第十九話:帳簿の重み
丘を下りる途中で、鼻が先に庭へ帰った。
堆肥の匂い。煮炊きの煙。それから、大勢の人間が一箇所で暮らしている、あの生々しい匂い。
出ていく前より、確実に濃くなっている。いい匂いと言い切れないあたりが、もう慣れた人間の感想だと思う。
門の前では、ハンスが帳簿を抱えて仁王立ちしていた。
「遅え」
それきり、続きが出てこない。目の下の隈が、僕より濃い。……この顔を、もっとちゃんと見ておくべきだったのだ。気づくのは、少し先の話になる。この時の僕は、頭の九割をバッタに占領されていた。残りの一割は、まあ、後ろに乗っている人のことだ。
そんな彼女は二人乗りになった後は僕の後ろでうとうとしていた。
対策は、その晩のうちにみんなへ説明した。煙の筋で羽音を乱し、囮の畑へ降ろして、朝に拾う。穴だらけの案だと先に断って、ノラの「穴は塞げばいいじゃん」を看板に掲げた。
もうひとつ、決めたことがある。門の外で待っている二百六十一人を、虫が過ぎるまでのあいだだけ、土塁の内側へ入れる。「あいだだけ」と口にした瞬間、ハンスの眉がぴくりと動いた。見えていた。見えていて、流した。虫が先だ、と。
囮の畑は、土塁から北西へ二百メートル。ひと晩で伸ばした麻に、干し草の山と古い革靴、それからリーナが剥いた芋の皮をバケツ十杯分。実が半分残った分厚い皮は、バッタにとっても御馳走だと信じたい。
翌日は、丸一日が煙と囮に消えた。
三晩目の夜は、風がなかった。
土塁の上、ケースの墓のすぐ脇。
庭についた後すぐに「あ」と「う」と「わ」が混ざったみたいな声を出して飛び起きたあの人は膝を抱えて、手首の鈴を反対の手でそっと押さえている。
鳴らさないためだ。耳だけが北西を向いたまま、ぴくりとも動かない。川が見えなくなった代わりに、彼女の耳は、いま庭でいちばん頼りになる物差しだった。
「……来た」
ささやきよりも小さな声だった。
「麦を挽く音。遠いけど、拍が揃ってる。四つで、ひと息」
帳簿の端が、じわりと白くなる。点だ。ひとつ、十、五十、百まで数えて、やめた。いざご対面すると、悪寒がするほどのキモさである。
「煙、お願いします」
鈴が、りん、と一度だけ鳴った。土塁の下でカシアンの号令が飛び、煙の筋が十二本、群れの進路を横切る縞になって立ち上がる。
燻した針葉樹と、刈ったばかりのアブラナの茎。目に染みるし、喉にも来る。先頭が、最初の筋に触れた。
「乱れた!」とフィオナが言う。「拍がひとつ遅れた。右、七番と八番のあいだ、煙が薄い!」 「七、八、足して!」
なんでこの人こんなに分かるの……
濡れた枝が、ぼうっと煙を吐く。点の列が、縞をくぐるたびにほどけていく。拍を見失った蝗は、まっすぐ飛べない。落ちて、這って、いちばん近い緑へ。囮の畑へ。
「……食べてる」フィオナが小さく笑った。
「麦を挽く音が、紙を破る音に変わったわ。ばりばり、って」
「芋の皮かな」
「リーナの皮の音ね」
「あの皮優秀」
いける、と思った。思った時点で、だいたい何かが来る。
こういうときフラグ立てるの得意なんだよな。困ったものだ。
「戻った」
フィオナの声が、急に硬くなる。
「縞を抜けた一群が、拍を取り戻してる。こっちを向いたわ。揃いすぎてる。号令みたいに」
点の塊が、土塁へ舵を切った。数えるまでもなく、多い。薪は、もう残っていない。
怖い。普通に怖い。魔族とは別の意味で、群れは性質が悪い。斬れないし、説得できないし、何より多い。
「ユーリ」
袖が、くいっと引かれた。
「あの拍、向こうの『糸』の拍なのよね。だったら、拍じゃないものをぶつけたら、どうなるの」
「拍じゃないもの」
「揃ってないもの。ばらばらで、うるさくて、リズムなんてひとつもないもの」
僕は、土塁の内側を振り返った。
広場に、二百六十一人が座っていた。虫が過ぎるまでの「あいだだけ」の客人たち。膝を抱え、それでも、鍋やバケツだけは手放さずに。
「ハンス!」
「あ?」
「全員に、鍋と鍬を叩かせて! ただし、揃えるな!」
「……はあ?」
「好き勝手に、めちゃくちゃに! 拍を合わせたら、向こうの思う壺だ!」
一秒の間があって、ハンスが息を吸った。
「聞こえたな! 今夜だけ、規律は捨てろ! 叩けるもんは何でも叩け! 隣と合わせたら負けだ!」
ガン、カン、ガラガラ、ドン。
最初はまばらだった音が、あっという間に雑音の海になった。子供が桶を蹴り、老人が鍋蓋を放り投げ、誰かが歌い出して、誰かが怒鳴って、赤ん坊が泣く。
土塁の下の、元騎士団の一角だけは、きっちり二拍子で響いていた。
「クルトさん、揃ってます! 揃っちゃってます!」
「……崩し方を、教わったことがない」
「適当にやってください!」
「適当の定義を教えてくれ」
なんだこいつ。
笑っちゃいけない場面なのに、全員の肩が揺れた。
そして、効いた。
点の塊が、ざわめく。四つの拍が五つになり、三つになり、崩れていく。雑音を浴びた蝗は群れの形を保てず、ばらばらと空から零れた。零れた先は、ぜんぶ囮の畑だ。
「……聞こえなくなった」フィオナが、ゆっくり息を吐く。「向こうの拍が、人の音に負けたのよ」
「いればいるほどいいだろうが!」
広場の真ん中で、ハンスが叫んでいた。鍋蓋を両手に持って、涙目で笑っている。
「いつかのお返しだ、ユーリ!」
返す言葉がなかった。ぐうの音も出ない、とはこのことだ。
明け方の囮の畑は、緑から灰色に変わっていた。全部、虫だ。
降りたばかりの蝗は、本当に羽が重いらしい。ゲルトの災害録は、少なくとも嘘をついていなかった。ノラが先頭に立って、大人二十人に網の使い方を教えている。
「すくわないの。上から、ばさって被せる。逃がしたら、あとで全部食べられるよ」
「は、はい、先生」
「先生じゃない。ノラ」
年配の女性が、少し離れて腕を組み、満足そうに頷いていた。この庭の「怖い人」の系譜は、順調に継承されているだろう。
荷車、二十二台。数えるのは、そこで諦めた。本当に何匹いるんだこれ。
灰汁で三回さらして、黒い土の上に一晩広げて、茹でて、焼く。数字は八%から二%まで落ちる。ただし、洗うだけで人手が二百はいる。僕とフィオナは考えを巡らせるのであった。
——
首都、旧王城の北塔。
火が消えてだいぶ経つのに、窓はまだ焦げ臭い。メルヴは換気を諦めて、机の上の糸を数えた。受け糸は全部で十七本。十五本は静かで、一本は昨日から落ち着きがなくて、残りの一本は切れている。
切れて、もう何日経っただろうか。
丘の射手、ロウル。同じ当番表に、二百と少しの夜、名前が並んだ男だ。札遊びでは一度も勝てなかったくせに、負けるたびに「次は読めた」と言い張った。最後に届いた糸には、悔しさが乗っていた。人間のそれと、驚くほど手触りが同じだった。
彼女は当番表の彼の名前に、線を引く。曲がった。引き直したら、もっと曲がってしまった。
「受糸官殿!」
戸口で、若い魔族が敬礼したまま固まってる。ザイ、今年入ったばかり。目が輝いている。嫌な予兆だ。
「丘の閣下より、追加のご命令が——」
「庭の件でしょう」
聞きたくなくて、先に言った。
「『灰を土に変える庭』。報告書の字数が減るから、私はそう呼んでる」
「はっ! 庭の人間を、数え続けよ。ならびに、ベレーの娘の目は損なうな、と。それと——」
「それと?」
「昨夜の蝗の報せを、魔王様がお読みになって、お笑いになったそうです」
笑った。
その二文字で背筋が冷えた自分が、少し癪だった。魔王様が笑うのは珍しくない。珍しくないが、笑ったあとには、決まって「ゆえに」が来る。
ゆえに、飢えさせよ。ゆえに、数えよ。ゆえに、使え。
ゆえに、ゆえに、ゆえに。
命令書には、いつも「ゆえに」から先しか書かれていない。その前の行を、私たちは読ませてもらえない。読ませてもらえないまま、はや百五十年。
「損なうな」は、安心していい一行のはずだ。なのに、ちっとも安心できない。「使う」の中身を、メルヴは知らない。知らないほうが眠れる、と上官は言う。だが眠れていないのは、きっと自分だけではない。
机の隅の鉢に、目をやった。
王城の菜園跡で拾った、チューリップの球根だ。灰の中でも腐らなかったのが不思議で、持ち帰って、毎朝、魔術で水をやっている。
芽は、まだ出ない。話しかけると出る、と帝都の菓子職人が言っていたので、一応、話しかけている。出ない。
……まあそれはいい
灰を土に変える庭。最初にその報告書を読んだとき、鉢を抱えたまま三十分、動けなかった。
「受糸官殿? ほかに、何か」
「ザイ。厨房から、パンをもらってきて」
「はっ! ……ですが人間のパンなど!」
「焼いてるのは、うちの料理番でしょう。三日で焼き方を全部忘れた、あの」
「……焦げております」
「焦げててもいいの。食べるのよ」
首をかしげて去っていく背中を見送る。あの子は、まだ「ゆえに」の前の行が気にならないのだろう。羨ましい限りである。
メルヴは筆を取り、当番表の明日の欄に、自分の名前を書き込んだ。命令には従う。従うのは、楽だから。楽だから従っているのか、怖いから従っているのか、このごろ、よく分からないけれど。
鉢の土を、指で触った。ほんの少しだけ、湿っていた。
——
虫の次は人の話ということで、ユーリたちは集まっていた。
午後、館の食堂に主要な人物の顔が揃う。後始末で全員くたびれているのに、誰も「あとにしよう」と言わなかった。いや言えなかったのかもしれないが。
上座が、空いていた。領主様はいちばん端の席にいる。座る人がいないのか、座れる人がいないのか。
「議題は二つ」と、僕は切り出した。
「外から入れた人たちのこと。それと、二日後の僕の出発」
ざわ、と空気が動いた。
「ゲルトさんが、東街道の分岐に官営の種籾倉庫があると覚えていました。麦の種がなければ、庭は広がりません。ついでに、歩いてくる人たちのために、道標と水場を作ってきます。四日、長くて六日」
「……また行くのか」
ハンスが、ぼそりと言った。僕を見ずに。
「数字から行く」
彼の手から帳簿が、どん、と机に置かれた。
「内側に、もともと百九十二人。外から入れたのが二百六十一人。合わせて四百五十三。虫は荷車二十二台で、洗って、寝かせて、食えるようにして、十一日ぶんの飯になる。ただし、洗うだけで人手が二百いる。内側だけじゃ回らねえ」
「つまり」
「外の連中を、このまま置く。『あいだだけ』は、昨日で終わった」
「異論がある」
低い声。クルトだった。
「守備隊は四十一人。四百五十人を超える内側を、交代で見るには足りん。それに」
彼は、ほんの一瞬だけフィオナを見て、すぐに目を戻した。
「あの射手は、フィオナの目を見て『その目か』と言った。向こうは、あの目を知っている。こちらの目は、いま使えん。入れた者の中に、糸を絡められた者がいないと、誰が言い切れる」
「……そうね」
フィオナ本人が、あっさり頷いた。
「見えないのは事実だもの。警戒は当然だと思う。クルトさんを責める気は、ないわ」
「疑うのかよ」
ハンスの声が、一段、低くなった。
「飢えて、死にかけて、門の外で列を作ってた連中を。あいつらの顔を、あんたは見たのか」
「見た。小都市の駐屯地でも、街道でも。顔を見たから言っている」
「俺は、名簿を作った。紙だけじゃねえ、頭に入ってる。二百十一番は、ドルフって爺さんだった。列の後ろの子供に、自分の水を分けてた。朝、起きなかった。俺は線を引いた。定規で引いたみたいに、まっすぐなやつを」
食堂が、静まり返った。
「あれを、もう一回やるのか。二百六十一人ぶん。やれって言うのか」
「俺は、認識票を数えた」
クルトの声は、静かだった。静かな分だけ、重かった。
「守る数を誤れば、全員を失う。それを俺は見てきた。感情の話ではない。算盤だ」
「算盤なら、俺のほうが得意だ!」
「ならば答えろ。四百五十三人の飯と、見張りと、糸の疑いを、誰が背負う」
「背負ってるだろうが、いま、俺が!」
机が鳴った。ハンスの拳だった。ここから先は、正直、止めようがなかった。
「まあまあ」カシアンが両手を広げる。
「胃袋はひとつしかないんだ、みんなで仲良く——」
「黙れ、カシアン」
「はい」
珍しく、即答で黙った。この人が引くのは、よほどの時だ。
「ハンスさん」
フィオナが、静かに言った。
「息が、すごく浅い。何日、ちゃんと寝てないの」
「……関係ねえだろ」
「入ってきたとき、足音も左右でずれてた」
ハンスは舌打ちだけを返した。否定は、しなかった。
「決めるのは」
端の席から、思いがけない声が上がった。領主様だった。
「本来、私であるべきだと思う。ここは私の領地だ。外へ出せ、とひとこと言えば、それで済む話だ。……済んでしまう話だ。だから、言えない」
膝の上で、手が握りしめられていた。
「あの日、門を閉ざして、誰かを選んだ夜を、もう一度越えられる自信が、私にはない。決めたくないのだ。情けないが」
すぐには、誰も何も言えなかった。ためらいなく口を開いたのは、年配の女性だけだ。
「領主様。決めない、というのも、決めることですよ」
「……分かっている」
「分かっていておっしゃるなら、それは立派です。立派ですが、庭は待ってくれません」
言葉は優しいのに、逃げ場がなかった。
「ならば」
クルトが立ち上がる。
「ユーリの留守のあいだは、俺が決める。戦時の指揮は、騎士の務めだ」
「戦時?」
ハンスが、顔を上げた。
「戦ってんのは、全員だろ。昨夜、鍋を叩いたのもあの連中だ。……あんたの命令で動く義理は、もうねえよ」
空気が、固まった。
「命令だと言った覚えはない」
「同じことだ! 席を空けとくって言ったのは、俺だ。守備隊の、一番前の席。あれは——締め出すための席じゃねえ!」
「……その席の話を、ここで使うな」
初めて、クルトの声が揺れた。ケースの名前は、誰も口にしていない。それでも、全員に聞こえた。
がん、と机の脚が蹴られて、オズが立ち上がった。
「やめろ。鉄は、焼き入れで割れる。割れるのは、いちばん熱いところからだ。いまのこの庭は、焼き入れの真ん中なんだよ。……頼むから、いま叩くな」
しばらく、誰も動かなかった。
その間ずっと、僕は黙っていた。黙っていた、というより、自分の順番を待っていたのだと思う。来た。ハンスの目が、こっちを向いた。
「ユーリ」 「うん」 「お前の番だ。……いつも、そうだ」
声は、思ったほど荒れていなかった。それが、かえって堪えるな。
「お前が出ていく。俺が残る。『一番大事な持ち場だ』って、いい言葉をくれる。で、帰ってきたら、また出ていく。ありがたく受け取ってきたよ、ずっとな。でも、ありがたい言葉じゃ腹は膨れねえって、前にも言ったよな」
「……ああ」
「駅逓長の爺さんを記録係にしたのも、俺は今日知った。帳簿は俺の仕事だ。一言くれてもよかっただろ」
「助けたくて。ハンスは、働きすぎだから」
「助けが要るのは俺だって、お前が気づいてたなら、とっくに聞いてたはずだ。お前、いつか俺に『大丈夫か』って聞いたか」
答えられなかった。
「お前の右眉の癖は、庭中が知ってる。フィオナさんの『大丈夫』なら、お前は顔色ひとつで翻訳するだろ。……俺の眉の癖は、誰か一人でも知ってんのか」
言い返す言葉は、あった。いくつも。計算して並べれば、全部正しい。でも、どれもハンスが「分かってる」の一言で切り捨てる種類の言葉だった。僕は口を開けて、閉じた。
帰ってきた日の、門の前の隈も。「あいだだけ」で動いた眉も。見えていて、流した。後回しにしたのは虫じゃない。ハンスだ。
前世の後輩の顔が、一瞬、浮かんだ。倒れる前の、よく笑う顔だ。笑っていた。ずっと笑っていたんだ。僕はそれを「大丈夫」だと読んだ。
「……俺は、今日から名簿を降りる」
ハンスが、帳簿を机の真ん中へ押しやった。
「誰かやれ。駅逓長殿、あんた記録係だろ」
「名簿は写せる」
ゲルトが、平らな声で言った。役所の窓口の声だ。
「だが、二百十一番の爺さんの名を覚えとるのは、お前だけだ。降りるなら降りろ。ただし、置いていくな」
ハンスは何も言わず、食堂を出ていった。扉の閉まる音は、思ったより小さかった。
クルトは座り直して、誰も見ずに、自分の手を見ていた。剣を握る手じゃない。バケツを提げて堆肥を運んだほうの手だ。
「ハンスさん、お墓のほうへ行く」
フィオナが、耳元でそっと言った。
「足音が、そっち。……行ってあげて」
手首の鈴が、りん、と一度鳴った。「行って」の合図だと、翻訳しておく。
夕暮れの墓には、黄色い花が咲いていた。
ハンスは、土塁の斜面に背を預けて座っていた。隣に、三つ葉の彫りの盾。手には、焼いたバッタ。
「……意外と、うまい」
「聞いてない」
「聞けよ。いま大事な話だろ」
並んで座ると、花が風に揺れた。ケースの前で、バッタを食う男と庭師。絵面は最悪だけど、悪くない気もする。
「悪かったな」
ハンスが、バッタの脚をつまんだまま言った。
「お前に言うことじゃなかった。お前が悪いんじゃねえ」
「悪いよ」
「あ?」
「『一番大事な持ち場』って、便利な言葉だった。言われたほうは、断れなくなる。……昔も、僕は同じことをした」
ハンスは、少し黙った。
「俺はな、お前に頼まれると断れねえ。それが一番腹立つんだ。お前のせいじゃねえ。俺の問題だ」
「ハンス」
「なんだ」
「大丈夫か」
ハンスは目を丸くして、それから、ふっと吹き出した。
「大丈夫じゃねえよ。見りゃ分かんだろ」
「うん。初めて、翻訳のいらない返事を聞いた」
「うるせえ」
しばらく、二人で花を見ていた。
「紙に書け」
ハンスが言った。
「お前が出る前に。あと二日だろ。誰が何を決めるのか。誰が決めちゃいけねえのか。俺の仕事、クルトの仕事、領主様の仕事、爺さんの仕事。お前がいなくても回る形で。それが書けたら、俺は名簿に戻る」
「書けなかったら」
「帰ってきたとき、庭は割れてる」
最後の一口を放り込んで、彼は付け足した。
「木は、根から先にやられるんだろ。庭師なら、分かるよな」
分かる。分かりすぎて、嫌になるくらい。表の葉が青いうちは、誰も気づかない。見えないところで、先に傷む。
食堂へ戻ると、ゲルトがひとりで帳簿を広げていた。ハンスの帳簿だ。ペンが、音もなく走っている。
「写しておいた。降りたやつの穴は、誰かが埋めにゃならん」
「ありがとうございます」
「礼はいらん。庭師、ひとつ聞く。紙に、何を書くつもりだ」 「……誰が、何をやるか。です」
「それは『職』の話だ。わしが言うとるのは、その上だ」
老人は、ペンを置いた。
「四百人を超える人間が、飯と寝床を分けて、決め事を持つ。わしらは、それを何と呼んどった」
「……」
「ここは、とっくに庭ではなくなっとる。国の入口に立っとる。国には、庭師の『やっておいて』では回らん決まりがいる。お前に、その気はあるのか」
履歴書の資格欄を、頭の中でめくってみる。造園施工管理技士。毒を吸う植物の知識。糞尿の取り扱い。……「建国」の二文字は、どこにも書いていない。前世のぶんも、今世のぶんも。
「……ない、です。正直」
「そうだろう」
ゲルトが、鼻を鳴らした。
「だが、書けと言われたら書くのが役人だ。庭師は、どうだ」
「庭師は」
答えは、もう出ていた。ひどい話だ。書くしかない。紙とペンと、手伝ってくれる人は、この庭に山ほどいる。……ハンスが戻ってきてくれれば、だけど。
「書きます。一行目は、もう決まってます」
「ほう」
「『定期的に、ハンスに「大丈夫か」と聞くこと』」
「役所の書式じゃないな」
「二行目以降は、まだ何も決まってません」
「それは、すこぶる庭師らしい」
りん。
扉の外で、鈴が鳴った。フィオナが立っていた。顔だけが、西を向いている。彼女の目は、普通に見えるようになっても川は見えない。
「ユーリ。門のほうから、音がするの。鐘じゃない。叫び声でもない。足音。たくさん。軽くて、ふらふらしてる」
ゲルトが、眼鏡をゆっくり押し上げた。
「噂を握って、東へ歩いてきた連中だろう。……ほれ、庭師。最初の客だ」
二日後に、僕は出る。それまでに、紙に何を書くか。決まっているのは、一行目だけ。
そして門の外に、新しい列ができはじめていた。




