第四話:僕の庭では、平民も騎士も土をこねる
スコップを握り直した瞬間、僕は致命的なことに気がついた。
緑地が、狭い。
直径五メートル。そこへ八人が入れば、市場より混む。しかも、うっかり踏まれたら芽は全滅だ。
さっきまで城門の上で拳を握っていた男が、いまは八人の足元を気にしている。落差がひどい。
「皆さん、いったん動かないでください。特に足元」
全員が、ぴたりと固まった。ハンスの靴の下で、三本目の芽が悲鳴を上げている。
「どけろ、ハンス!」
「俺のせいか!?」
「君の靴の下だ」
飛び退いたハンスが、別の芽を踏みかけて、また飛び退く。……こいつは、毎回期待を裏切らないな。
「ここは、ショールームです。作業場は、あっち」
僕は、緑地の脇に広がる灰色の荒れ地を指した。死んだ土が、城壁沿いにずっと向こうまで続いている。
「日没までに、あそこの一角を食べられる土にします。門の外で見ている人たちに、これが偶然じゃないと見せるために」
「あと何時間だ」
「五時間くらい」
「五時間で、あれを?」
「工期としては、かなり無茶です」
自分で言っておいて、前世の胃がきゅっと縮んだ。無茶な工期は、だいたい無茶な結果で終わる。
班分けは、手短に済ませた。灰を集める班、堆肥を運んで混ぜる班、土を区画ごとに分けて記録する班。
名前は事務的だけど、実態は『臭い班』と『もっと臭い班』と『臭くない班』で、人気はもちろん最後が圧勝だった。
クルトにも、スコップを一本渡す。
受け取った騎士様は、ものすごく立派な構えで、柄を逆に持った。
「逆ですよ、柄」
「……分かっている」
「あらあら、貸しなさい」
横から割り込んだのは、最初の一団にいた年配の女性だった。小柄なのに、背筋だけは異様に伸びている。
「怪我人は、片手を添えるだけ。灰の下の土は、場所ごとに固さが違いますから、力任せに突くと余計に疲れますよ。ほら、こう、表から少しずつ崩すの」
クルトは黙って、その手元を凝視した。それから、一回で真似をした。土が、すっと割れた。
「……なるほど」
「でしょう?」
前世の現場にもいたな、こういう人。ベテランのパートさんの「昔からこうやるの」は、どんな分厚いマニュアルより信用できる。
この世界でも、人類の構造は変わらないらしい。騎士様は、スコップの前では新入りだ。
それだけ確認したら、あとは手を動かすだけでいい。
「ユーリさん、腰が引けてます」
隣で地面に手をかざしていたフィオナが、肩を震わせた。
「僕は頭脳労働派なんだ」
「スコップを担いだ頭脳労働者、初めて見ました」
「珍しい生き物でしょう。保護してください」
「保護対象に、豆ができます」
笑いをこらえた彼女が、すぐ真面目な顔に戻った。
「この緑地、どれくらい持つんですか?」
「灰の量次第。魔気濃度が三十%を超えたら、芽が溶ける。今は二%弱だけど、周りの灰を被り続ければ、いずれ追いつかれる」
「つまり、灰を減らし続けるのが仕事ですね」
「その通り。質問が的確すぎて、新人が育つのが怖いな」
「灰が吹き溜まる向きと、魔力の流れの向きは、同じなんです。風下に溜まります」
「じゃあ、捨て場は風上だな」
彼女が見て、僕が数える。この分担は、悪くない。
灰を埋める穴を掘りはじめたところで、ハンスが妙な声を出した。
「ユーリ。ここだけ、土が違う」
「違う?」
「湿ってる。他と同じ深さまで掘ったのに、握ると固まるんだ」
渡された土は、冷たかった。水の気配がする。灰を被った荒れ地の、ど真ん中で。
「そこの窪みは、昔は雨が降ると、水が溜まったんですよ」
年配の女性が、スコップの柄に顎を乗せて言った。
「今は、すっかり干上がりましたけどね」
「教えてくださって、ありがとうございます。助かります」
本心だった。この人の記憶は、僕の鑑定より古い。
頭の中で、穴の予定地を消す。
城下の井戸が黒く濁った理由を、忘れたわけじゃない。灰を埋めた下に水脈があったら、同じことを自分の手でやることになる。
「穴は別の場所に。ここは、掘らない。……ハンス、杭と板」
「何を書くんだ」
「『掘るな』」
渋い顔で書いてくれた字が、意外ときれいだった。意外と言うと怒るので、言わない。調べたいことは山ほどあるけれど、日没は待ってくれない。
そこへ、門番の騎士が、見覚えのある二人連れを引っ張ってきた。
「武器は預かった。腹が減ってるそうだ。中に入れろと、ごねてな」
城門の前でヤジを飛ばしてきた、あの冒険者たちだった。
「おい、庭師。飯を出せよ」
「働いた人には出します。君たちも、働くなら」
「冒険者に、草いじりをしろってのか」
「灰集めです。新人研修の一日目にやるやつです」
「ガキの使いじゃねえか!」
「ガキでもできる仕事を、君たちがやってくれたら、助かるんだけどな」
挑発のつもりは、なかった。ただ、冒険者の顔が真っ赤になった。
「その前に」
フィオナが、静かに一歩出た。
「昼間のお言葉の分を、お返しいただいてません」
声は穏やかで、敬語はいつもより丁寧だ。つまり、これは、かなり怒っている。覚えておこう。怒らせたくない人の名簿の最上位に、彼女の名前を書き込む。
「女が、偉そうに」
こいつら……ここは僕が懲らしめ——
「フィオナさんに謝れ」
低い声が、割って入った。クルトだ。片腕で、スコップを杖みたいに突いて、ただ立っている。
……それだけで、二人の背筋が伸びた。騎士というのは、立っているだけで武器になるらしい。
「……悪かった」
「……俺も、だ」
「受け取ります」
フィオナは、にっこり笑った。
「次に同じことを言ったら、門の外にお連れします。私が、自分で」
笑顔なのに、刃物と同じ温度だった。僕は、全力で目を逸らした。
ただ、彼女の背中は、ほんの少しだけ震えていた。昼間は縮こまっていた人が、自分の足で前に出たのだ。
……思っていたより、ずっと強い人だ。そして、たぶん、思っているより、ずっと無理をする人だ。
「じゃあ、灰集めをお願いします」
スコップを渡して、念を押す。
「風上から、低く、ゆっくり。絶対に舞い上げないでください。風下に緑地があります」
「へいへい」
「絶対です」
「分かったって」
……この「分かった」は、いちばん信用してはいけない種類だ。前世で、百回は聞いた。
一杯目で、すべてが終わった。
「おい、これ重てえな!」
勢いよく振り上げたスコップから、灰が雲になって飛んだ。風下へ。緑地へ。
「あ」
全員の声が、揃った。
緑地の縁の芽が、じわりと黒ずんでいく。視界に数字が走る。魔気濃度、一・八%。九%。十七%。
三十%を超えれば、芽は溶ける。数時間ぶんの全部が、ごっそり。
門の隙間には、外の顔がずらりと並んでいた。数千人ぶんの噂話が、いま、あの五メートルにかかっている。ここで枯らしたら、「やっぱり嘘だった」で、すべてが終わる。
僕は、地面に両手を叩きつけた。根を寄せて、灰を土ごと押し返す。
……数字が、止まらない。降る灰が、止まらないからだ。元を止めなきゃ、意味がない。
元。つまり、あの二人だ。無能な奴め。
駆け出して、灰の雲に飛び込んだ。咳き込む。目が開かない。喉が焼ける。
「ユーリ、吸わないで!」
背中から腕を引かれた。誰かの袖が、僕の口と鼻を、ぎゅっと覆う。薬草の匂いと、土の匂い。
フィオナだった。
「バカ! 一人で突っ込むなんて!」
怒鳴られた。初めてだ。いや、そうじゃなくて。今、呼び捨てだった。
「……フィオナ」
「何ですか!」
「今、呼び捨てだった」
「そんなこと、今はどうでもいいでしょう!」
「僕も、呼んだ」
「どうでもいいです!」
どうでもいいにしては、袖を離してくれない。あとで洗って返す、と言ったら、彼女は何と答えるだろう。考えるのは、明日にしよう。今日は、もう、頭の容量がない。
「灰は、濡らしなさい」
凛とした声が、雲の向こうから響いた。年配の女性が、桶を提げて立っていた。
「濡らして固めれば、舞いません。窯の灰は、昔からそうするものです」
「水なんて貴重品、どこにあるんだ!」
ハンスが叫ぶ。
計算なら、一秒だ。桶二杯。館の古井戸の、一日の汲み上げ量の、一%にも満たない。
「足ります! ハンス、桶を! 全員、バケツ係!」
「俺たちは冒険者だぞ!」
「灰を舞わせた冒険者だよね! 走れ!」
二人が、青い顔で桶に飛びついた。
「藁を作ります。濡らした藁で、山に蓋を」
フィオナの指先が、淡く灯った。藁が、ふわりと湧き出る。
……あ。マルチングだ。土の上に被せて、乾燥と飛散を防ぐ。造園の基本の基本を、僕は灰の雲の中で、すっかり忘れていた。
年配の女性が灰を湿らせ、フィオナが藁を敷く。僕が、根で藁を縫い止める。
ハンスとクルトが桶を回し、冒険者の二人は、泣きそうな顔で走り続けている。
数字が、揺れた。二十四。二十一。十六。十一。
灰の雲が、地面に落ちた。
静寂。
門の向こうから、まばらで、ぎこちない拍手が聞こえた。誰かが「まだ、緑だ」と叫んでいる。
「……保った」
膝から力が抜けて、僕はその場にへたり込んだ。フィオナが、慌てて隣にしゃがむ。
「ユーリ、大丈夫ですか」
「全然、大丈夫じゃない。でも、保った」
笑ってしまった。彼女も、つられて笑った。
「さて」
年配の女性が、腰に手を当てて冒険者たちを見下ろした。
「や・り・直・し、です」
「は、はい……」
二人は、素直にスコップを握り直した。今度は、驚くほど丁寧に。
「……あの婆さん、何者だ」
「聞こえてますよ」
「ひっ」
ハンスが肩を震わせて、クルトが、見ないふりをしながら口元だけ笑っていた。
夕暮れまでに、緑地の隣に同じ広さの区画ができた。堆肥を鋤き込んだだけの、まだ芽のない土。
それでも、二十八%あった数字は、十九%まで下がっていた。まだ育たない。でも、死んでもいない。
気づけば、騎士も平民も冒険者も、肘まで泥だらけで堆肥を捏ねている。階級章は、全部泥の下だった。
夕食は、薄いスープと、雑穀の団子。ひとつずつ、配る。
「家族の分も、いいか」
「……いいよ」
帳簿の端に、赤字で小さく書く。『持ち帰り分』。計算上は、完全な赤字だ。でも、団子を布に包んで帰っていく背中を見て、取り消す気にはなれなかった。
痩せた少年が、団子を両手で持ったまま、食べずに見つめていた。
「おかわり、ある?」
「ない」
「……そっか」
「でも、明日はある」
少年は、きょとんとして、それからゆっくり頷いた。
「明日も来るなら、今日の続きをお願いしますからね」
年配の女性が、冒険者に言った。
「……分かってるよ」
「なら、よろしい」
たぶんあの人に逆らえない人間が、今日、また二人増えた。
解散してから、寝泊まりしている建物の共用ロビーで、帳簿を広げた。
明日の食料、明後日の食料。数字を並べるたびに、頭が痛くなる。
「手、出してください」
薬草の入った小皿を持ったフィオナが、向かいに座った。
「もう、大丈夫だよ」
「出してください。ユーリさ……ユーリ」
言い直して、彼女が目を逸らした。耳が赤い。
「さんでも、いいよ」
「もう、戻りません」
出した。両手が、豆だらけだった。気づいていなかった。
「こんなになるまで、黙ってるんですね」
「痛くないから」
「痛いです。見れば分かります」
彼女の指が、そっと薬草を載せる。冷たい。それから、じんわり、温かくなった。
「私ね、今日、嬉しかったんです」
小さな声だった。
「ずっと、何もできなかったから。道中も、あの麦も。今日は、ちゃんと手を動かせた。誰かの役に立てた。それが、嬉しくて」
「フィオナは、今日、僕より役に立ってたよ。謝罪をもぎ取ったの、君だけだし」
「あれは、怒ってただけです。……本当は、足が震えてました」
「見えてたよ」
「見えてたなら、言ってください」
「言ったら、君、意地でも立ち続けただろう」
「……そうですけど」
否定しないところが、彼女らしい。
「それでも、あの『怒ってただけ』は、僕にはできなかったよ」
彼女が、ふっと笑った。
「ユーリは、今夜、寝ないつもりでしょう」
「……なんで分かるの」
「帳簿の前から、動かないから」
図星だった。緑地を夜通し見張るつもりだった。何かあれば、一人で動ける。その方が、計算が楽だ。
「前の現場でね」
気づいたら、口が動いていた。
「一人で抱えて、倒れた後輩がいたんだ。僕は、それを見て見ぬふりをした。……だから、今度は、全部自分で見ておきたい。それだけ」
フィオナは、何も言わなかった。しばらく、薬草を塗る手だけが動いていた。
「ユーリが本当に困ったときは、一人で抱え込まずに、私に言ってください」
「……それは、僕の台詞じゃないかな?」
「お互い様です」
顔を上げた彼女は、真剣だった。
「私も、ユーリに言います。だから、ユーリも言ってください。数える仕事は、半分こ。数が読めなくても、私にだって、半分は持てます」
……そうか。半分、か。
前世で、誰もそう言ってくれなかったな、と思って、すぐに打ち消した。言ってくれていたのかもしれない。聞こえていなかっただけで。
「……分かった。約束する」
「はい。約束です」
包帯を巻き終えて、彼女は、僕の手のひらを一度だけ、ぽんと叩いた。
その時、ロビーの扉が、勢いよく開いた。息を切らした領主の側近が、立っている。いつも落ち着き払っているはずの顔が、蒼白だった。
「ユーリさん、フィオナさん。領主様がお呼びです。至急、本丸まで」
「……何があったんですか」
側近は、一瞬だけ、言葉をためらった。
「首都に続く街道沿いにある都市から、使者が届きました。馬は、門の前で潰れました。使者も、ほとんど意識がありません」
手のひらに残った温もりが、すっと冷える。
「庭の再生計画に関わる、重大な報告です。……もしかすると、今後の計画を、大幅に変更せざるを得ないかもしれません」
僕は、フィオナと顔を見合わせた。
今日、やっと、ひとつ保てたところだった。それなのに、明日の計画は、もう明日のものじゃなくなっているらしい。
その夜、僕はまだ知らなかった。「大幅に変更」という言葉が、どれだけ控えめな表現だったかを。




