File.2 床を染めるはスカーレット
薄暗い奥の部屋には、ジュニファーが座り込んでいた。押さえている右腕からは、血が滲んでいる。天井からは、灯りの消えた電灯がぶら下がっていた。
「ジュニファー! 大丈夫か!?」
俺はジュニファーに近づく。ジュニファーの腕の傷は深く、裂けた傷口から放射状に血が広がっていた。痛みと恐怖に顔を歪ませている。
「ベラ……ベラが……」
ジュニファーが唇を震わせながら言葉を紡ぐ。青色の瞳は恐怖で見開かれていた。ジュニファーが指を差す先には、ゆっくりと揺れる電灯がある。目を凝らして見ると、それは天井から吊られたベラだった。喉を触手で貫かれたベラは、両手をだらりと垂らしている。触手の先からはベラの血が床へと滴り落ちていた。俺はすかさず触手目掛けて発砲する。銃弾が当たると、触手はベラを離して逃げ出した。ベラは力無く床に落ちる。悲鳴をあげようとしたのか、口は開いたままだ。穴の空いた喉元には、雨が降りそそぐ。
「大丈夫か? ジュニファー」
俺は腰のポーチから止血バンドを取り出し、ジュニファーの腕に巻きつける。ジュニファーの腕は徐々に変色していく。
「デビッド……逃げて……」
ジュニファーの顔は酷く青ざめていた。そんなことはするもんか。彼女を死なせなんかしない。
「諦めるな。俺が絶対に助けてやる」
俺は生気が抜けていくジュニファーの顔に目もくれず、俺は傷口にガーゼを当てる。傷を治すのに夢中になるあまり、俺は何かに投げ飛ばされた事にも気づかなかった。ロッカーに叩きつけられ、俺は咳き込む。背中が痺れやがる。床に伏せる俺の目に映ったのは、片腕から茨を生やしたジュニファーだった。全身は緑色に染まり、体中が痙攣している。
「デビッド……逃……ゲ……テ」
ジュニファーから漏れる声は呻きへと変わっていく。緑色の血と共に、胸元から赤い薔薇の花が開いた。服を突き破り、茨は全身に広がっていく。次に俺を見る瞳は、白く白濁していた。千切れたガーゼを踏みつけ、ジュニファーは咆哮する。彼女の声とは似ても似つかない、壊れたエンジンのような叫び声だ。ジュニファーは茨が生えている腕を振り回し、俺に襲いかかる。俺は地面を転がり、ジュニファーの一撃を躱わす。ジュニファーはロッカーに体当たりする。ロッカーはひしゃげ、歪んだドアが外れた。涎を垂らし、ジュニファーはゆっくりと立ち上がる。
「ジュニファー……」
彼女の突然の変貌に、俺は呆然とする。俺の声に反応したジュニファーは茨を伸ばし、俺の首を締め上げた。宙に上げられ、俺は足をばたつかせる。茨の棘が首に食い込んでいく。俺は銃を抜き出し、地上にいるジュニファーに照準を当てた。震える指を、引き金にかける。だけど、薄れていく意識のせいか、怪物が彼女だというせいなのか、俺は引き金を引くことができなかった。俺自身が死んでしまうかもしれないのに。ジュニファーは元に戻らないかもしれないのに。俺は撃てないでいた。迷いが照準を曇らせていく。
その時、ジュニファーは突然苦しみ始め、俺を床に投げ落とした。ジュニファーはめちゃくちゃに腕を振り回し、部屋の物を破壊し始めた。予備のパソコンも、テレビも、金庫も。回線のスパークを浴びても尚、ジュニファーは止まらない。ジュニファーの背中が盛り上がる。急激な体の変化に苦しむあまり、ジュニファーは暴れ回った。体が一回り大きくなり、薔薇の花びらが翼のように背中から生えていく。ジュニファーは床に頭を叩きつけ始める。変異の痛みが治らないのか、彼女は何度も頭を打つ。止めてくれ。もうこれ以上彼女のこんな姿を見たくない。俺は撃てもしない銃を構えた。照準越しには、彼女はジュニファーとしてしか映らないんだ。絶叫し、ジュニファーは俺目掛けて腕を振り上げて突進する。彼女が俺に殺意を向けた瞬間、俺は本能的に引き金を引いた。
無情な銃声と共に、俺は床に倒れこんだ。緑色の返り血が、俺の顔を濡らす。銃弾はジュニファーの胸元の薔薇を貫いていた。舞い落ちる花びらとともに、ジュニファーは力無く倒れる。俺がやったんだ。思いに反して、自分の命を守る為に、引き金を引いてしまった。ジュニファーを苦しませないためにやった訳じゃない。俺は……俺は死にたくないからジュニファーを撃ったんだ。目に涙を浮かべながら、彼女を抱き起こす。化け物でも、ジュニファーはジュニファーだ。薔薇が枯れ落ちた彼女の顔は、色が抜け落ちたように白くなっていく。悍ましい怪物の形相から、穏やかな彼女の顔へと変わっていった。僅かに青みがかった瞳で、ジュニファーは俺を見る。弱々しく微笑み、彼女は俺に手を伸ばす。
「さようなら……デビッド」
か細いが、紛れもなく彼女の声だ。俺は手を取ろうとするが、ジュニファーの手は滑り落ちた。首を横たえ、ジュニファーは目を閉じ、動かなくなる。俺は黙ったまま、ジュニファーの手を握った。目頭が熱くなり、涙がこぼれ落ちた。……そうか、俺はこんなにもジュニファーが大切だったのか。でも、ジュニファーはもう動かない。俺が殺した。ジュニファーだけじゃない。交番の仲間達も俺が殺したようなもんだ。後悔の波が俺を飲み込もうとする。たまらず俺は、残った消毒液を部屋中に撒き散らした。いや、消毒液だけじゃ足りねぇ。部屋の隅に置いてあったガソリンを、床いっぱいに注ぐ。ガソリンの匂いに包まれる中、俺はマッチを擦り、床に火をつけた。うるさく鳴り響く消火装置を叩き壊し、俺は部屋の中で死を待つ。炎は一気に燃え広がり、ベラとジュニファーが消えていく。酸素がなくなる中、俺は二人の亡骸が消えていくのを見ていた。
だけど、本能では死にたくないのか、いつの間にか俺は走り出していた。交番にあった雨具を取り、俺は雨の中を走っていた。
火の手が上がる交番を背に、俺は雨の中をよろめきながら歩いていた。死人のようにふらつきながら、俺は彷徨う。これじゃあ化け物達と変わらないな。いっそ雨に打たれて、化け物として生きている方が楽なのかもしれない。降り頻る雨を見ていると、そんな感覚が込み上げた。だけど、生にしがみつこうとする俺の本能は、許しちゃくれなかった。




