1話 天城救出作戦2
事故区間を突破してから十分ほどが経過していた。
空はすでに夜の色へ変わっている。
湾岸エリア特有の冷たい風が吹き抜け、遠くの海面には港湾施設の灯りが揺れていた。
黒いWRX S4は倉庫街から少し離れた暗がりに停車している。
エンジンが止まる。
水平対向エンジン特有の振動が消え、周囲を静寂が包んだ。
神代湊はすぐには車を降りなかった。
シートへ深く腰掛けたまま前方を見る。
巨大な倉庫群。
無数のコンテナ。
高所照明。
大型トレーラー。
そして、それらが生み出す濃密な死角。
「……」
首都高とは違う。
あちらは単純だった。
敵車両の位置。
速度。
距離。
全て見えていた。
だから追えた。
だがここは違う。
見えない。
それが第一印象だった。
湊はセンターコンソール横へ手を伸ばす。
小さな収納スペース。
そこから一本のナイフを取り出した。
黒いシースに収められたタクティカルナイフ。
護身用として車に積んでいたものだ。
刃渡りは長くない。
だが十分だった。
湊は慣れた手付きで腰の後ろへ差し込む。
拳銃はない。
通信機もない。
あるのはこのナイフ一本だけ。
それでも表情は変わらなかった。
静かにドアを開く。
夜風が流れ込む。
車外へ降りる。
ドアは閉めない。
必要になれば即座に離脱するためだ。
視線を倉庫街へ向ける。
照明は多い。
だが明るい場所ほど影も濃い。
コンテナは壁となり。
倉庫は視界を遮り。
奥行きを完全に殺している。
どこに人がいるのか。
どこに見張りがいるのか。
天城美月がどこへ連れて行かれたのか。
何一つ分からない。
(当然だ)
焦りはない。
むしろ予想通りだった。
ここは敵の拠点だ。
相手が選び。
相手が準備し。
相手が支配している場所。
何も見えないのは当たり前。
もし見えるなら、それは罠だ。
湊はその場から動かない。
まず耳を使う。
風。
波。
コンテナの軋み。
遠くで稼働する発電機。
大型車両のエアブレーキ。
そして。
人の声。
小さい。
だが確かに聞こえる。
複数。
一人や二人ではない。
視線を向ける。
しかし位置は掴めない。
倉庫とコンテナが音を反射している。
数も配置も不明。
それでも分かることはあった。
(思ったより多い)
誘拐実行班だけではない。
待機要員。
警戒要員。
引き渡し要員。
最低でも十人以上。
下手をすればさらにいる。
想定より大規模だった。
その時。
動く影を見つけた。
倉庫街外周。
二人組。
男たちが歩いている。
ゆっくりと。
周囲を見ながら。
だが緊張感は薄い。
本気の警戒ではない。
追われる側の動きではなく、追う側の動きだった。
湊は目を細める。
二人は何か話している。
距離があるため内容は聞こえない。
それでも十分だった。
巡回。
あるいは捜索班。
現場責任者の指示で動いている人間だろう。
二人は照明の下を通過する。
倉庫の脇を抜ける。
そしてコンテナ群の間へ入っていった。
死角。
人目の届かない空間。
湊は数秒動かない。
周囲を確認する。
別の巡回は見えない。
監視の視線もない。
距離も十分。
条件は悪くなかった。
(あれを使う)
天城の場所は分からない。
敵の規模も分からない。
指揮官が誰かも分からない。
だが。
あの二人は何かを知っている。
少なくとも、自分よりは。
それで十分だった。
救出の前に情報。
行動の前に確認。
それが先だ。
湊は静かに歩き出す。
足音はない。
呼吸も消す。
照明から影へ。
影からさらに深い影へ。
腰には一本のナイフ。
その姿は夜の倉庫街へ溶け込むように消えていく。
前方では二人組がまだ話している。
自分たちが監視されていることにも気付かずに。
神代湊は距離を詰める。
まるで獲物へ近付く捕食者のように。
男たちはまだ知らない。
今夜、自分たちが最初の情報源になることを。
そして。
最初に姿を消す人間になることを。
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