1話 カーチェイス4
2026/6/8 本文修正
車内は暗かった。
後部座席の窓は黒いフィルムで覆われている。
外の景色は何も見えない。
どこを走っているのかも。
今がどの辺りなのかも。
全て分からなかった。
分かるのは、自分がまだ連れ去られたままだということだけ。
「……っ」
天城美月は小さく身を縮めた。
両手には簡易的な拘束具。
強固なものではない。
だが外せる状況ではなかった。
手が震える。
呼吸が浅い。
頭の中では何度も同じ言葉が繰り返される。
どうして。
なんで。
何が起きているの。
答える人はいない。
誰も教えてくれない。
そして。
外から聞こえる音だけが、不安をさらに大きくしていた。
甲高いタイヤ音。
遠くで響く衝突音。
何かが砕けるような音。
金属が悲鳴を上げるような音。
近いのか遠いのかも分からない。
ただ。
安全な音ではなかった。
警察のサイレンでもない。
助けが来た音でもない。
それだけは分かる。
「やだ……」
震える声が漏れる。
「やだよ……」
返事はない。
◇
運転席の男は汗を流していた。
呼吸が荒い。
ハンドルを握る指先が白くなっている。
「クソッ……!」
吐き捨てる。
バックミラーを見る。
何も映らない。
だが安心はできない。
無線が鳴る。
『チャーリー2、ロスト!』
男の顔色が変わった。
「……は?」
一瞬。
意味が理解できなかった。
ロスト。
その単語だけが耳に残る。
チャーリー2。
後方警戒車両。
最後尾。
追跡妨害を突破されたとしても、あいつがいる限り時間は稼げるはずだった。
『ブラボーより各車!』
無線が荒れる。
『後方排除失敗! アルファを逃がせ!』
その瞬間。
男の背筋を冷たいものが走った。
逃がせ。
その言葉が異常だった。
作戦開始から今まで、一度も使われなかった言葉。
逃がせ。
つまり。
守る側が追い詰められている。
「ふざけんな……!」
アクセルを踏み込む。
エンジンが唸る。
速度が上がる。
理性ではない。
反射だった。
逃げなければならない。
そう本能が叫んでいる。
無線はまだ続いていた。
『ブラボー、ダウン!』
『チャーリー1――』
ノイズ。
絶叫。
金属音。
そして途切れる通信。
男は聞きたくなかった。
聞けば理解してしまう。
何が起きているのかを。
「うるせぇ……!」
怒鳴る。
だが誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
無線か。
仲間か。
それとも自分自身か。
通信機からはノイズだけが流れ続ける。
もう命令系統は機能していない。
チームは崩壊した。
それだけは分かった。
◇
後部座席。
美月は震えながら顔を上げた。
運転席の様子がおかしい。
さっきまでとは明らかに違う。
焦っている。
怯えている。
追い詰められている。
何が起きているのかは分からない。
でも。
何かが起きている。
それだけは分かった。
無線から聞こえる断片的な声。
怒鳴り声。
悲鳴。
衝撃音。
そして沈黙。
まるで少しずつ何かが壊れていくようだった。
男は必死に前だけを見ている。
バックミラーを見ない。
後ろを振り返らない。
振り返る勇気がないように見えた。
美月は唇を噛む。
怖い。
何も分からない。
だけど。
不思議なことに。
ほんの少しだけ。
胸の奥に違う感情が生まれていた。
運転席の男が怯えている。
つまり。
誰かがこの男達を追い詰めている。
そんな考えが頭をよぎる。
根拠はない。
希望と呼ぶにはあまりにも小さい。
それでも。
完全な絶望ではなくなっていた。
◇
ハイエースは速度を落とさない。
湾岸エリアへ入る。
倉庫群。
コンテナヤード。
人気のない工業地帯。
やがて一台の大型倉庫が見えてきた。
男はようやく息を吐く。
「着いた……」
それは安堵だった。
ここまで来れば終わる。
そう思い込もうとしている声だった。
だが。
その願いが叶うことはない。
彼はまだ知らない。
自分達を追っていたのが警察ではないことを。
そして。
それが最も恐れるべき相手だったことを。




