1話 朝の足音2
ガレージを後にした湊は家の中へ戻った。
リビングへ入った瞬間、少しだけ眉を上げる。
昨日まで散乱していた書類の山が消えていた。
ソファに放置されていたブランケットも綺麗に畳まれている。
テーブルの上に残っているのはコーヒーカップが一つだけ。
比較的まともな状態だった。
「ひまりが来たのか」
湊が言う。
後ろから入ってきたエマが微妙な顔をした。
「その言い方だと、普段の私が片付けられない人みたいじゃない」
「違うのか」
「……そういうところよ」
否定できなかった。
それが答えだった。
冷蔵庫から朝食を取り出す。
焼き鮭。
味噌汁。
卵焼き。
白米。
典型的な和朝食。
当然ながら作ったのはエマではない。
「ひまり、補佐官より家政婦の方が向いているんじゃないか」
「本人に言ったら泣くわよ」
「事実だ」
「なお悪い」
エマは呆れながら席に着いた。
二人は向かい合って朝食を取る。
しばらく静かな時間が流れた。
テレビでは朝のニュースが流れている。
政治。
経済。
海外情勢。
内容は自然と耳に入った。
「そういえば」
味噌汁を口にしたエマが言った。
「ひまりが今日からあなたの担任だから」
湊の箸が止まる。
「担任?」
「ええ」
数秒沈黙。
「なぜだ」
「監視役」
即答だった。
「なるほど」
「納得しないで」
エマが頭を抱える。
「建前くらいあるでしょう」
「違うのか」
「違わないけど」
違わないらしい。
「本人は教師として赴任したって言い張ってるから、一応そういうことにしてあげて」
「理解した」
「はい」
即座に訂正が飛んだ。
湊が視線を向ける。
「何だ」
「理解したじゃないの」
「意味は同じだ」
「同じじゃありません」
教師が生徒を叱るような口調だった。
「普通の高校生はそんな返事しないの」
「そうなのか」
「そうなの」
エマは真顔で頷く。
「今日から高校生なんだから覚えなさい」
「了解」
「はい」
「……はい」
「よろしい」
満足そうに頷くエマを見て、湊は少しだけ不思議そうな顔をした。
だがエマにとっては重要だった。
軍人でもない。
工作員でもない。
実験体でもない。
神代湊は今日から高校生なのだから。
◇
朝食を終えた湊は自室へ戻る。
私立聖鳳学園の制服が掛けられていた。
濃紺のブレザー。
上質な生地。
無駄のないデザイン。
名門校らしい落ち着いた制服だった。
袖を通し鏡を見る。
プラチナブロンドの髪。
色素の薄い瞳。
整った顔立ち。
どう考えても目立つ。
「普通の高校生は無理があるな」
今さらだった。
階段を下りる。
玄関では既にエマが身支度を終えていた。
黒のスーツ。
整えられた金髪。
仕事用の表情。
数分前までの気の抜けた雰囲気は消えている。
内閣情報調査室国際情報部長。
立花エマだった。
「似合ってるじゃない」
「そうか」
「もう少し喜びなさい」
「制服に感想を持ったことがない」
「でしょうね」
エマは苦笑した。
そしてネクタイの位置を少しだけ直す。
自然な仕草だった。
「湊」
「何だ」
「今日から高校生よ」
「知っている」
「あなたにとっては任務じゃない」
静かな声だった。
「監視でもないし、潜入でもない。誰かを守る必要も、戦う必要もない」
湊は黙って聞いている。
「友達を作って、勉強して、馬鹿な話をして、放課後に寄り道して帰る」
エマは少し笑った。
「普通の十八歳がやることをやりなさい」
その言葉には強い願いが込められていた。
「過去は消えないわ」
「……」
「でも過去だけで生きる必要もない」
湊の瞳がわずかに揺れる。
「あなたはもうヴァルハイムの実験体じゃない」
エマは真っ直ぐ湊を見た。
「ブリュンヒルデでもない」
そして。
「あなたは神代湊なんだから」
父と母からもらった名前。
ヴァルハイムが奪おうとした名前。
エマが守り続けてきた名前。
その言葉だけは、他の何よりも重かった。
「分かった」
「はい」
「……はい」
「よろしい」
エマは満足そうに微笑む。
「問題を起こさないでね」
「善処する」
「はい」
「……はい」
「よろしい」
今日三回目だった。
◇
「行ってきます」
一瞬だけエマが目を丸くした。
それから柔らかく笑う。
「行ってらっしゃい、湊」
その言葉に見送られながら、神代湊は家を出た。
そして十分後。
黒いWRX S4は聖鳳学園近くのコインパーキングへ停車していた。
結局、車で来た。
エマが見たら頭を抱えるだろう。
だが反対はされた。
禁止はされていない。
湊の認識では問題ない。
校門へ向かう。
そこには高級車が並んでいた。
黒塗りのセダン。
輸入車。
高級SUV。
運転手付きの車も珍しくない。
「普通の学校じゃないな」
小さく呟く。
その時だった。
「あっ……」
後ろから小さな声が聞こえた。
振り返る。
そこにいたのは一人の少女だった。
長い黒髪。
整った顔立ち。
品のある雰囲気。
制服姿がよく似合う。
自然と周囲の視線を集める少女だった。
「すみません」
少女が少し困ったように言う。
「高等部の入学式会場って、この先で合ってますか?」
湊は案内板を見る。
「合っている」
「よかった」
少女は安堵したように微笑んだ。
「少し迷ってしまって」
「校門から真っ直ぐだ」
「ありがとうございます」
その時。
「天城さんだ」
「本当にいた」
「やっぱり綺麗だな」
周囲からそんな声が聞こえてきた。
少女は少し困ったように笑う。
そこで湊は理解した。
天城。
その姓には聞き覚えがある。
天城恒一。
元防衛大臣。
エマの元上司。
日本の安全保障政策を支える大物政治家。
「天城美月か」
少女は目を丸くした。
「あれ?」
「何だ」
「知ってたんですね」
「名前だけは」
その返事に美月は少し笑う。
「珍しいですね」
「そうなのか」
「大体、父の話から始まるので」
少しだけ寂しそうな笑顔だった。
「神代くんは違うんですね」
湊は少し考える。
「俺は天城議員しか知らない」
一瞬。
美月の表情が柔らかくなった。
「それ、結構嬉しいかも」
神代湊と天城美月。
二人の出会いは、あまりにも普通だった。
だからこそ。
後に起こる事件が、その日常を大きく揺るがすことになる。
ご拝読ありがとうございます。
感想やコメント、リアクションをいただけると励みになります。
引き続きよろしくお願いします。




