2話 茂木モーター
内閣情報調査室本部を出た頃には、空はすっかり夕暮れ色に染まっていた。
数日ぶりの外の空気。
保護区画に閉じ込められていたわけではない。
だが自由でもなかった。
ようやく解放されたという感覚に近い。
そんなことを考えながら駐車場へ向かっていると、ポケットのスマートフォンが震えた。
画面を見る。
立花エマ。
通話ボタンを押した。
「はい」
『湊』
聞き慣れた声だった。
会議の時の冷たい声ではない。
どこか疲れていて、少しだけ柔らかい。
『一つ伝え忘れていたわ』
「何ですか?」
『あなたの車』
一瞬考える。
数秒後。
「あ」
『忘れていたのね』
呆れたような声が返ってきた。
「……忘れていました」
『でしょうね』
小さなため息が聞こえる。
『まだ茂木モーターにあるわ』
『事件の後、そのまま預かってもらっている状態よ』
「そうでしたか」
『修理代はこちらで処理してあるから心配しなくていいわ』
少し間が空いた。
『それとね』
「はい」
『佳成さんたちに顔を見せてあげて』
「顔ですか?」
『ええ』
『かなり心配していたみたいだから』
湊は少し首を傾げた。
「心配?」
『あなた、連絡もなくいなくなったでしょう?』
『あの人たち、本当に心配していたのよ』
そう言われても実感が湧かない。
湊は昔からそうだった。
誰かに心配されることに慣れていない。
むしろ心配する側だった。
『湊』
「はい」
『あなたはもう少し、人に心配されることに慣れた方がいいわ』
優しい声だった。
『みんながみんな、利用しようとして近付いてくるわけじゃないの』
数秒の沈黙。
『じゃあね』
『気を付けて帰るのよ』
通話が切れた。
湊はしばらくスマートフォンを見つめていた。
「……心配、か」
呟いてみる。
やはりよく分からなかった。
だがエマがそう言うなら、そうなのだろう。
湊は最寄り駅へ向かった。
電車を乗り継ぎ。
さらに徒歩十分。
目的地は郊外の工業地帯の外れにある。
茂木モーター。
外観だけ見れば潰れかけの町工場だった。
色褪せた看板。
年季の入ったシャッター。
所々剥げた塗装。
初めて来た人間なら間違いなく不安になる。
しかし。
湊は知っている。
この工場の本当の姿を。
シャッターの開いた工場内へ足を踏み入れる。
そこには最新設備が並んでいた。
大型リフト。
アライメントテスター。
車両診断システム。
タイヤチェンジャー。
塗装設備。
車速計測機材。
一般的なディーラー顔負けどころではない。
下手なレーシングガレージより設備が充実している。
相変わらず異常だった。
「……変わらないな」
その時。
工場の奥から金属を叩く音が響く。
そして。
車の下から足が出ていた。
誰かがリフトアップされた車の下で作業しているらしい。
「よし、こんなもん――」
ガンッ!!
「いっっっってぇぇぇぇ!!」
盛大な音と悲鳴。
数秒後。
オイルまみれの男が転がり出てきた。
無精髭。
作業着。
油汚れ。
どう見ても怪しい。
だが。
「湊ぉぉぉぉぉ!!」
満面の笑みだった。
「無事だったかぁぁぁ!!」
両腕を広げて突進してくる。
湊は半歩下がった。
回避。
佳成は空を抱き締める。
「何で避けるんだ!?」
「汚いので」
「酷い!!」
茂木佳成。
茂木モーター社長。
一流の整備士。
そして残念な人だった。
「心配したんだぞ!」
「そうですか」
「そうですかじゃない!」
「連絡取れねぇし!」
「立花さんに聞いても教えてくれねぇし!」
「萌も萌夏も心配してたんだぞ!」
湊は少しだけ驚いた。
本当に心配されていたらしい。
その時。
「パパうるさい」
工場の奥から少女の声が聞こえた。
工具箱を抱えた少女が歩いてくる。
髪を後ろでまとめた作業着姿。
茂木萌だった。
「あ」
一瞬だけ表情が柔らかくなる。
「湊さん」
「お久しぶりです」
「久しぶり」
短いやり取り。
しかし佳成は見逃さない。
「萌ぉぉぉ!!」
「湊来たぞ!!」
「見れば分かるよ」
「もっと嬉しそうにしろ!」
「うるさい」
即答だった。
佳成が傷付いた顔をする。
すると今度は別方向から元気な声が飛んできた。
「湊さーん!!」
勢いよく駆け寄ってくる少女。
茂木萌夏だった。
「久しぶりです!」
「久しぶり」
「湊さんニュースとか出てなくて良かった!」
「心配したんですよ!」
佳成が横から割り込む。
「パパも心配してたぞ!」
「パパは黙ってて」
「何で!?」
萌夏は真顔だった。
「だってキモいし」
佳成が崩れ落ちた。
その様子を見ていた萌が呟く。
「いつものだね」
「いつものだな」
二人の意見が一致した。
その時。
工場の奥から女性が顔を出した。
「あらあら」
穏やかな笑顔。
細められた目。
茂木みゆきだった。
「湊さん」
「いらっしゃい」
「ご無沙汰しています」
「本当よ」
みゆきは笑う。
「みんな心配していたんだから」
そして佳成を見る。
「特にこの人」
「毎日クロエちゃん見ながら落ち込んでたもの」
「みゆきさん!?」
顔を真っ赤にする佳成。
みゆきは無視した。
「それより湊さん」
「はい」
「ご飯食べていくでしょう?」
湊は首を傾げた。
「え?」
「食べていくわよね?」
柔らかい笑顔。
だが拒否権はなさそうだった。
佳成も頷く。
「当然だな!」
「今日は湊帰還記念だ!」
「クロエも喜んでる!」
「車は喜びません」
「喜ぶ」
「喜びません」
「クロエだぞ?」
「WRXです」
不毛な会話だった。
その様子を見ていた萌夏が笑い出す。
萌も小さく笑った。
みゆきも楽しそうに微笑んでいる。
賑やかな声が工場へ響く。
湊はそんな光景を見つめていた。
少しだけ。
本当に少しだけ。
胸の奥が温かくなる感覚がした。
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