1話 エピローグ3
倉庫内に残っていた怒声が、ようやく収まった。
「返事は」
「……はい」
「聞こえない」
「はい」
「よろしい」
エマは大きく息を吐いた。
ようやく説教が終わる。
周囲の隊員たちも、内心ではほっとしていた。
誰も口には出さない。
だが正直なところ、先ほどまで敵組織を壊滅させた少年より、今のエマの方がよほど怖かった。
エマは表情を切り替える。
感情を消す。
仕事の顔。
立花エマ。
内閣情報調査室国際情報部長。
現場指揮官の顔だった。
「全員聞いて」
声が響く。
隊員たちが一斉に振り向く。
「現場にいる構成員は全員拘束。医療班は治療を優先。抵抗不能者も含めて身元確認を進めて。武器類は全て押収。現場保存も忘れないで」
「了解」
「了解しました」
返答と同時に隊員たちが動き始める。
負傷者の止血。
拘束。
証拠品回収。
写真撮影。
現場記録。
崩壊した組織の後始末が始まった。
エマはそれを確認してから、湊へ向き直る。
「湊」
「はい」
「詳しい事情聴取は帰ってから」
「はい」
「一時帰投」
「はい」
「勝手な行動は禁止」
「はい」
反省しているのかしていないのか分からない。
だが大人しく従っている。
エマは小さく頷いた。
「よし。じゃあ行きなさい」
湊は黙って歩き出す。
倉庫の外へ。
エマも次の指示を出そうとして――違和感に気付いた。
「……何してるの?」
湊が向かっている方向。
そこには黒いWRXが停まっていた。
エマの眉がぴくりと動く。
「車で戻ります」
湊は当然のように答える。
「は?」
「自分で来たので」
「だから何?」
「自分の車なので」
真顔だった。
本気で言っている。
エマは頭を抱えたくなった。
「そういう問題じゃないの」
「……?」
本当に分かっていない。
エマは額を押さえる。
「車は後で回収する」
「はい」
「あなたは隊員たちと帰る」
「ですが」
「ですがじゃない」
「……」
「事情聴取」
「はい」
「反省」
「……はい」
「帰投」
「はい」
少しずつ声が小さくなっていく。
エマはさらに畳みかける。
「そもそも高校一年生が一人で誘拐事件を追いかけて」
「はい」
「首都高でカーチェイスして」
「はい」
「犯罪組織の拠点に単独突入するのがおかしいの」
「……はい」
「分かった?」
「分かりました」
しょんぼりしていた。
分かりやすいほどに。
湊はゆっくり振り返る。
そして隊員たちが乗ってきたワゴン車へ向かう。
足取りが重い。
明らかに重い。
ひまりが小声で呟く。
「しょんぼりしてますねぇ」
「してるわね」
エマも否定できなかった。
つい先ほどまで、三十人近い相手を一人で制圧していた少年。
それが今は、叱られた大型犬にしか見えない。
見えないはずの尻尾が、力なく垂れている気がした。
湊は何度か愛車を振り返りながら、渋々ワゴン車へ乗り込んだ。
ドアが閉まる。
完全敗北だった。
エマは深いため息を吐く。
「……本当に」
誰にも聞こえないほど小さな声。
「手の掛かる子ね」
そして気持ちを切り替えた。
まだ終わっていない。
今からが本番だ。
エマは天城美月へ歩み寄る。
美月のそばには、ひまりが付き添っていた。
「天城さん」
「はい」
「怪我は?」
「大丈夫です」
「病院で診察は受けてもらうけど、気になるところがあれば教えてね」
美月は小さく頷く。
エマも少しだけ安堵した。
「詳しい事情は後で聞かせてもらう。今日はもう十分よ」
「……はい」
「お父様のところまで送るわ」
その言葉を聞いた瞬間、美月の肩から力が抜けた。
ようやく終わった。
そう実感したのだろう。
◇
数分後。
三人は車へ乗り込んだ。
運転席にはエマ。
助手席には美月。
後部座席にはひまり。
車が発進する。
湾岸埠頭の夜景が後ろへ流れていく。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、美月が口を開く。
「神代くんって……」
エマは前を向いたまま聞いている。
「何者なんですか?」
車内が静かになる。
ひまりも答えない。
エマは少しだけ考えた。
「特殊な経歴を持つ子よ」
それが最初の答えだった。
「特殊な……」
「ええ」
エマは続ける。
「幼い頃に両親を亡くしている。その後、色々あって私が保護することになった。今は私と一緒に暮らしてる」
美月は驚いた顔をする。
そんな事情は知らなかった。
「でも」
エマは言葉を区切る。
「今はただの高校生よ」
それ以上は言わない。
言えない。
ヴァルハイム。
ブリュンヒルデ。
その全ては機密だった。
◇
やがて車は都心部へ入った。
高級住宅街。
巨大な門。
警備員。
そして天城邸。
車が停止する。
門が開く。
玄関前には、すでに一人の男が立っていた。
天城恒一。
元防衛大臣。
普段なら冷静な政治家。
だが今は違う。
娘を待つ、一人の父親だった。
車が止まると同時に駆け寄る。
「美月!」
「お父さん!」
恒一は娘を抱きしめた。
肩。
顔。
腕。
怪我がないか確かめる。
「無事か」
「うん」
「本当に無事か」
「大丈夫」
ようやく恒一の表情が緩んだ。
安堵だった。
そしてすぐに使用人へ指示を出す。
「美月を休ませてくれ」
「はい」
「温かいものも用意してあげてください」
「かしこまりました」
美月が屋敷の中へ向かう。
玄関で一度だけ振り返った。
何か言いたそうだった。
だが結局、何も言わずに小さく頭を下げる。
そして屋敷の奥へ消えた。
恒一は改めてエマとひまりを見る。
「中へ」
「状況を聞かせてください」
◇
応接室。
重厚な木製の扉が閉まる。
室内には静かな空気が流れていた。
天城恒一がソファへ腰を下ろす。
政治家として数々の修羅場を経験してきた男だったが、その表情にはまだ娘を取り戻した父親としての安堵が残っていた。
向かいには立花エマ。
その隣には小鳥遊ひまり。
ひまりは普段通りの柔らかな笑みを浮かべている。
だがその目は真剣だった。
恒一が口を開く。
「報告をお願いします」
エマは頷く。
「まず結論から申し上げます」
静かな声だった。
「今回の件を、単純な誘拐事件とは考えていません」
恒一の表情が変わる。
「私もそう思っていました」
エマは続ける。
「狙われたのは天城美月さんです。ですが目的は彼女本人ではない」
数秒の沈黙。
そして。
「狙われたのは、天城恒一元防衛大臣。あなたです」
恒一は否定しなかった。
驚きもしない。
むしろ予想していたようだった。
「理由は」
「現段階では不明です」
エマは即答する。
「ですが、本日の一連の事件を見れば偶然とは思えません」
机の上へ資料が置かれる。
「夕方以降、都内各所で同時多発的なトラブルが発生しました。交通事故、通報事案、不審者騒ぎ、通信障害、各種緊急対応。結果として警察や関係機関の人員は分散しました」
恒一が腕を組む。
「陽動か」
「その可能性が高いと考えています」
エマが頷く。
「少なくとも自然発生ではありません〜」
ひまりが補足する。
「タイミングが綺麗すぎるんですよね〜。偶然で済ませるには、ちょっと無理があります〜」
恒一は小さく息を吐いた。
「随分と大掛かりだな」
「ええ」
エマは迷いなく答える。
「だからこそ問題です。これだけの作戦を実施できる組織が存在している。その事実自体が脅威です」
「海外勢力か」
「可能性はあります。国内勢力の可能性も否定できません。どちらにせよ危険です」
エマの声は冷静だった。
だがそこに楽観は一切ない。
「今回で終わる保証はありません。むしろ始まりかもしれません」
恒一が黙る。
エマは続ける。
「要人誘拐。重要施設への攻撃。大規模テロ。今後さらに大きな行動へ発展する可能性があります」
静寂。
時計の音だけが聞こえる。
恒一の顔から父親としての表情が消えていた。
代わりに現れたのは、国家に関わる政治家の顔だった。
「厄介だな」
「はい」
エマは頷く。
「非常に」
ただし、とエマは話を区切る。
「現状では情報が不足しています。拘束した現場責任者、押収した通信機器、回収した資料。これらの解析が終われば、見えてくるものもあるでしょう」
ひまりも頷く。
「今、みんなが頑張って調べてます〜。尋問結果が出れば、色々分かると思います〜」
エマは恒一を見る。
「新しい情報が得られ次第、改めてご相談します」
「分かりました」
恒一も頷いた。
「よろしく頼みます」
そこで一度話が途切れる。
緊張感が少しだけ和らいだ。
そして、恒一が苦笑する。
「それで」
「もう一つの問題があるな」
エマもため息を吐いた。
「ありますね」
ひまりが視線を逸らす。
なんとなく察している。
「神代君か」
恒一の言葉に、エマは静かに頷く。
「はい」
数秒の沈黙。
そして恒一が言う。
「あの子は表に出して大丈夫なのか」
「大丈夫ではありません」
即答だった。
あまりにも即答だった。
ひまりが思わず吹き出しそうになる。
恒一も少しだけ目を丸くする。
エマは真顔だった。
「全く大丈夫ではありません」
「高校一年生が単独で誘拐事件を追跡。首都高速で対象車両を発見。そのまま湾岸埠頭まで追跡。敵拠点へ単独突入。組織を壊滅。被害者救出」
淡々と並べられる。
改めて聞くと意味が分からない。
ひまりがぼそりと呟いた。
「文字にすると酷いですね〜」
「酷いわね」
エマも同意した。
恒一は額へ手を当てる。
「警察は納得しないだろうな」
「しません」
「公安も」
「しません」
「政府も」
「絶対にしません」
即答だった。
ひまりがまた吹き出しそうになる。
エマは真剣そのものだった。
「だからこそ」
エマは真っ直ぐ恒一を見る。
「神代湊を守るためにも、説明可能な状況を作らなければなりません」
恒一も静かに頷いた。
その必要性は理解している。
今日一日で起きた出来事は、あまりにも常識から外れすぎていた。
「協力しよう」
短い言葉だった。
だが重みがある。
元防衛大臣として。
そして娘を救われた父親としての返答だった。
エマは小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
応接室に再び静寂が訪れる。
誘拐事件は終わった。
だが彼ら全員が理解していた。
本当に厄介なのは、ここから始まる後始末の方だということを。
これで1話終了です。
更新頑張っていきますので何卒お付き合いください。
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