つけたら、今までとは少し違って見える気がする」
「うん。猫石も町の住民だもんね」
柑奈も続ける。
「珍しい猫石がいないか探すのも面白そうだよね」
珠美が言うと、弥太郎が笑った。
「お前、レアもの好きだもんな」
五人が笑って、薫も笑った。
何も知らなくても、猫石は尾之浦の景色だった。
けれど、その由来を知った今では、その景色も明日からは少しだけ違って見えるのかもしれない。
薫は五人の顔を見回し、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう」
それから、ほんの少しだけ俯く。
「私、本当は少し寂しかったの」
境内を行き交う人々の声が、夜の空気に重なっていた。
「猫石が当たり前の景色になったことで、おじいちゃんの作品は完成したんだと思う。でも、だからこそもう一度だけ、みんなに猫石そのものを見てほしかった」
薫は、愛おしそうに猫石たちを眺めた。
「誰が作ったとか、いつからあるとか、そんなことは知らなくてもいい。毎日じゃなくていいの。たまには足を止めて、かわいいなとか、懐かしいなとか、そう思ってもらいたかったの」
そして、少し恥ずかしそうに笑う。
「もう一度だけ、猫石たちを町の主役にしてあげたかったんだ。これは、私のわがまま」
境内では、薫と小学生たちの作戦で神社にやってきた町の人々が、それぞれ猫石を囲んでいた。
「ほら、これ。じいちゃんが若い頃に色を塗ったんよ」
一人の老人が、隣にいる孫へ誇らしそうに話している。
「え? おじいちゃんが、これ塗ったん?」
「そうよ。兼吉さんに教えてもろうてな。上手い下手は関係ないけえ、好きな色を塗りゃあええって」
孫は驚いたように目を丸くし、改めて猫石を覗き込んだ。
少し離れたところでは、男の子が友達の腕を引っ張っている。
「これ、うちの庭にいつもいるやつ! 金色で珍しいんだぜ」
「ほんとだ。すげえ!」
桃色に塗られた猫石の前では、浴衣姿の女の子たちが、「かわいい」と声を弾ませていた。
いつもは町の片隅に佇み、誰にも気に留められない猫石を、今夜は誰もが足を止めて見つめている。
「じゃあ、成功したみたいですね」
蓮が言った。
薫はもう一度、境内をゆっくりと見渡した。
「うん。大成功」
そう言って、嬉しそうに笑った。
「よし!」
弥太郎が突然、声を上げた。
「みんなまだ、カメラのフィルム残ってるよな? 猫石撮影会しようぜ!」
「いいね!」
柑奈が、浴衣に合わせた巾着から使い捨てカメラを取り出す。
「ここでいいのが撮れたら、間違いなく優勝候補だよね」
珠美も自分の巾着を探りながら、境内の猫石たちを見回した。
「でも、みんなで同じ猫石を撮ったら、勝負にならないんじゃない?」
三咲が言う。
「そこは撮り方で差が出るんだよ」
「珍しい猫石を撮った人は、ボーナスポイントゲットってことにしよう」
「おい珠、それ準備手伝ったお前が有利じゃねーか!」
「早い者勝ちだよ、弥太!」
弥太郎と珠美が、競うように猫石の輪へ駆けていく。
柑奈と三咲も笑いながら、そのあとを追った。
残り少ないフィルムを何に使うか迷いながら、四人はそれぞれ気に入った猫石を探し始める。
柑奈は、桃色の猫石とその隣で向かい合う猫石が、じゃれ合っているように見える構図を選び、カメラを向けた。
珠美は金色の猫石を見つけ、弥太郎に見せまいと背中で隠している。
三咲は花びらの模様が描かれた猫石の前で、じっくりと構図を考えていた。
弥太郎はどれを撮るか決められないらしく、大きな輪の周りを落ち着きなく歩き回っている。
蓮も使い捨てカメラを手に、並んだ猫石の間を歩いた。大きな話の他にも、境内の所々に猫石がいる。
写真王になれそうな一枚を撮ろうと、猫石を一匹ずつ眺めてみる。
笑っている猫。魚をくわえた猫。眼鏡をかけた猫までいる。
けれど、どれを撮ればいいのか決められなかった。
どの猫石も、それを囲む町の人たちも、今夜だけの特別な尾之浦の風景に思えた。
ふと、人垣の向こうに薫の姿が見えた。
薫は、ウインクの猫石がいる石灯籠のそばにしゃがみ込んでいた。境内の賑わいを眺めながら、猫石のその丸い頭を、指先でそっと撫でている。
その横顔には、作戦が成功した喜びの奥に、遠い昔を懐かしむような寂しさが、ほんの少しだけ滲んでいるように見えた。
あの猫石のそばには、薫が祖父と過ごした時間が、今も静かに残っているように思えた。
蓮は、カメラを構えた。
ファインダー越しに、こちらに気づいた薫と目が合う。
薫が微笑んだ。
その瞬間、蓮はシャッターを切った。




