第十五話 絶望と希望と紅吹雪
「このっ……!」
シュガは、気が遠くなりながらも、何とか大蛙の舌の拘束から逃れようと必死に足掻いていた。
だが、彼に巻きついている妙にひんやりとした大蛙の舌はぬるりとした粘液に塗れていて、どんなに彼が強く藻掻いても、その力をいなされてしまう。
ならばと、自分の体を捕えている大蛙の舌を、唯一自由に動かせる右手に渾身の力を込めて殴りつけるが、弾力性のある大蛙の舌に対しては蟷螂の一撃にも等しかった。
一方、“獲物”が文字通りの“無駄な足掻き”をしている間にも、大蛙は最大まで伸ばしていた舌をどんどん縮めていく。
「うぐっ……!」
シュガは、唐突に自分へ吹きかかった不快な生臭さを伴った風に襲われ、思わず顔を歪めた。
嫌な予感を覚えながら恐る恐る風が吹いてきた方に顔を向けたシュガは、すぐにその風の正体が何なのかを知る。
(もう……ダメだ……っ)
視界いっぱいに広がる大蛙の口を呆然と眺めながら、その喉の奥から吐き出された生臭い吐息を浴びたシュガは、激しい不快感と共に深い絶望を覚えた。
「あぁあ……あ……」
このままなす術もなく大蛙に呑み込まれ、その胃の中で自分がドロドロに溶かされるのを想像してしまったシュガは、激しい吐き気を感じながら、たどたどしく唇を動かす。
「た……たす……けて」
目をギュッと瞑った彼の口から、微かな懇願の声が零れた。
「ア……アッシュ……さん……たすけ……てぇ……!」
再度彼が発した、今にも消え入りそうなほどに微かで、もはや届かないと半ば諦めながら、それでも必死に助けを求めた叫び声。
当然、そんな事はお構いなしと言わんばかりに、大蛙は口を最大まで開ける。
そのまま、シュガの体は大蛙の口の中に呑み込まれ――
「――畏まりました」
――る寸前、凛とした声が彼の耳を打った。
次の瞬間、凄まじい冷気を伴った瞬風が下から上にかけて吹き上がったのを感じたシュガは、驚いて目を開く。
「うわぁっ……!」
目を見開いた彼の視界に映ったのは、千々に舞い散る無数の紅い物体。
それが何なのかを考える間もなく、彼の視界はぐらりとひっくり返る。
「うわぁ――痛っ!」
「ギェコオオオォォォ――ッ!」
次いで強い衝撃に襲われたシュガが思わず上げた苦悶の声は、それに数倍する絶叫によって、たちまち掻き消された。
「ひっ……!」
その悍ましい叫びに思わず両手で耳を塞いだシュガは、ふと違和感に気付いて、自分の体に目を遣る。
「た……助かって……る?」
あれほどきつく彼の体に巻きついていた大蛙の舌の力が、嘘のように弱まっていた。
この好機を逃すまいと、慌てて大蛙の舌による拘束から逃れたシュガは、未だ身を切るほどに冷たい凍風に乗って舞い散る紅い小片のひとつに何気なく手を伸ばす。
掌に付いた紅い小片は、彼の体温によってみるみる融けた。
「こ、これって……」
液体となった紅い小片をまじまじと見たシュガは、すぐにそれが何なのか察する。
「ち……血……?」
その、微かに皮膚にへばりつくような感触は、紛れもなく生物の血液だった。
それに気付いたシュガは、ハッとして、未だ周囲を舞い散る夥しい数の紅い小片を凝視する。
「ひょ、ひょっとして……これ全部が、凍った……血の雪?」
「――まあ、そんなところです」
「っ!」
シュガは、自分が無意識に呟いたひとり言に応じた声に目を見開き、舞い散る凍結した血液の向こう側へと目を凝らした。
「あ……アッシュヴェルさんッ! これは、あなたが……?」
「いやぁ……すみません、シュガさん」
こんな緊迫した状況の中にもかかわらず、相変わらずどこか牧歌的な響きを帯びた声で、クエスト監視人アッシュヴェル・エヴァーピース――もとい、“失級冒険者”・二つ名「嵐雹」は、背中をシュガに向けたままで答えた。
「時間が無かったとはいえ、乱暴な助け方をしてしまって。頭とかぶつけてませんか?」
「あ、いえ……腰から落ちたんで、頭は……って!」
気遣いの言葉に素で応じかけたシュガは、慌てて首を左右に振る。
「俺の事はどうでも良くって!」
「あ~、この血吹雪の事ですか?」
背中越しにシュガを見たアッシュヴェルは、微笑みながら頷き、痛みで悶絶している大蛙に向けて構えていた己の得物を指さした。
「ええ、そうです。僕と、このアズマ・ソード『紅雪』の能力です」
彼が指さした『紅雪』の薄く反った刃は、怜悧な青白い光と湯気のような白い煙を薄く放っている。
「この『紅雪』の刀身は、氷晶鋼という特殊な鋼で出来てましてね。人の理力を乗せると、斬ったものをたちどころに冷却して――」
「アッシュヴェルさん! 前!」
呑気に説明しているアッシュヴェルの隙をついて襲いかかる大蛙の舌に気付いたシュガが、上ずった声で叫んだ。
「危ない! 気をつけ――」
「あぁ、大丈夫ですよ」
叫ぶシュガに顔を向けたままで、アッシュヴェルは落ち着いた声で応じる。
「ちゃんと分かってますから」
アッシュヴェルがあっさりと答えた次の瞬間、彼の腕が陽炎のように揺らいで、消えた。
次の瞬間、肉を切り裂く鋭い音が上がり、周囲を舞い散る紅い吹雪が一層激しく吹き荒れる。
「グゲエエエエエエエエエエ――ッ!」
大蛙が上げた絶叫と、切断面から白い冷気と凍った血液の飛沫をまき散らしながら大きな舌の先端が地面に転がる鈍い音が重なった。
「……こんな感じでね」
『紅雪』を軽く振って、刃にこびりついた大蛙の血滴を払い落としたアッシュヴェルは、ポカンとした顔で自分を見上げるシュガに向けて微笑みかける。
「僕がこのクエストを引き受けたからにはもう安心ですから、そこで見ていて下さい。すぐに終わらせますから」




