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ヴァルハイム・プロトコル ―神代湊は平穏に生きられない―  作者: かたろーしゅ
第一章 再び響く角笛

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2話 再び始まる日常

翌朝。


 神代湊が目を覚ましたのは日の出前だった。


 長年染み付いた習慣は簡単には抜けない。


 目覚まし時計が鳴るより先に目が開く。


 ベッドから起き上がり、トレーニングウェアへ着替える。


 まだ薄暗い住宅街へ出る。


 冷たい朝の空気。


 静かな道。


 一定のペースで走る。


 呼吸を整えながら。


 身体の状態を確認しながら。


 約五キロ。


 決して長くはない。


 だが毎日続けている距離だった。


 走り終える頃には空が少しずつ明るくなり始めていた。


 帰宅後はシャワーを浴びる。


 そして制服へ着替える前にガレージへ向かった。


 昨夜引き取ってきたばかりのWRX。


 佳成が『クロエ』と呼ぶ愛車だ。


「WRXだ」


 誰もいないのに訂正する。


 当然返事はない。


 ボンネットを開ける。


 オイル量。


 冷却水。


 ベルト類。


 ホース類。


 タイヤの状態。


 ブレーキフルード。


 一つ一つ確認していく。


 異常なし。


 佳成が触った後だ。


 不具合などあるはずがない。


 それでも確認する。


 習慣だった。


 不意に昨夜の言葉を思い出す。


『帰って来い』


『クロエも』


『お前もだ』


 整備士らしい言葉だった。


 湊は静かにボンネットを閉じる。


 家へ戻る。


 リビングには誰もいなかった。


 静かだった。


 エマは帰ってきていない。


 昨夜も遅かった。


 事件処理や報告書、各省庁との調整に追われているのだろう。


 ひまりの姿もない。


 仕事か、あるいは既に学校へ向かった後か。


 テーブルの上には簡単な置き手紙だけが残されていた。


『朝ごはん冷蔵庫!』


 丸っこい字。


 ひまりだった。


 湊は少しだけ口元を緩める。


 冷蔵庫を開ける。


 サンドイッチとサラダ。


 それを簡単に済ませる。


 静かな朝だった。


 昨夜とは正反対だ。


 佳成の大声。


 萌夏の笑い声。


 萌の呆れた声。


 みゆきの穏やかな笑顔。


 賑やかな食卓。


 不思議なものだと思う。


 昨日まで知らなかったはずなのに。


 少しだけ思い出してしまう。


 食器を片付ける。


 鞄を持つ。


 玄関へ向かう。


 靴を履く。


 そして扉へ手を掛けたところで。


 一瞬だけ動きが止まった。


 何かを言い忘れたような気がした。


 だが分からない。


 結局そのまま扉を開く。


 朝の空気が流れ込んできた。


 湊は何も言わず家を出た。




 私立聖鳳学園。


 政財界との結び付きが強い名門校。


 官僚。


 外交官。


 政治家。


 企業経営者。


 警察幹部。


 自衛隊幹部。


 日本の中枢を担う人材を数多く輩出してきた学校。


 その校門を潜る。


 登校する生徒たち。


 整った制服。


 上品な会話。


 どこか独特の空気。


 何度見ても慣れない。


 湊は校舎へ向かった。




 教室の扉を開く。


 瞬間。


 数人の視線がこちらへ向いた。


「あ」


「神代くんだ」


「戻ってきた」


「久しぶりじゃない?」


 小さなざわめき。


 湊は軽く会釈して席へ向かう。


 その途中だった。


 ふと視線を感じる。


 窓際。


 天城美月だった。


 目が合う。


 一瞬だけ。


 時間が止まったような感覚。


「あ……」


 美月が小さく声を漏らした。


 湊はいつも通り答える。


「おはよう」


「お、おはようございます」


 思わず敬語が出た。


 言った本人が一番驚いている。


「……?」


 湊が首を傾げる。


 美月も慌てた。


「ち、違っ……いえ、その……」


 言葉が続かない。


 何を言えばいいのか分からない。


 心配した。


 無事でよかった。


 ありがとう。


 伝えたいことはたくさんある。


 なのに上手く出てこない。


「……」


「……」


 微妙な沈黙。


 以前ならもっと自然に話せたはずだった。


 だが今は違う。


 事件の夜。


 あの日見た神代湊は、自分の知っている同級生とはあまりにも違っていた。


「その……」


 美月が何か言おうとする。


 しかし。


「おはよう」


 教室の空気が変わった。


 柔らかな声。


 女子たちが一斉に振り返る。


「あっ」


「九条くんだ」


「来た」


「今日も顔がいい……」


 男子が呆れた顔をする。


「お前ら毎日言ってない?」


「毎日顔がいいから」


「意味分からん」


 教室へ入ってきたのは九条迅だった。


 整った顔立ち。


 爽やかな笑顔。


 自然と人を惹き付ける雰囲気。


 学年でも有名な人気者だ。


「おはよう九条くん!」


「おはよう」


「小テストやばいんだけど!」


「昨日勉強してただろ?」


「何で知ってるの!?」


「見えてた」


 女子たちが悲鳴を上げる。


 迅は苦笑した。


 慣れている。


 完全に慣れていた。


 そんな迅がふと視線を向ける。


 そして湊を見た。


「ああ」


 柔らかな笑顔。


「君が神代か」


 教室が少し静かになる。


「来た」


「来たね」


「ついに接触した」


「何が?」


「分からないならいい」


 女子たちが何か盛り上がっている。


 迅は気にしない。


 そのまま歩いてくる。


「初めまして」


 自然に手を差し出した。


「九条迅だ」


「神代湊」


 湊も手を伸ばす。


 握手。


 その瞬間だった。


 違和感。


 手だ。


 綺麗な手。


 だが鍛えられている。


 指。


 手首。


 前腕。


 力の流れ。


 立ち方。


 重心。


 そして姿勢。


 全てが繋がる。


(剣術)


 しかも。


(かなりの使い手だ)


 迅は笑顔を崩さない。


 だが。


(隙がない)


 湊は静かに警戒した。


 一方の迅も。


 笑顔の奥で観察していた。


(想像以上だな)


 立ち方。


 呼吸。


 視線。


 反応。


 目の前にいる少年は明らかに普通の高校生ではなかった。


「これからよろしく」


 迅が言う。


「ああ」


 湊が答える。


 そのやり取りを見ていた女子たちが小声で騒ぎ始める。


「並んだ」


「並んだね」


「強い」


「何がだよ」


「分からないならいい」


「怖ぇよ」


 男子たちが引いていた。


 だが当人たちは全く気付いていない。


 いや。


 気付く余裕がなかった。


 互いに相手を観察していたからだ。




 そしてホームルーム前。


 数日ぶりに登校した湊は、当然のように質問攻めに遭った。


「神代!」


「何で休んでたんだ?」


「入院?」


「怪我?」


「風邪?」


「実は海外行ってたとか?」


「彼女!?」


「最後の違うだろ!」


 次々と飛んでくる質問。


 湊は困っていた。


 どう答えればいいのか分からない。


 その時。


「おいおい」


 笑い声が割って入った。


 迅だった。


「退院したばかりの人間を囲むなよ」


 クラスが一瞬静かになる。


「確かに」


「それもそうか」


「悪い神代」


 迅は苦笑する。


「人気者は大変だな」


「そうなのか?」


「たぶん」


 周囲が笑った。


 自然な流れだった。


 誰も不自然だと思わない。


 だからこそ。


「神代」


 迅が言う。


「少しいいか?」


 その一言もまた自然だった。


 湊は一瞬だけ迅を見る。


 そして頷く。


「ああ」


 二人は教室を後にした。

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