第二十一話:恋の算盤
荷馬車は、帰りのほうが重い。
小麦に大麦に豆に種。荷台いっぱいの麻袋が軋むたびに、車輪が悲鳴をあげる。
その悲鳴に、僕は心の中で拍手を送っていた。これほど嬉しい重さは前世を含めても初めてだ。
四日目の夕方、門が見えた。予定どおり。
「予定どおり」と言い切れる日は貴重なので、今日は少し威張ろう。
門前の人垣は、荷台の袋を見て一拍だけ黙り、それから爆発した。
「麦だ!」
「本物の麦だぞ!」
帽子が飛び、誰かが泣き、領主様は判子を握りしめて何かに押そうとしたが、押すものがなくて、年配の女性に袖を引かれていた。
報告は、三行で済ませた。食堂のテーブルを挟んで、ハンスとクルト。隣にゲルトさん。
一、種籾倉は無事に開いた。麦も豆も種も、荷馬車一台ぶん。
二、倉に輜重の魔族が四人。全員、土になった。
三、スコップの輪を回すと、僕ひとりでも撃てる。フィオナ作、世界一危険な散水ノズル。
「……一人で、撃ったのか」とクルト。
「撃ちました。そのあと膝が笑いましたけど」
彼は長く黙って、短く「よくやった」とだけ言った。
たったそれだけで、胃の底に居座っていたものが少し軽くなる。
人は、褒められると意外と簡単に直る。庭の植物と、そう変わらない。
ちなみに留守のあいだ、ハンスは「大丈夫か」を一日平均二十三回も聞かれたそうで、決まりの四行目は「一日三回まで」に改訂されていた。
本人いわく「そんなに聞かれたら、大丈夫じゃなくなる」
うん、そうだね。
ど正論である。
本題は、胸にしまった紙だ。二人に同時に見せる、と決めていた。机の端を両手で押さえて、ずらさないように広げる。同時に、が大事なので。
ハンスとクルトの頭が、ぶつかる距離で寄った。
——ゆえに、倉を空にせよ。庭へ向かう者の足を止めよ。
一行目はない。最後の行に、三重丸の『千』。
「足を止めよ、か」
クルトが、丸を指でなぞる。
「止めたいのは、庭へ集まる人間。そこに『千』。止めたい数、と読むのが筋だ」
「千で止まれってか」
「千を超えさせたくないのだろう。超えた先に、何かがあるということだ」
「……似た条文を、知っとる」
ゲルトさんが、灰色の眉を寄せた。
「旧帝国の治安令だ。無許可で千人を超えて集まれば『騒擾』軍が出る。占領した役所の便箋で、帝国の法をそのまま使う気なのかもしれん」
食堂が静まった。いまの庭は五百二十四人。千まで、あと四百七十六。
「九百九十九で、門を閉める」
クルトが言った。
「千人目が来たら庭ごと消される。千人目ひとりのために、九百九十九人を殺すことはできん」
「千人目の顔を、誰が決めんだよ」
ハンスの声は低かった。「俺には、決められねえぞ」
「……俺にも、決められん」
二人の「決められん」が珍しく揃った。揃ったのは喜ばしい。揃ったのはね。
「決めるのは、あとにしよう」と僕は言った。「全員で決める。決まりの紙も、まだ六行しかないしね」
「それより、厄介な話がある」
ハンスが、帳簿の角で頭をかいた。
「検めの区画に女が一人いる。三日で、中に市場を作りやがった」
「干し杏が通貨になっていた」とクルト。
「俺の名簿に朱を入れやがった。腹の立つことに、全部、正しい。『責任者と値段の話がしたい』が口癖だ。明朝、検めが明ける。覚悟しとけ」
「名簿は、大丈夫でした?」
「ミロって小僧が、穴を埋めてくれた。数字を一度も間違えねえ。寝言まで数えてやがる。……助かるが、ちょっと気味が悪い」
有能すぎる後輩は、前世にもいた。そのときは、笑って流した。
———
首都、旧王城の北塔。
受け糸が、また切れた。今度は一度に四本。輜重隊だ。倉を空にしに行って、庭師と鉢合わせたらしい。
最後に届いた糸には、隊長の声が乗っていた。
——ゆえにの……前を、読みたかった。
メルヴは、筆を置いた。
命令書の最終行には、いつも同じ字が書いてある。『千』。意味は教えられていない。三重に丸で囲むのが、私の仕事だ。
当番表の末尾にも、同じ数字がある。当軍の総数、千。実数はとうに割っているけれど、上は『千』で通す。補充の欄は、三月前から白紙のまま。
……ああ。
前の行が、読めた気がした。
『当軍は千。増えぬ。ゆえに、減らすな』
飢えさせよ。数えよ。使え。倉を空にせよ。足を止めよ。どれも、剣を抜かない命令だった。庭がどれだけ大きくなっても放っておいたのは、見逃していたんじゃない。
手が出せなかったのだ。数を減らせない軍に、庭ひとつ潰す余裕はない。刈るなら、育ち切ってから一度きり。それまで兵は、使わない。
あの紙は、人間の手に渡ったかもしれない。
——まあ、どうでもいいことだ。
千が『何の』千かは、一行目にしか書いていないのだから。数字だけ拾った人間は、きっと自分に都合のいい意味で空白を埋める。そういう生き物だ。
———
鈴の音は、四日ぶりだった。
検めの柵の前で私——フィオナ・エルゼルトは七十一人ぶんの足音を数えていた。
咳、寝息、誰かのお腹の音。その全部の向こうから、りん、と小さな音が混ざった。聞き違えるはずがない。私が結んだ鈴だ。音程まで覚えている。
落ち着いて、フィオナ。あなたは冷静な女よ。
そう言い聞かせて歩いた。歩いたつもりだった。「走ってたぞ」とあとでカシアンさんが言ったのは秘密である。
食堂の前で、三十七歩ぶん待った。扉が開いて、出てきた彼は思ったより煤けていて、「ただいま」と言った。
「……おかえりなさい」
それ以上は、人前では言えなかった。人前というのは、扉の前で偶然を装っている領主様と、年配の女性と、ハンスさんのことだ。
麦倉の陰は、世界でいちばんロマンのない場所だと思う。袋の山と、埃と、ネズミ除けの匂い。
そこへ二人で潜り込んで、私は彼の顔に手を伸ばした。額、眉、頬。ちゃんと、ある。ちゃんと、帰ってきた。
ああ……よかった
「右眉は?」
「上がってない」
「じゃあ、元気ね」
「元気、というか」
笑おうとして、彼は笑いきれなかった。指先が、細かく震えている。炎の水やりを一人で撃ったことを、三行で報告した人が。
「……あとから来た?」
「うん」
麦袋に腰を落として、彼は両手で顔を覆った。私は隣に座って、何も言わなかった。言わないのが正解の夜がある。背中に手を置いて、呼吸が落ち着くのを、耳で数えた。
ユーリ・フロックス。庭師。自称ひ弱。
私は彼のことを、たぶん世界で三番目に詳しい。
一位は帳簿、二位はスコップ。三位の私は、いつか表彰台の真ん中を狙っている。
けれど、一位と二位が知らないことを、ひとつだけ知っている。この人は、数えるのが得意なくせに、自分の痛みだけ四捨五入する。「大丈夫」の一言で、端数を切り捨てる。
だから私が拾う。切り捨てられたぶんを、ぜんぶ。それが、私のいちばん好きな仕事。
……本人には絶対に言わないけれど。
「……ありがとう」
「六行目、守れたわね」
「守れました。ゲルトさんの名前は、借りたけど」
「あとで一緒に謝りましょう」
上がった顔が、少し情けなくて、愛おしい。いつも彼がするみたいに、額をこつんと当てる。お返しだ。勢いが余って、鼻も当たった。
「いたっ」
「ご、ごめんなさい」
「いや、いい音だった」
「感想言わないで」
それから、順番を間違えたみたいに、唇が触れた。ネズミ除けの匂いの中で。ロマンはない。
でも、世界でいちばん、帰ってきた気がした。
ここまでは、人生でいちばん完璧な夜だった。
翌朝。検めの明けた七十一人が、配給所の前に並んだ。粥をよそう係は、ユーリと私。
最初に聞こえたのは音だった。
ぱち、ぱち、ぱちぱち。乾いた小さな音が、列の先頭から近づいてくる。算盤の玉だ。
「おはようございます! ペトラ・グロッシェンと申します!」
赤茶の三つ編み、そばかす、外套にポケットが八つ。小柄なのに、胸の張り方だけ一人前だ。笑っているのに、目が笑っていない。値踏みする目。
「三日間、柵越しに拝見しました。お金の流れがあまりに酷いので、押しかけました! この庭、通貨がないでしょう。パンも芋も時間も、全部『善意』という借金で回っています。いつか破綻します!」
ユーリの目が、ぱっと光った。
「……善意会計。昔も、死ぬほど見た」
「ですよね!!」
話が、始まってしまった。止める方法が、私にはない。
「あ、襟が曲がってます」
彼女が、ユーリの襟をひょいと直した。人前で、さらっと。私が出発の朝に、勇気を振り絞ってやったことを、息をするみたいに。
そして、見た。ユーリの右眉を。
動かない。ぴくりとも。
……喜ぶところだ。私の前でだけ上がる、あの癖。上がらないのは、意識していないということ。喜ぶべき、ところ。
なのに胸の奥が、ちりちりする。理由は、すぐに分かった。彼女は、右眉が動かないくらい自然に、彼の隣に立てるのだ。
「単刀直入に言います。私、ユーリ様に嫁ぎたいんです!」
手の中で、木匙が、みし、と鳴った。
「え」
「損得の話です。この庭は世界でいちばん安全で、いちばん伸びる株。その持ち主の隣に座るのが、いちばん安く、いちばん確実。つまり結婚。三日かけて計算しました!」
「……恋愛は?」
私の口が、勝手に動いていた。
「経験ありません! 損得の経験なら百戦錬磨ですが、恋は帳簿のどこに書くのか分かりません。愛は後から付いてくることもあると母が。付いてこなかったら返品します!」
「返品できるの!?」とユーリ。
「初回に限り!」
「……検討、します」
検討しないで。心の中で叫んだ。声には出さなかった。出さなかったのに、ユーリがふとこちらを見た。
「フィオナ、手、震えてる。粥、熱かった?」
「……熱かったのよ」
熱いわけがない。三十分前の粥だ。
貴族の端くれに生まれると、縁談という名の見積書が毎年届く。損得で近づく人の見抜き方は、十五で修了した。
余裕の微笑みも、受け流しの一言も、全部持っている。……はずだった。
修了試験に出なかった問題が出た。損得を、最初から全部見せてくる人。隠していないものは、暴けない。
しかも彼女の鼓動は、一定だった。嘘の音でも、恋の音でもない。ただ正直な、商人の音。
それが、いちばん悔しかった。
「そちらは、奥様ですか?」
「奥様じゃ……ない。まだ」
「ああ、では競合ですね! 正々堂々、いきましょう!」
差し出された手を握る。小さな手の指が、一本ずつ、私の指を握ってきた。数えられている。
「……お粥、冷めるわよ」
それが、私にできた最大限の反撃だった。
——
その夜は、検め明けの宴だった。
広場に大鍋が三つ。新しい麦の粥と、焼きたてのパン。
決まりの五『鍋を叩くときは、揃えない』に従って、五百人が全力で揃えずに叩いている。祝宴というより、工事現場の悪夢だ。
クルトだけ、今夜もきっちり二拍子。教官の血は、そう簡単に直らない。
僕は石段に座っていた。左にフィオナ、右にペトラさん。真ん中の僕は、左右の温度差で風邪をひきそうだ。左は氷点下、右は快晴。
「フィオナ。朝から静かだけど」
「お粥が熱かったのよ」
まだ言うか。この人、僕より嘘が下手だ。
「ねえ、ユーリ様。あの子、気持ち悪いです」
ペトラさんが、算盤で広場の端を指した。
「ハンスさんの隣のミロ君。さっきから指で数えてるんです。一、二、三、四で止まる。五じゃなくて、四で区切るの」
「四で?」
「商人は五で区切ります。算盤の玉が五つだから。四で区切る数え方は、誰かに合わせて数えさせられてる人間の癖です。私、同業者の癖にはうるさいので!」
同業者に厳しい。商人は、どこの世界でも怖い。
その瞬間、反対側で、フィオナが固まった。
「……ユーリ。鍋の音の中に、揃ってる音がひとつある」
耳が、すっと立つのが見えた。
「四つで、ひと息。右手。ミロ君の右手。あの夜の羽音と、同じ拍」
二人が同時に、同じ方向を指した。顔を見合わせる。
「「あなたも?」」
言い方まで揃った。仲がいいのか悪いのか。
帳簿の端を、少年の肩へ向ける。
数字が、ない。右肩の上、三十センチ。そこだけ、ぽっかり空白だ。ゼロですらない。北西の丘と、同じ。
背中を、汗が一筋、落ちた。観察、特定、剪定。害虫駆除は、いつもこの順番だ。人間相手にやる日が来るとは、思わなかったけど。
「待て」
ハンスが、僕の袖を掴んでいた。いつの間に来たのか。
「ミロは、ただのガキだ。俺の手伝いだぞ。……決めつけねえ、って決まりに書いたのは、俺だろ」
「うん。決めつけない。だから、斬らない」
僕はスコップの輪を回して、刃を締めた。
「剪定するだけだよ。糸だけ」
ハンスの目が揺れて、手が、ゆっくり離れた。
「……外したら、承知しねえぞ」
「外さない。僕には、世界一の耳が付いてるので」
フィオナの手を、取った。
少年は、人懐っこい顔で僕を見上げた。「ユーリさん、おかえりなさい! 名簿、全部合ってます。五百二十四」
その数を言う声だけが、機械みたいに平らだった。
手の甲に、フィオナの掌が重なる。鍋の音が、狂ったように鳴り続けている。揃わない。揃ってはいけない雑音の海の底で、彼女だけが、一本の糸を聴いていた。
「右肩の後ろ。三十センチ上。……少し、あなたのほう」
「僕のほう?」
「ユーリ側。もう少し。……そこ」
彼女の指が、僕の手首をわずかに押した。刃先が、何もない空中の一点で止まる。
「そこ。いま」
黒鋼を、水平に払った。
ぱつん。
弦が切れる音がした。耳じゃなくて、骨に。
鍋が、ひとつ、またひとつ、止まっていく。静けさが波になって広がって、最後のひとつが、ことん、と置かれた。
その静寂の中で、少年の右手の指だけが、ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、と動いて――止まった。
崩れ落ちる体を、ハンスの太い腕が、先に受け止めていた。
足元に、黒い糸くずが落ちた。ほろりと崩れて、土になった。庭の土だ。
ミロは、すぐに目を開けた。ぼんやり空を見て、それから、顔をくしゃくしゃにした。
「……ぼく、数えてました。ずっと。眠ってる間も。毎晩、誰かに聞かれるんです。『何人だ』って。答えると、最後に必ず、声がして」
「声?」
「『まだだ』って。毎晩。……何が、まだなんですか。ぼく、悪いこと、してましたか」
「してねえ」
答えたのは、ハンスだった。
「お前は、俺の名簿を一度も間違えなかった。それだけだ」
太い手で背中をぼんと叩いて、少し間を置いて。
「……大丈夫か」
「……じゃ、ないです」
「上等だ。翻訳のいらねえ返事だな」
ハンスが、鼻をすすった。誰も、見なかったふりをした。この庭の大人は、そこだけは上手になった。
「毎晩、庭の数を聞かれて、『まだだ』と返っていた」
クルトが低く言った。
「千になるのを、待っているのだ」
誰も、反論しなかった。僕にも、できなかった。数字は嘘をつかない。五百二十四。千まで、あと四百七十六。
沈黙を破ったのは、ぱち、という玉の音だった。
「……数えるのが好きな子に、あれは、いけません」
ペトラさんが、小さく呟いて、それから、ぱっと顔を上げた。
「お見事でした! ところで、お代は?」
「お代って、僕は何も」
「お手柄の二割は、私の観察眼です。計算上、取り分は」
商魂ここに極まれりだな。
「請求書は、フィオナに回して」
言った瞬間、後悔した。フィオナが、腕を組んで、にこやかに僕を見ていた。
「ユーリは、非売品です」
広場のあちこちから、「おお……」と声が上がった。
「レンタルも不可です」
「あら!」ペトラさんの目が、きらりと光る。「では競合として、正式に宣戦布告しますね!」
「どうぞ、ご自由に」
フィオナは笑っていた。こんなに楽しそうな顔は初めて見た。どうして僕は、背中に冷や汗をかいているんだろうか。
そもそもこんなの意味ないというのに。
……僕の中で勝者なんか最初から決まっている。
———
同時刻、首都、北塔。
受け糸の一本が、鍋の音をそのまま運んできた。
メルヴは椅子ごと後ろにひっくり返った。
「ザイ! 今の騒音は何!?」
「鍋であります!」
「知ってる!!」
———
宴のあと、広場に決まりの紙が貼り出された。ハンスの字で、七行目が増えていた。
七、千人目の席は、全員で決める。
その下に、ペトラさんが勝手に書き足している。
八、千の手前で、庭を分ける。
「株分けです! この庭が世界一の株なら、増えすぎる前に分ける。帳簿の上でも、土の上でも、九百九十九ずつ。いくつでも!」
「……支所だ。役所の言葉で言え」とゲルトさん。
株分け。
庭師の、基本中の基本だ。どうして今まで思いつかなかったのだろう。増えた株を、見殺しにしない方法。
一株ずつ根を切り分けて、別の土に植える。道標の黄色い花は、もうすでに、その一株目なのかもしれない。
……商人に教わるとは思わなかったけど。
千まで、あと四百七十六。「まだだ」と言った誰かは、いつか必ず来る。それまでに、僕らは、増えるのだ。
柄尻で、鈴が、りん、と鳴った。
迷子には、ならないよ。たぶん。




