第三十三話 叫び声と崖と安否
「――ッ、お嬢様ッ!」
ロージーのものらしき叫び声を聞いた瞬間に血相を変えたリーナは、弾かれたように声のした方向へ駆け出そうとした。
「だ、大丈夫ですかッ? お嬢さ――」
「ちょ! 待って下さい、リーナさんッ! ストップッ!」
だが、鬱蒼と茂る下草を掻き分けながら先へ進もうとするリーナの腕を、アッシュヴェルが慌てて掴む。
邪魔をされた格好のリーナは、アッシュヴェルの顔をキッと睨みつけた。
「何で止めるのッ! 早くお嬢様の元に行かないと!」
「いや、ダメですって! その先に行っちゃ!」
リーナの金切り声と同じくらいの鋭い声で叫んだアッシュヴェルは、真剣な顔で茂みの向こうを指さす。
「あなたもロージーさんと同じように下まで落っこちたいんですかッ?」
「……えっ?」
すっかり頭に血が上っていたせいで、アッシュヴェルの言葉の内容を理解し切るのに時間がかかったリーナは、一瞬遅れて息を呑んだ。
「お、落っこちた……?」
「……見て下さい」
目をパチクリさせるリーナに小さく頷きかけたアッシュヴェルは、生い茂る下草を手でどかし、その先に広がる光景を彼女に見せる。
「草に覆われて見えませんでしたが、この先は崖になってます。あと数歩先に進んでいたら、真っ逆さまでしたよ」
「……!」
淡々としたアッシュヴェルの説明に青くなったリーナだったが、すぐに別の可能性に思い当たるや、その顔色が青から白に変わった。
「じゃ……じゃあ! まさか……お、お嬢様……っ!」
そううわごとのように呟いた彼女は、メイド服のロングスカートが汚れるのも厭わずに膝をつき、崖の縁から下を覗き込む。
崖の高さは十エイム近くあり、流れの速い川がごうごうと音を立てていた。
その光景を見て、最悪の想像が脳裏を過ぎったリーナは、気が遠くなりながら崖下へ向けて声を張り上げる。
「お……お嬢様っ! ご無事ですかっお嬢様あああああ――っ!」
「あ、うん、全然だいじょうぶー」
「……え?」
絶望に満ちた自分の絶叫とはあまりに温度差が違う緩い声が返ってきた事に戸惑いながら、リーナはもう一度崖の下に目を凝らした。
「あ、リーナ、そっちじゃないよ。こっちこっち~!」
「お……お嬢様っ!」
リーナは、自分の真下から少しずれた所で手を振っている主の姿を見つけ、今度は歓喜の叫び声を上げる。
着ているローブは土埃まみれで、きれいに手入れされた銀蒼色のポニーテールもボサボサに乱れていてひどい有様だったが、いたって平気そうだ。
「心配させちゃってごめんね! 観察に夢中になってたら、うっかり足を踏み外して落っこっちゃった」
「……まったく」
照れ笑いを浮かべながら謝るロージーを見ながら、リーナはホッと息を吐く。
少し遅れて、彼女の背中越しにひょいっと顔を出したアッシュヴェルも、安堵の笑みを浮かべながら崖の下のロージーに声をかけた。
「大丈夫ですか、ロージーさん? どこかケガとかしてませんか?」
「あ、だいじょうぶですー」
アッシュヴェルの問いかけに、ロージーは笑顔でかぶりを振る。
「ラッキーな事に、落ちたのが柔らかい草の上だったので、ちょっとお尻が痛いくらいで……全然平気でーす!」
「あぁ、それは良かった」
彼女の答えを聞いて頷いたアッシュヴェルは、切り立った崖の斜面を上から見渡し、表情を曇らせた。
「……結構傾斜が急ですね。下から見て、ここまで登ってこれそうなところはありますか?」
「えー……と……」
アッシュヴェルの問いかけに、ロージーもキョロキョロと周囲を見回す。
……と、その時、
――ガサッ ガササッ
彼女がいる河原から少し離れた茂みが、不自然に揺れ動いた。
「……ん? なんだろ?」
葉が擦れ合う音に気付いたロージーは、首を傾げながら茂みの方に一歩足を踏み出す。
――その時、
「――ロージーさんッ!」
アッシュヴェルが、鋭い声で叫んだ。
「そっちに行っちゃダメです!」
「……えっ?」
「そのまま決して背中を見せずに、ゆっくりと後ろに退がって下さい! とにかく、その茂みから出来るだけ距離を取って!」
「え? え?」
それまでののんびりした様子とは打って変わったアッシュヴェルに、戸惑いを隠せぬ様子で思わずその場で固まるロージー。
一方のリーナは、怪訝な顔をしながら、彼を見上げた。
「……どうしたの、あなた? そんな怖い顔をして――」
「アイツです!」
リーナの問いかけを鋭い声で遮ったアッシュヴェルは、険しい顔で先ほど葉が揺れていた茂みを指さす。
「アイツ……って?」
アッシュヴェルの言葉の意味を測りかねたリーナは、首を傾げながら彼の指さした先に視線を向け――
「……ッ!」
黒くて巨大なナニカが茂みからのそのそと出てきたのを見て、声にならない悲鳴を上げた。
「な……何、アイツ……?」
「……恐らく」
口から大きく飛び出た鋭く長い牙が特徴的な、体長二エイムを優に超えるであろう巨大な獣の姿に鋭い目を向けながら、アッシュヴェルは答える。
「あの川の上流……コンロッド山に生息するサーベルトゥースベアの成体でしょう。普通なら、このあたりに姿を現す事は滅多に無いはずですが、食べる物を求めて川を下ってきたのかもしれません」
「た、食べる物……?」
アッシュヴェルが口にした言葉に何とも言えない嫌な予感を覚えながら、リーナは恐る恐る尋ねた。
それに対して小さく頷いたアッシュヴェルは、立ちすくむロージーを嘲嗤うかのように真っ赤な口を開けた長牙熊に視線を向けながら、深刻な響きを帯びた声で答える。
「言うまでもありませんが……見た目通り、サーベルトゥースベアは肉食です」
「……っ!」
「つまり……お腹を空かせながら探し求めてきた“食べる物”を、彼はようやく見つけたんです。――今あそこにいる、ロージーさんという極上の獲物を、ね」




