32 寄生蟲
「君か‥‥。よかった。まだそんなに進行していないんだね。名前もわからなかったからずっと心配していました。」
そう言ってその先生は悟に近づいてきた。
「小林悟くんだったね。私は樋山光太郎。ここでAMPSの治療に当たっています。これから君を治療しますので、気持ちを楽にしてください。やることはマッサージと同じです。」
悟の中に、あのサッカーの試合のときの嫌な感じがフラッシュバックする。
「よせ!」
奇妙な焦りとともにそういう言葉が我知らず口から飛び出した。
その途端。
ごもっ、と悟の腕の筋肉が盛り上がり、拘束バンドがきつく皮膚を締めつける。
「痛っ!」と悟が声を出すのと、樋山と名乗ったマッサージ師が悟の顔面を撫でるようにに手を滑らすのが同時だった。
何かが悟の皮膚の下で頬から首、首から肩へと逃げてゆくのがわかった。
何だこれ?
むちゃくちゃ気持ち悪い。
マッサージ師が首から肩、胸へと手を滑らせてゆく。
指が熱い。
まるで熱した鉄の棒でも押し当てられているような感じだ。
そいつの指が触ってゆくと、皮膚の下で何かが破裂したような感覚があり、その部分から力が抜けてゆく。
悟の脳裏にサッカーの試合中の様々なシーンが浮かんでは消えていった。
まるで死ぬ前に見るという走馬灯のようだ。
「やめ‥‥! やめろ!」
悟は意識せずに叫んでいた。
オレはもう走れなくなるんじゃないか‥‥‥
しかし樋山というマッサージ師は触ることをやめない。
手や足の先まで触られるのに、ものの1〜2分しかかからなかった。
何か‥‥諦めにも似た倦怠感が悟を襲って、悟は表情を失った。
そのあと拘束バンドを解かれたが、体中にまるで力が入らない。
誰かが皮膚に注射器のようなものを刺しているのを感じる。最初チクリと痛みを感じたが、そのあとは何も感じない。
水ぶくれのように腫れ上がっていた体が少しラクになったような気がする。
「起きられますか?」
と樋山が言う。
悟は起き上がろうとしたが、腹筋に力が入らない。
肘でしばらく支えていたが、やがてバタンと仰向けに倒れた。
オレは‥‥‥あらゆる筋肉を失ってしまったのか‥‥?
「PM——私たちはこの蟲をそう呼んでいます。パラサイトマッスルの略で、人間の筋肉のような形をしていますが筋肉ではありません。」
そう言って樋山と名乗ったその奇妙なマッサージ師は、悟にタブレットでその画像を見せた。
初めて見るもののはずなのに、悟はなぜかその形に見覚えがあった。
「人間の筋肉に寄生して一時的に力が強くなったように感じますが、やがて少しずつ本当の筋肉は侵食されて弱っていきます。」
ああ、そうだ。夢で見た奇妙な虫のようなものだ——。と悟は思い出した。
一番最初に、こいつが夢の中でささやきかけたのが始まりだった。
それから急速に悟は成長し始めた。
「君の筋肉はまだそれほど侵食はされていません。神経の信号をPMが奪い取っていたので、自分の筋肉の動かし方がわからなくなっているだけです。手は動くでしょう? 手の方にはあまり寄生していませんでしたから。しばらく時間はかかると思いますが、焦らずゆっくりリハビリして自分の筋肉の動かし方を思い出していきましょう。」
それで‥‥‥。と悟は思う。
前みたいに走れるようになるのか?
そもそも監督に認められたこのパワーが、パラサイトなんちゃらいう虫のせいだったというなら‥‥‥。
オレはもう、ピッチに居場所がなくなるんじゃないか?
「この病気は‥‥進んだらどうなるんだ?」
そのまま寄生されてた方がよかったんじゃないか? と、ふと思う。
「長森先生が治療にたずさわるようになる前の患者は‥‥死んだようですね。内臓も弱ってしまって。」
「‥‥ようですね?」
「僕‥‥私は長森先生よりずっと後にここに来たので‥‥、初めの頃の様子はよく知らないんですよ。」
「なあ。おま‥‥せ、先生はどうやって治療してるんだ? ただ触っただけみたいな感じだったけど‥‥。」
悟の声調子は、どこかに敵意を持っているような響きがある。‥‥が、樋山はそれに気づかないような顔をした。
「ただ触っただけですよ。私や長森先生の手からは何か特殊な『気』が出ているらしくて、触るだけでPMを殺せるんです。今のところ治療ができるのは長森先生と私だけですから、これから患者が増えると大変になります。それじゃ、私は次の患者のところに行きますから。あとは看護師に聞いてください。」
それだけ言うと、樋山というマッサージ師はそそくさと部屋を出ていった。
「このまま病室まで行きますよ。大丈夫です。1週間もすれば普通に歩けるようになりますよ。あなたはまだステージ2でしたから。」
傍らにいた男性看護師が、そう言ってストレッチャーを押し始めた。
1週間で普通に歩けるだと?
悟はむしろ絶望的な気分になってきた。
オレは走りたいんだ! ピッチで菖とともに——。




