1話 朝の足音1
2026/6/8 主人公車両イメージ添付
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朝は静かだった。
少なくとも、この国では。
まだ街が完全に目を覚ましていない時間。
住宅街の道路には人影も少なく、聞こえてくるのは遠くを走る車の音と鳥のさえずりくらいだった。
そんな静寂の中を、一人の少年が走っていた。
規則正しい足音。
乱れない呼吸。
一定の速度。
神代湊は住宅街の歩道を走り続けていた。
誰かと競っているわけではない。
健康のためでもない。
ただ身体を維持するためだった。
筋力。
持久力。
反応速度。
視野。
感覚。
全てが鈍っていないか確認する。
それは習慣だった。
もっと正確に言えば、生き残るために身に付いた癖だった。
普通の高校生には必要のない習慣。
だが湊にとっては違う。
走りながら周囲を確認する。
交差点。
路地。
建物の屋上。
停車中の車両。
視線を向けたつもりはない。
しかし脳は勝手に情報を処理していた。
危険なし。
異常なし。
追跡なし。
監視なし。
平和だった。
あまりにも平和すぎる。
だからこそ逆に違和感がある。
そんな感覚を覚える自分の方が異常なのだろうと、湊は理解していた。
「……変わらないな」
小さく呟く。
この国の日常は今日も平和だ。
それは良いことのはずだった。
走り終えた湊が帰宅したのは午前六時過ぎ。
郊外に建つ一軒家。
外から見れば少し大きめの普通の住宅だ。
だが敷地の構造はどこか機能的だった。
侵入経路。
死角。
避難動線。
それらを意識した配置になっている。
普通の人間なら気付かない。
だが湊は気付いてしまう。
そういう訓練を受けてきたからだ。
玄関には向かわず、ガレージへ足を向ける。
シャッターを開ける。
冷たい空気と金属の匂いが流れ出した。
三台分のスペース。
その中央に、一台の車が静かに眠っている。
白いインプレッサWRX。
GC8。
年式は古い。
だが湊にとっては特別な車だった。
父親ではない。
血の繋がりもない。
それでも父親代わりだった男が最後まで乗っていた車。
今も動かないままそこにある。
湊はしばらく無言で見つめていた。
記憶が蘇る。
銃声。
炎。
崩れた家。
逃げろと叫ぶ声。
振り返るなと言われた最後の命令。
そして――。
そこで思考を切る。
過去を考えても何も変わらない。
そう理解しているからだ。
「……まだ動かしてないのか」
誰に向けるでもなく呟く。
返事はない。
当然だった。
もう持ち主はいない。
その隣に停められている黒いWRX S4へ視線を移す。
こちらは今の愛車だった。
ドアを開く。
運転席へ座る。
スタータースイッチを押す。
水平対向エンジンが目を覚ました。
低い振動。
メーターの点灯。
油温。
水温。
警告灯。
異常なし。
湊は数秒間だけ耳を澄ませる。
アイドリング音。
回転の安定性。
微かな振動。
問題ない。
「確認終了」
「朝から車の点検?」
背後から声がした。
振り返らなくても分かる。
立花エマ・ウィンチェスターだった。
少し寝癖の残る金髪。
片手にはマグカップ。
まだ仕事前のラフな服装だ。
「確認だ」
「毎日よね、それ」
「必要だからな」
「そういう返しをするところ、本当に可愛くないわ」
エマは呆れたように言いながらガレージへ入ってくる。
そして黒いWRXを見た瞬間、何かを察したように目を細めた。
「……それ、今日も乗って行くつもり?」
「そのつもりだ」
即答だった。
エマは深々とため息を吐く。
「やっぱりそうなるのね……」
「何か問題があるか」
「問題しかないわ」
こちらも即答だった。
湊は首を傾げる。
本気で分かっていない顔だ。
それが余計にエマの頭を痛くする。
「高校生でしょう、あなた」
「高校生だ」
「だったら普通は電車かバス」
「効率が悪い」
「効率の話じゃないの」
エマは額を押さえた。
「そもそも高校一年生が車で通学する時点で普通じゃないのよ」
「学校の駐車場には停めない」
「だからそういう問題じゃないって言ってるでしょう」
またため息。
朝から三回目だった。
国家安全保障に関わる重大案件を何度も処理してきたエマだが、神代湊を普通の高校生として扱うことだけは未だに慣れなかった。
「湊」
「何だ」
「今日から入学式よ」
「知っている」
「あなたには普通の生活を送ってほしいの」
保護者としての声だった。
上官ではなく、家族に近い立場の人間としての声。
「普通に登校して、普通に授業を受けて、普通にクラスメイトと話して、普通に友達を作る。それが今日の目的」
「努力はする」
「努力するなら電車に乗りなさい」
「検討する」
エマの眉がぴくりと動いた。
「その言い方をする時のあなた、大体もう結論決まってるわよね?」
湊は答えない。
沈黙だけが返る。
それで十分だった。
「……はぁ」
エマは再びため息を吐く。
本気で止めるなら方法はいくらでもある。
鍵を預かることもできる。
命令を出すこともできる。
だが、それはしたくなかった。
湊は命令に従うことに慣れすぎている。
だからこそ、自分で考え、自分で選ぶ人間になってほしい。
それがエマの願いだった。
「とにかく」
エマは真っ直ぐ湊を見る。
「私は反対よ」
「そうか」
「反対だからね?」
「理解した」
理解した。
だが従うとは言っていない。
長い付き合いだ。
エマにはそれが分かる。
一方で湊も理解していた。
エマが心配していることも。
普通の高校生活を願っていることも。
全部理解している。
ただ、それと車で通学するかどうかは別問題だと思っているだけだった。
その認識のずれこそが、二人の日常だった。




