第二十話:世界一危険なノズル
門の外の足音は、七十一人ぶんだった。
数えたのはフィオナだ。「軽いのが四十、重いのが三十、あと、やたら引きずってるのがひとり」と言うので何事かと思ったら、足を折った爺さんを背負子に載せた若者だった。
耳のいい人は、本当に便利だ。便利だと言うと「道具扱いしないで」と怒られるから、口には出さないけど。それに僕にとって道具なんかと一緒にしてはいけない尊い存在だ。
門を開けるのか、開けないのか。昨日の昼から、決める人は「誰でもない」ままだ。
そこへ二人が、同時に門の内側へ駆け込んできて、同時に口を開いた。
「入れる」
「検める」
ハンスとクルトが、一メートルの間合いで睨み合う。食堂から、一歩も進んでいない。僕は割って入ろうとして、足を止めた。入って、何て言うんだ。「まあまあ」か? カシアンの二番煎じじゃないか。
先に動いたのは、子供だった。
門の隙間から、五つくらいの女の子が転がり込んできた。膝から血が出ている。泣きもしないで、ただハンスの靴を見上げていた。
ハンスがしゃがむ。クルトもしゃがむ。二人の右手が、水筒を差し出していた。完全に同時に。
「……俺のが先だ」
「ほぼ同時だった」
「ほぼ、ってことは先だ」
「理屈になっていない」
「はい、そこまで」
年配の女性が、声だけで二人の襟首を掴んだ。
「子供と怪我人が先。スープも先。揉めるのは、そのあと。好きなだけ揉めてなさい」
揉める許可が出た。この庭は、本当にあの人で回っている。決まりの紙には、あの人の欄が要る気がする。
そして揉める時間は、翌朝に来た。
広場の真ん中に、木剣が突き立っていた。
「……なんで、こうなるんですか」
「騎士団の揉め事は、全部、稽古場で片づいた」
ハンスが、盾の紐を締めながら言う。
「あの人の下に入ってから、言葉で通じなけりゃ稽古場だ。ずっとそうだった」
「野蛮ですね」
「だろ?」
返しながら思い出す。前世の僕は、書類で殴る派だった。どっちが野蛮かは、微妙なところだ。
「ルールだ」
クルトが木剣を握る。鎧はなし。
「俺が百、打つ。お前は受ける。盾を落とすか、膝をつけば、お前の負けだ」
「勝ったら?」
「立っていたら、お前の言い分を、最初から全部聞く」
ハンスの眉が動いた。
「……聞いてなかった、って認めんのか」
「認める。昨日の俺は、数字しか聞いていなかった」
一拍。それからハンスが、にやっとした。
「上等だ」
政治の決め方としては最悪だ。でも、二人のあいだで止まっていた時間を動かす方法として、これ以上のものを、僕は知らない。
ギャラリーは、いつの間にか五十人を超えていた。カシアンが木箱の上に陣取って、勝手に実況を始める。出会った頃の優雅さはどこへやらだ。
「さあ始まりました! 解説は、誰もいないので俺が! 一番、元上官クルト! 二番、元部下ハンス!」
「うるさい」
「うるせえ」
「息ぴったりじゃないか」
一撃目で、ハンスが三歩、飛んだ。
盾が、ごおん、と鳴る。遠くでオズが悲鳴を上げた。
「縁は! 縁は傷つけるなよ!」
「十! ……二十!」
クルトの剣は、速さじゃない。重さだ。肩が沈み、足に力が溜まり、全部が一本の線になって落ちてくる。見える。見えるのに、受ける側は、受ける以外、何もできない。
それをハンスは、三十発目まで、受けた。三十五。膝が笑っている。見ている僕の膝まで笑った。
足を肩幅より少し広く、腰を落とし、待つ立ち方。ああ、と思った。ケースだ。大盾を抱えて、境目で作業班の前に立っていた、あの背中。ハンスは「立ち続ける」という仕事の形を、ずっと見ていたのだ。
「七十……八十……」
盾の腕が、がくがく震えている。それでも、口が動いていた。
「……あんたさ」
「何だ」
「数えるとき、九十五で、毎回、息を継ぐんだよ。稽古場で何百回も、数えさせられたからな」
クルトの目が、ほんの少し、丸くなった。
九十四。九十五。
息が、入った。
ハンスが、盾を、ほんの少しだけ斜めにした。クルトの剣が、黒鋼の縁を真上から叩いた。
ぱきん。
広場が、静まった。
クルトの手の中で、木剣が真っ二つに折れていた。切っ先が、からんと転がる。
「……貫かれてねえ」
ハンスが、ぼそりと言った。立ったままで。
「折れたのは、あんたの剣だ」
クルトは折れた柄をまじまじと見て、それから肩を揺らした。笑った。あの鉄面皮が、声を出して。
「聞こう。最初から、全部だ」
ハンスは口を開いて、閉じて、もう一度開いた。
「あんたが数えてんのは、死んだ連中の数だろ。俺が覚えてんのは、生きてる連中の名前だ。ドルフ爺さんの水とか、足折った爺さんとか。……顔が、あるんだよ」
「…………」
「どっちも要るんだろ。この庭には」
クルトは、長く黙っていた。折れた木剣の欠片を、拾って、握って。
「……要る。お前の言う通りだ。昨日の席の話も、俺が悪かった。あれは、締め出す席ではない」
「……おう」
「それと」
「あ?」
「五十発目から、お前の足は限界だった。なぜ立っていた」
「そりゃ、あんた、ケースが——」
そこで、ハンスの足が、ぐにゃりと折れた。
「……足、動かねえ」
「寝ていないのだろう」
「四日……いや、五日……」
「馬鹿者」
クルトが、片腕でハンスの長身を担ぎ上げた。
「命令だ。寝ろ」
「……命令なら、聞いてやる」
「それでいい」
遠くで、オズが盾の縁を指でなぞっていた。
「……一ミリ、欠けてやがる」
「木剣で、ですか」
「黒鋼にも、機嫌の悪い日はある」
カシアンが、そっと呟いた。
「運び屋は俺がやろうと思ってたのに」
誰も聞いていなかったが。
昼には決着がついた。食堂で二人が同じ机の同じ側に座った。
「門を開けるのも閉じるのも、俺とお前、二人の署名が要る」
「どっちか一人じゃ決められねえ。名簿は俺。検めは、あんた」
「入る者は三日、隔てた区画に置く。熱、咳、傷。糸の疑いも、紙に残す。疑ったことは、隠さん」
「疑いは疑いのまま、名前と一緒に書く。決めつけねえ」
ゲルトが、ペンを走らせながら鼻を鳴らした。
「領主殿。あんたは、判を押せ」
「……決めるのは、私ではないのか」
「決めるのは二人だ。あんたは押して、責任を引き受ける。決めたくない人間にも、できる仕事だ」
領主様は、しばらく自分の掌を見ていた。それから、深く頷いた。
「……それなら、できる」
誰も、僕を見なかった。僕は一言も口を挟まなかった。それが一番よかった気がする。
その夜、決まりの紙は、六行になった。
作業小屋の机で、ゲルトが清書して、僕とフィオナが横から口を出す。
一、門の開閉には、ハンスとクルトの二人の署名を要す。
二、新たに入る者は、三日、検めの区画に置く。
三、領主は、判を押し、責任を負う。
四、庭の人々は定期的に、ハンスに「大丈夫か」と聞く。
五、鍋を叩くときは、揃えない。
「五は、いるのか」とゲルト。
「次に蝗が来たとき用です」
「……いるな」
そして六行目。フィオナが横から手を伸ばして、ペンを取った。止める間もなく、さらさらと書く。
六、ユーリは、必ず帰ってくる。
「それは決まりではなく、願いだ」
「決まりです」
フィオナがにっこり笑う。ゲルトは鼻を鳴らして、なぜか蝋燭を二本、僕らの前に置き、「清書は明日にする」と言い残して出ていった。気を利かせたつもりらしい。この庭の大人は、全員、気の利かせ方が下手だ。
二人きりになると、小屋が急に狭くなった。
「ユーリ」
「うん」
「ちょっと、屈んで」
心臓が、あからさまに跳ねた。屈んだ。目を閉じかけた。
ぺた。
ん?額に、手のひら。それから頭のてっぺんに、定規。
「……何してるの」
「身長を測ってるの。柄の高さを決めるから」
「ああ。そう。うん」
「何だと思ったの?」
「何も!」
「耳、真っ赤よ」
フィオナは笑いをこらえながら、小屋の隅から長い包みを引っ張り出した。布を解くと、黒鋼のスコップ。三つ葉の柄尻はそのまま。でも、柄の途中に、小さな輪がついている。
「オズさんに頼んだの。絞りと、広がり。回すと切り替わるように」
指で輪を回すと、カチ、カチ、と軽い音がした。
「……ノズルだ」
「ユーリが言ったでしょう、ホースの先って。川はもう見えないけど、管の形は、手が覚えてるの。ずっと一緒に絞ってきたから」
彼女は柄を撫でた。
「二人じゃないと撃てないのが、悔しかったの。私がいなくても、ユーリが一人で、ちゃんと撃てるように。役に立ちたいっていうより……あなたが無事に帰ってくる確率を、上げたくて」
胸の奥が、ぎゅうっとなった。
「設計図は?」
「頭の中」
「天才か」
「違うわ。必死なだけ」
彼女の手首に目をやる。そこにあったものが、ない。
「鈴、外したんだ」
「見えるのに鳴らし続けるのも、変でしょう。……でも」
ポケットから小さな鈴を出して、スコップの柄尻、三つ葉のとなりに、くるくると紐で結んだ。りん、と鳴る。
「音がすれば、どこにいるか分かるでしょう。迷子になるのは、あなたのほうだから」
「迷子前提なの」
「前科があるもの」
ごめんなさい。
悔しいがここは甘受するしかあるまい。
「……行ってくる」
「うん」
「ちゃんと帰ってくる」
「六行目に書いたから」
……外堀を、完全に埋められた。造園でも使う基本の手だ。いや、造園は、こんなに心臓に悪くない。
唇が、触れた。短く。それから、もう少しだけ長く。
「ん……ユーリ」
蝋燭が二本、揺れた。何度目かは、数えるのをやめた。帳簿に書けない数字があると知ったのは、この庭に来てからだ。
扉が、こんこん、と鳴った。
「……お邪魔してもよろしいですか」
年配の女性が、盆を持って立っていた。ホットミルクが二杯。表情は、完璧な無。
「……全部、見てました?」
「何も見ていません」
「…………」
「廊下で三十分、待っていただけです」
見てるじゃん……
「あれだね、僕たちのプライバシーは皆無だね」
「そうね」
「みんな応援してくれてるのかもしれないけどさ……」
「うん」
あれ?なんか目を合わせてくれない。おかしいな。
そう疑問に思っているとフィオナが弱々しく迷うように言った。
「ねえ……ユーリ」
「うん」
「私……やっぱり我慢できないみたい。今、あの時の約束を破ろうとしているわ」
クルトに嫉妬した日の夜の、我慢の約束。
フィオナは顔を真っ赤にしながら俯いている。
こんなフィオナを目の前にして我慢できるか?いや、できない。
そうして僕たちは僕の自室に向かった。
——二人だけの夜。生涯忘れがたく、溺れるような時間であった。
出発の朝は、見送りが多すぎて、出発なのか行事なのか怪しかった。
ハンスとクルトが、門の左右に並んで立っている。ハンスの目の下の隈は、ひと晩で嘘みたいに薄くなっていた。
「六日で戻れ」とクルト。
「四日で戻れ」とハンス。
「どっちだ」
「「四日」」
声が揃って、二人とも嫌な顔をした。仲直りの仕方が、年の近い兄弟みたいだ。実際は、ひと回り違うのだけど。
「ハンス」
「あ?」
「大丈夫か」
「……今朝は、本当に、大丈夫だ」
「翻訳は」
「要らねえ」
ティムとリーナが種の袋をくれて、ノラが「バッタ、ちゃんとさらしてから食べなよ」と言った。
いや何の念押ししてんだよ。
「ユーリ、行ってらっしゃい」
フィオナは、昨夜のとろけるような顔とは打って変わって凛とした表情をしている。顔立ちが綺麗だからかっこよく見えるな。
彼女は最後に、僕の襟を直した。人前で。全員が、一斉に空を見た。
やっぱりみんな下手だよねこういうの。
同行は、カシアンと冒険者二人。馬が三頭に、荷馬車が一台。柄尻で、鈴が、りん、と鳴った。
道すがら、道標を立てた。二キロごとに魔導アブラナを一株、黄色い花を咲かせる。水場も三箇所掘った。歩いてくる人が迷わないように。迷子は、僕ひとりで十分だ。
二日目の夕方、分岐に着いた。
官営第七倉は、石造りの丸い塔みたいな麦倉が三棟、高い壁に囲まれて立っていた。その前庭で、黒い甲冑が四人、麻袋を担いでいる。
「……四人か」とカシアンが低く言った。
「一人でも死にかけたんだぞ、俺たちは」
「うん。だから、全員、いっぺんに」
様子がおかしい。担ぎ方が、へたくそだ。隊長らしき一人は、腰を押さえてぼやいている。魔族も、麻袋を担げば腰に来るらしい。戦う顔じゃない。輜重だ。それでも魔族だ。一人で、僕の首くらい飛ばせる。
「作戦は」
「ありません」
「ないのか!」
「あります。でも、説明するより見てもらったほうが早いので」
僕はスコップを背負って、倉の塔を登り始めた。十五メートル。鈴には手拭いを巻いて、鳴らないように。足が、思ったより震えている。造園屋は、案外、脚立で足がすくむ。庭師のくせにとは言わないでほしい。
天辺に立つと、前庭がまるごと見下ろせた。相手より高い場所。庭師の、いちばん得意な間合いだ。
息を吸う。
「すみませーん!」
四人が、同時に顔を上げた。
「そこの輜重の方々! 官有物の持ち出しには、駅逓長ゲルト殿の許可状が必要です! お持ちですか!」
ゲルトさん、ごめん。名前を借りました。
沈黙。隊長が、ゆっくり腰から手を離した。
「……何だ、貴様は」
「庭師です」
「人間の取り決めなど、知るか」
「では、没収で」
乾いた笑い声が上がった。いいぞ、笑え。足を止めて、塔の真下に固まってくれ。
「殺せ」
短い一声で、三人が地面を蹴った。足音が、消える。速い。分かっている。速さで勝てないことは、前に骨まで習った。
だから、速さの要らない場所に立っている。
柄の輪を、緩めた。
川は、見えない。帳簿の隣に、地図は広がらない。それでも、手の中に、彼女の絞り方が残っていた。
ずっと出口を探して反響していた僕の中の湖が、スコップの先へ向かって、一斉に流れ出す。
スコップと言っても今は掘る部分を取り外しているから、魔術師が使う杖に見えるが。
ひとりで出口を持つのは、初めてだ。
炎が、雨になった。
ばしゃあっ、と音がした。比喩じゃない。前庭いっぱいに、炎の水やりが降り注ぐ。花壇に水をやる要領だ。ホースの先を、ゆっくり、左から右へ。造園屋の手が覚えている動き。
三つの影が、途中で止まった。速いやつは、広い面の前では、的が小さいだけだ。悲鳴は短かった。黒い粉が、風に流れた。
「……何だ、これは」
隊長が、黒い魔気のドームを張って立っていた。炎が表面を舐めて、削っていく。削れている。帳簿の端の数字が、百、九十、八十五、八十。止まらない。僕の湖は、尽きない。
「その魔力は……貴様」
「あ、庭のスキルの副産物です」
嘘だ。いや、半分は、本当だ。
絞る。
輪を、ぐっと回した。雨が、槍になった。細く、真っ直ぐに、音もなく。ドームの中心に、赤い針が一本、刺さる。ぱり、と膜が割れた。
炎が、隊長の胸を貫いた。
彼は、倒れなかった。足元に、落とした麻袋がひとつ。それを見下ろして、かすれた声で言った。
「……ゆえに、の」
「……前を、読みたかった、な」
黒い粉が崩れて、風に消えた。
ゆえにの前?何が言いたかったんだ。
……まあいい。考えてもわからないしな。
一息ついて周りを見ると、一面真っ黒であった。
流石にやりすぎたようだ。これはもう少し控えめに使った方がいいかもしれない。
塔の下で、カシアンが口をぽかんと開けていた。冒険者二人も。夕日が、前庭に積もった黒い粉を、金色に染めている。
「……なあ、ユーリ」
「はい」
「今のは、何だ。俺の知ってる魔術じゃない」
「散水ノズルです」
「世界で一番危険な散水ノズルだ」
「返品不可です」
笑おうとして、手が震えているのに気づいた。胃のあたりに、あとで来るやつが迫ってきているのも分かる。今は、後回しだ。今度の後回しは、ちゃんと自分で選んだ。
りん。
柄尻で、鈴が鳴った。巻いておいた手拭いは、炎で焼け落ちていた。
ここにいるよ、と言われた気がした。
「……迷子には、なってません」
誰にともなく、そう呟いた。
倉の中は満杯だった。大麦、小麦、豆、アブラナの種。ゲルトに教わった番号で、封蝋の扉はあっさり開いた。
荷馬車に積み込む間に、カシアンが隊長の革筒を拾ってきた。中に、紙が一枚。帝国の公用文字だ。占領した役所の便箋を、使い回している。
上の端が、定規で切ったみたいに、まっすぐ切り取られていた。一行目が、ない。
二行目から、読んだ。
——ゆえに、倉を空にせよ。庭へ向かう者の足を、止めよ。
ゆえに、ってこれのことかな?
そして最後の行。
『千』
その一字だけが、墨で三重に丸く囲んであった。
何の数だろう。庭の人数か。向かう者の数か。もっと別の何かか。分からない。
ただ、いまの庭は、四百五十三人に七十一人を足して、五百二十四。千まで、あと四百七十六。
ハンスの「全員入れる」と、クルトの「守れる数」がぶつかる日は、思っていたより、ずっと近い。
僕は紙を折りたたんで、胸にしまった。帰ったら、二人に同時に見せよう。
——二人の署名が要る話だ。




