第十六話 大蛙と『嵐雹』と『紅雪』
「ゲゴオオオオ――ッ!」
自分の舌先を斬り飛ばされた事に痛みよりも先に激しい怒りを感じた様子の大蛙は、アッシュヴェルに向けて野太い咆哮を放ってから、残りの舌を一度口中にしまった。
そして、頬を大きく膨らませた次の瞬間、口の中からどろりとした粘液をアッシュヴェルに向けて勢いよく吐き出す。
「……っ!」
それを見たアッシュヴェルは、即座に身を翻し、地面に尻餅をついていたシュガの元に駆け寄ってその体を抱えると、そのまま真横に跳躍した。
その直後、大蛙の粘液が湿った音を立てて、寸前までふたりがいた地面に降りかかる。
「ひっ……! あ、アッシュヴェルさん! あれっ!」
「……強酸性のようですね。まともに浴びたら、ヤケドじゃ済まなさそうです」
シュガの上ずった声に小さく頷いたアッシュヴェルは、粘液のかかった地面がジュワジュワと泡立つ音を立ててみるみる崩れていくのを見ながら、表情を険しくした。
そして、大蛙が先ほどと同じように頬を膨らませるのを見るや、抱えていたシュガを傍らの大きな岩の陰に下ろす。
「……シュガさんは、ここで見ていて下さいね。後は僕に任せて」
「い、いえ! 俺もいっしょに戦い――」
「ひとりで大丈夫です」
慌てて立ち上がろうとするシュガを有無を言わさぬ口調と目線で制したアッシュヴェルは、その場から飛び退った。
そして、抜身の『紅雪』を右肩に乗せて疾駆し、大蛙に接近する。
――もちろん、それを許す大蛙ではない。
一直線に突っ込んでくるアッシュヴェルに狙いをつけ、口中に溜め込んだ粘液を吐き飛ばす。
だが――、粘液が着弾した場所に、全身をドロドロに溶かされるアッシュヴェルの姿は無かった。
「ッ!」
獲物を逃したと知った大蛙が、その大きな目をギョロギョロと巡らせて、敵の姿を探る。
と――、
「――こちらですよ、カエルさん」
真横から、氷のように冷たい響きを湛えた声が上がった。
「ゲコッ?」
不意を衝かれた大蛙が、慌てて振り向こうとした次の瞬間――光の如く鋭き一閃が、その胴体を襲う。
「ゲコオオオォォォ―ーッ?」
「……おや?」
先ほどよりも激しい紅い吹雪と共に上がった大蛙の絶叫と、訝しげな響きを帯びた声が重なった。
大蛙の体を下から上に斬り上げたアッシュヴェルは、思ったよりも手応えが無かった事に首を傾げながら『紅雪』に目を落とし、その刃に粘度の高い大蛙の体液がべっとりとまとわりついているのを見て、小さく息を吐く。
「どうやら……体の表面を覆う粘液が、思っていた以上に厚いようですね。お腹の中にいるゲラウさんの事を考えて、浅めに斬ろうとしたのも裏目に出ましたか……」
「ゲゴオオオオッ!」
残念そうに頭を掻いてぼやくアッシュヴェルを怒りに満ちた目で睨みながら、大蛙が吠えた。
大きく口を開くや、少し短くなった舌をアッシュヴェルに伸ばし、その体に巻きつける。
「……あ」
「アッシュヴェルさんッ!」
胴体を巨大な大蛙の舌に体を絡め取られたアッシュヴェルを見て、シュガが上ずった声で叫んだ。
岩の陰から絶望の表情を浮かべた顔だけ覗かせるシュガに、アッシュヴェルは苦笑いを向ける。
「いやぁ、お恥ずかしいところを。ちょっと油断しちゃいました」
「は、早く逃げて下さいっ! そうしないと、さっきのゲラウさんみたいに……!」
自身が置かれた状況とは裏腹に、呑気に照れ笑いしているアッシュヴェルに叫びかけるシュガ。
だが、その声にアッシュヴェルが答える前に、大蛙がシュガの懸念した通りに伸ばした舌を縮め始め、そのままアッシュヴェルの体を一飲みにしようと自分の口の中へと引き寄せる。
――だが、
それは、アッシュヴェルの狙い通りだった。
「――ここなら、ゲラウさんの身の危険を考えなくてもいいですよね!」
そう叫びながら右手に持った『紅雪』を水平に構えたアッシュヴェルは、目の前に迫った大蛙の顔面――その中でも一際大きな目玉に向けて鋭い刺突を放つ。
そして、鈍い音を立てて刃先が大蛙の眼球を貫いた瞬間、自身の理力を『紅雪』に注ぎ込んで刃の冷却能力を上げた。
「グゲゲコォォォォ――ッ!」
瞬時に凍結した眼球が放つ激痛に耐えかねて絶叫した大蛙が、たまらずアッシュヴェルの体を放り出す。
投げ出されたアッシュヴェルは、空中で軽やかに一回転して地面に着地した。
そんな彼の事など顧みる余裕も無い様子で、大蛙は背を向けて逃げ出す。
「げ、ゲコオオオオっ!」
後ろ脚を伸ばして大きく跳躍した大蛙は、大きな水飛沫を上げて地底湖に飛び込み、そのまま泳ぎ去ろうとした。
それを見ながら、地底湖の水際に立ったアッシュヴェルは、逆手に持った『紅雪』を頭上に振り上げる。
「……申し訳ございませんが、逃がす訳にはいきません!」
そう叫んだアッシュヴェルは、逆手に構えた『紅雪』の刀身にありったけの理力を注ぎ込みながら、湖面目がけて振り下ろした。
彼の理力を帯びて最大まで高められた『紅雪』の凍結能力によって、湖の水が瞬時に凍りつく。
湖水の凍結は、まるで意思を持っているかのように大蛙の方に向かって一直線に伸びていき、その巨体を捉まえた。
「げ、ゲゴッ?」
身体の周りの水が硬く凍りついたせいで、湖面から顔を出した状態で身動きが取れなくなった大蛙が、焦燥に満ちた鳴き声を上げた。
――と、
「――御覚悟ください」
大蛙の元まで一直線に伸びた氷の道を滑るように疾駆してきたアッシュヴェルが、右肩に『紅雪』を抱えた姿勢で大きく跳躍する。
そして、空中で大蛙の首元に狙いを定め、
「はああああ――ッ!」
と気迫に満ちた叫びを上げながら、研ぎ澄ました冷気で鋭さを増した刃で大蛙の太い首を真っ二つに両断したのだった――!




