第十八話:帝国の抜け殻
結局、一睡もしなかった。
昨夜のことを思い出そうとすると手が止まるので、思い出さないことにしている。何にも代え難い、幸せな時間であった。
心を無にした努力の成果として、今納屋の鍬を全部磨いてしまった。刃が光りすぎて、ちょっと怖い。
配給所の前には、もう列ができていた。昨日まで門の外にいた新入りの顔も混ざっている。スープを受け取った手が、器の熱さに驚いて、それから落とさないように両手で包む。あの仕草を見るたびに、胸のあたりが落ち着かなくなる。
具は煮崩れて、何の野菜だったか分からない。塩気があって、熱い。それだけで、ここは相当恵まれた場所だと思う。
暗渠の溝では、古株と新入りが同じ向きに並んで鍬を振っている。会話はない。喧嘩もない。ただ、鍬の音だけが、日ごとに揃ってきた。
厨房の隅では、ティムとリーナが芋の皮を剥いていて、リーナの皮は厚い。実が半分くらい残っていない。
「芋が三つ、なくなってた」
ハンスが、帳簿を脇に挟んで隣に来た。
「犯人、探すか」
「しねえよ。探したら、見つかるだろ」
それ以上は言わなかった。言わないのがこの男なりの優しさだと、最近ようやく分かってきた。
門のほうに目をやる。開けた門の外には、まだ列が残っている。名簿の番号は三百を過ぎた。毎日誰かが並び直して、毎日少しずつ、列が短くなる。入れたからじゃない。
昨日の朝は、二百十一番の人が起きなかった。ハンスは何も言わず、名簿に線を引いた。定規を当てたみたいに真っ直ぐな線で、真っ直ぐすぎて、こっちが見ていられなかった。
「顔、青いぞ」
「寝てないだけです」
「お前が寝ないのは、いつものことだろ」
「今日は、いつもと理由が違います」
「あ?」
「なんでもないです」
朝食のあと、館の食堂に人を集めた。領主様、ハンス、年配の女性、クルト、カシアン、オズ。フィオナは僕の隣で、ハンスの杖を膝に載せて座っている。
テーブルの真ん中に、小瓶を置いた。灰色のバッタが、中でじっとしている。
「虫だな」
オズが、見たままを言った。
「虫ですね」
「虫一匹で、全員呼んだのか」
ハンスが言った。庭師の前で言ってはいけない台詞を、うっかり言った人の顔をしていた。
僕は黙って蓋を開け、バッタをつまんで、テーブルクロスの端に載せた。麻のクロスだ。端の房は、もうだいぶ擦り切れている。
音はしなかった。バッタが房に口をつけて、糸が一本ずつ消えていく。息を一つ吐くあいだに、指一本分。
「……あー」
カシアンが、自分の外套の袖を、そっとテーブルから遠ざけた。
「麻と革と葉と干し草は、食べました。堆肥と灰と釘は、食べませんでした。魔気は五十一%。庭の外で育った個体です。昨夜、帳簿の端に映った点は、こいつと同じものです。数は」
言いかけて、少し詰まった。
「……数えられませんでした」
誰も、すぐには何も言わなかった。
「飛ぶのは夜で、昼は止まってるみたいです。昨夜の動きから見て、庭の上に着くのは、三晩後。今夜を入れて、です」
「対策は」
領主様が訊いた。
「正直、まだ何も。」
「だから、見に行きます。何を食べて、何を嫌がって、どのくらいいるのか。庭にいたままじゃ、分からないので」
「お前の留守に来たらどうする」
ハンスが、むっとした声を出した。
「三晩は来ない、という計算です」
「計算が外れたら」
「外れたら、ハンスさんに任せます」
「他人事みたいに言うな!」
「すごく自分事です。だから任せるんです」
ハンスは何か言い返そうとして、結局、舌打ちだけにした。
「ユーリ」
隣から、フィオナの声がした。
「さっきから、かりかり言ってる。テーブルクロスの、左から三つ目のコップの手前」
全員が、そこを見た。
バッタは、ちょうどそこにいた。口の周りに、麻の糸屑が絡まっている。
「……合ってる」
「羽音を聞き分けられるのは、いまこの庭では、たぶん私だけでしょう。昼間に探すなら、目より耳のほうが役に立つわ」
「危ない」
「危ないのは、ユーリも同じでしょ」
正論だった。反論の材料を探しているうちに、クルトが言った。
「俺も付く」
「それなら、ひとつ当てがある」
カシアンが、珍しく真面目な声を出した。
「ここから西へ、馬で半日。第四駅逓所。鳩小屋のある駅だ。世界中の便りは、まず駅逓所に落ちる。それに」
カップを持つ手に、少しだけ力が入っていた。
「叔父貴が、駅逓長をやってる」
駅逓所って、馬宿みたいなやつだっけか。
出発は、拍子抜けするほど地味だった。見送りはハンスだけで、「虫の対策、考えとく」と言った。何を考えるのかは、聞かなかった。聞いたら、お互い不安になる気がした。
馬は三頭。栗毛の一頭は、ケースが世話していた馬だ。僕にはまだ慣れていないらしくて、荷を載せるあいだに三回、尻尾で叩かれた。
西へ向かう街道には、灰が薄く積もっていた。薄いのに、色が悪い。踏むと、砂にしては粘って、粉にしては重い。口には濡らした布を巻いてあるけれど、それでも喉の奥が、いがらっぽい。
最初の一時間は、蹄の音しかしなかった。
最初に見つけたのは、道標にもたれた老人だった。
眠っているのだと思った。馬を寄せて、違うと分かった。口が開いている。中に、土が詰まっていた。歯の隙間まで、黒い土だった。
食べたんだ、と思った。腹を満たすためじゃなくて、何かで口を埋めていないと、耐えられなかったのかもしれない。確かめたいわけでもない。老人は、東を向いて座っていた。
「どうしたの」
フィオナが、馬上からこちらに顔を向けた。
「道標に、人が寄りかかってる」
「……生きてる?」
「いや」
彼女は何も言わなかった。目が、僕のほうを向いたまま、動かなかった。彼女は、まだぼんやりとしか見えていない。
それからも、一人、二人と行き倒れた人々を見ることは増え続けた。中にはパンか何かを巡って争ったのだろう。深い切り傷を負い、傷口から腐り始めている者もいた。
そこから先は数えていない。道の脇に、人が並んでいる。顔の向きが揃っていて、手の位置も揃っていて、誰かが道を空けるために引きずったのだと分かった。ていねいに並べてあった。その誰かも、きっとそのうち、列の中に入ったんだろうが。
足元の数字を見ることにした。魔気、四%、五%、四%。ここはまだあまり振っていないな。地域によってまだムラがあるのだろう。
……数字を見ていれば、顔を見なくて済む。卑怯か。
だけどそうすることで、僕はまだ道を進んでいる。
「ユーリ」
「うん」
「いま、何か、踏んだ」
馬を止めると、彼女は降りてしゃがみこんで、指先で地面の布をたどって、小さな手に触れた。
冷たくなった小さな手に。
「……ごめんなさい」
死んだ人に、彼女は謝った。
クルトが黙って、その手を布の下へ戻した。
蠅がいない。
気づいたのは、それからだいぶあとだ。死体のそばなら、どこにでもいるはずの蠅が、一匹もいない。鳥もいない。カラスの一羽も飛ばない。全部食べ尽くされたのか、先に飢えたのか。どちらにしろ最悪だな。
カシアンは一度だけ口を開きかけて、閉じた。この人が冗談を飲み込むのを見るのは、初めてだ。
第二駅逓所は、焼けていた。柱だけ残った壁に、板が一枚、立てかけてある。
『水も食べ物もありません ごめんなさい』
字は、きれいだ。書いた人は、たぶん最後まで丁寧な人だったのだろう。通りかかった旅人が、無駄に探して力を使わないように、わざわざ書いたのだ。
昼前、乾いた川の橋にさしかかった。
「止まって」
フィオナが、僕の袖を掴んだ。
「足音。たくさん。……軽い。どの足も、ふらふらしてる」
カシアンが剣の柄に手をかける。クルトが馬を前に出す。
橋の下から、人が出てきた。十人、いや、もっといる。男も女もいる。持っているのは、鍬と、鎌と、ただの棒だった。誰も叫ばない。叫ぶ力がもうないのだと、あとで分かった。
「引け」
クルトが言った。誰も引かなかった。
「食料は分けます。全部は無理でも」
僕が荷袋を開けた途端、何本もの手が伸びてきた。
「分ける」という言葉は、聞こえていなかったのだろうか。聞こえなかったことにしただけか。
袋が裂けて、干した野菜が土の上に散らばる。人が人を押しのけて、拾って、口に入れる。土ごと。
ひとりが、鎌を振り上げて、馬のほうへ走った。
クルトの剣が、その腕を打った。鎌が落ちた。男はそれでも、這って馬に向かった。
「やめ——」
栗毛の脚に、別の誰かの鎌が入った。馬が、聞いたこともない声で鳴いた。倒れる音がして、人が群がった。刃物のない人は、手で。
「行くぞ!」
クルトに襟を掴まれて、馬の背に放り上げられた。気づくと、走っていた。フィオナを前に乗せたカシアンが、振り返らずに何か叫んでいる。
振り返ったのは、僕だけだった。栗毛の脚は、もう動いていなかった。ケースに申し訳が立たない。
くそ……なんなんだ。
しばらく走って、岩陰で馬を止めた。馬から降りて、吐いた。朝のスープが、そのまま出てきた。もったいない、と思った自分が嫌だった。
背中に、手が乗った。何も言わない手だ。とても優しい手。
「……ほっとした」
吐き終わって、僕は言った。
「あの人たちが、僕たちじゃなくて、馬を選んでくれたこと。いま、ほっとしてる。最低だな」
フィオナは答えなかった。手だけ、離れなかった。
少し離れたところで、クルトが剣を拭いていた。
「斬ろうと思えば、全員斬れた」
低い声だった。
「やらなかった。それが正しかったのかは、俺にもまだ決められん」
「最低かどうかは、あとで決めましょう」
フィオナが言った。
「いまは、歩いて」
馬は二頭になった。四人で交代しながら歩く。半日の道のりが、ほぼ一日になった。
夕方、煙が見えた。
西の地平に、細くて真っ直ぐな白い筋。半日ぶりに見る、生きているものの印だった。
「……あれだ」
カシアンの声が、掠れていた。
石造りの二階建てに、鳩小屋の塔。煙突から、煙が出ている。カシアンが駆け出した。二十歩目で、足元の石畳に矢が突き立った。
「止まれ!」
窓の奥から、老人の声。
カシアンは両手を上げて立ち止まった。それから、口笛を吹いた。子供の歌の節だな。音程が、盛大に外れている。
長い間があった。
「……音痴は、直っとらんな」
扉が開いた。制服のボタンだけがやけに磨かれた老人が、石弓を下げて出てきた。
「遅い。三ヶ月も顔を見せんで」
「二ヶ月ですよ」
「三ヶ月だ。勘定は合っとる」
「……叔父貴。生きてて、よかった」
カシアンの声が、そこで折れた。老人は頭をかいて、そっぽを向いた。
「死ぬ暇がなかっただけだ」
中は暖かかった。暖炉に、帳簿の束が積まれて燃えている。紙の焼ける匂いに、インクの酸っぱい匂いが混じっていた。
「燃料が尽きてな。帝国三百年分の税簿だ。よう燃える」
「……いいんですか」
「誰が読む」
駅逓長のゲルトと名乗った男は、それだけ言って、薪の代わりに帳簿をくべた。僕の胃の奥が、少し冷えた。
食卓には、子供が二人いた。十二、三くらいの女の子と、四つくらいの男の子。女の子は、こっちを睨んでいる。男の子は、フィオナの方を見ている。
「鳩の記録を、見せてもらえませんか」
ゲルトが、僕を見た。
「世界がいまどうなっているのか、知りたいんです」
「世界」
老人が、鼻で笑った。
「読むのはタダだ。だが、読んだら後悔する。後悔は、返品がきかんぞ」
「知らないまま決めるのが、いちばん怖いので」
しばらく、ゲルトは僕の顔を見ていた。それから、棚から分厚い帳面を下ろした。
「読む。座れ」
平らな声だった。役所の窓口の声だ。
「陥落の日。首都。『王城、炎上』。以上」
「六日目。西の公都。『飢饉。城門閉鎖。暴動』」
「十日目。南の港。『船、出せず。埠頭に人、あふれる』」
「十四日目。北の鉱山街。『坑道に避難。水が』」
「十五日目。東の関所。『門、閉じたまま。外に』」
「二十三日目。小都市ヴェルン。『パンを』」
ゲルトは、帳面を閉じた。
「それが、最後だ」
誰も口を開かなかった。暖炉の中で、紙が崩れる音がした。
「『水が』のあとは」
「ない。途切れとる。『外に』のあとも、ない」
カシアンは、窓のほうを向いたまま訊いた。
「鳩は」
「最初の頃は、日に三十羽来た。いまは、一羽も来ん。鳩が死んだんじゃない。送る人間が、もうおらんのだ」
僕は、気づくと数えていた。癖だ。止められない。
棚の地図に、赤い印が付いている。便りの途絶えた都市の数だ。おそらくどこも生存者はほぼ皆無だろう。
全ての都市に、付いていた。全人口は五千万を少し超えていた、とゲルトが言った。九割九分の人は、もう……
いや、もっとかもしれない。
どうやら、この世界には人間はほぼ残っていないようだ。
「……そうか」
そうか、としか言えなかった。他の言葉が、ひとつも浮かばなかった。庭を作って、門を開けて、六十人入れて、黒字になって、泣いて。あれは全部、正しかったと思う。それでも、世界のほうが、何桁も大きかった。
今の庭は希望に溢れている。しかし世界はどうだ?庭とは真逆の感情に支配されている。そしてそれを感じる人々も、もういない。
……この国はもう、抜け殻なんだ
気づいたら、膝の上で手が震えていた。握ったら、今度は膝が震えた。
「二十日ほど前に、一度だけ、鳩で噂が来た」
ゲルトが、独り言みたいに言った。
「東の領都に、灰の中で野菜を育てとる庭があると。誰も信じんかった。わしもだ」
手の震えが、止まった。
「いま、この国でまだ歩ける人間は、その噂を握って、東へ歩いとるだろう。何人が着くかは、知らんが」
道標にもたれていた老人は、東を向いていた。
並べられていた人たちの顔が、ひとつずつ浮かんだ。土の詰まった口。みんな、庭のほうを向いていたのかもしれない。
「……ユーリ」
フィオナの声が、思ったより近かった。いつの間にか、彼女の肩が、僕の腕に触れていた。
「今日は、これ以上数えなくていい。続きは、帰ってからにしましょう」
うん、と答えたつもりだったが、声にならなかった。
「ねえ」
女の子が、器を二つ、乱暴にテーブルへ置いた。
「あんたたち、顔、土みたい。食べなよ」
器の中身は、小さくて、茶色くて、脚が付いていた。
僕は、その脚をしばらく見た。
「……バッタ、か」
「三日前から、空から落ちてくるの。タダだよ」
「ノラ」
ゲルトが、低い声を出した。
「あたしが拾って、ピートに食べさせてるの。おじいちゃんが食べないから」
「わしは止めとる」
「止めても食べるもん」
男の子の唇が、ほんの少し、灰色がかっていた。灰の病だ。ごく軽いけれど。
フィオナがその子を膝に載せて、背中を一定の間隔で叩いている。魔力の灯りは、点かない。それでも、手は止めなかった。
「灰汁で三回さらすの。それから、ゆでて、焼く。お腹が痛くなる日と、ならない日がある」
器の中のひとつを、指でつまんでみた。数字が出る。魔気、八%。生のバッタは、五十一%だったな。
「……下がってる」
膝の上の自分の手を、見た。
土は魔気を吸う。ロイのときも、そうだった。灰は、庭の土に触れれば土に変わる。
庭の中でバッタが死んでも、黒い粉になって、土に変わるはずだ。肥料だ。それなら、その手前で、人が先に、食べたら——
「……食べ物だ」
口に出してから、急に顔が熱くなった。
「ごめんなさい。変なこと、言いました。あんな話を聞いたばかりなのに、僕は、何を」
「普通だよ」
ノラが、あっさり言った。
「お腹、すいてるんだから」
「それ、いい考えよ」
フィオナが言った。声は落ち着いていた。
「庭に帰ったら、試す価値はある。ノラちゃんのやり方、教えてもらいましょう」
「……やる価値は、あるな」
クルトも、短く言った。
ゲルトが、ものすごく嫌そうな顔で僕を見た。
「虫を、子供に食わせる気か」
「もう食べてるよ」
「ノラ」
「だって、食べてるもん」
カシアンが、小さく吹き出した。笑っているのか泣いているのか、よく分からない顔だった。
「虫について、ここで何があったか聞かせてください」
僕は、手帳を出した。
「あれは夕方から夜にかけて、空を渡っていった。灰色の川みたいにな。わしは地下に隠れとった。上に出たら、一匹もおらんかった」
ゲルトは、暖炉を顎で指した。
「ここの上だけ、避けて通ったらしい。帳簿を燃やしとったからか、あの煙突の煙の筋を嫌ったのかは、分からん」
「煙」
「わしの勘では、な」
「……煙は、使えるかもしれません」
手帳に『煙』と書く。
「でも、避けさせるだけだと、群れは庭の脇を通り過ぎて、別の場所を食べに行くだけです。門の外にも、人が並んでます」
「じゃあ、どうする」
カシアンが訊いた。
「降ろします。庭の風上に、わざと緑を作る。外側に、囮の畑を。そこに降りてもらう」
ゲルトが、棚から薄い帳面を抜いた。
「蝗害の記録なら、ある。災害録だ。税簿は燃やしても、これは燃やさん。役に立つ」
ページをめくる指が、迷いなく止まった。
「夜通し飛んで、明け方に降りる。降りた直後は羽が重くて、ろくに動かん。昔の話だがな」
「それなら、朝に拾えます」
「拾う?」
「追い払うんじゃなくて、拾います。灰汁にさらして、土に触れさせて、食べる。……まだ、穴だらけの案ですけど」
ノラが、器の中身をひとつ口に放り込んだ。ぼりぼり、と音がした。
「穴があるなら、塞げばいいじゃん」
十二の子に励まされる庭師が、ここにいた。
夜が明けてから、僕はゲルトの前に紙を一枚、広げた。
「ゲルトさん。庭に、帳簿係が足りません。ハンスは働きすぎで、いつか倒れます」
「わしは役人だ。命令書がなければ、持ち場は離れん」
「じゃあ、これを」
紙に書いた。
『駅逓長ゲルト殿を、庭の記録係に任ずる。 ユーリ・フロックス』
ゲルトが、じっと読んだ。
「官位が、書いとらん」
「庭師です」
「庭師に、任命権はあるのか」
「あるかどうかは、あとで調べます」
「適当な男だな」
「よく言われます」
ゲルトは、長いあいだ黙っていた。それから、暖炉の前の帳簿の山から何冊かを抜き取って、箱に入れ始めた。燃やさない分だ。
「持ち場を離れるわけじゃない。移すだけだ」
「はい」
ゲルトは鼻を鳴らした。たぶん、合格の音だろう。
帰りの道は、同じ道だった。同じ人たちが、同じ向きで並んでいた。馬が二頭、人が七人。ノラはピートを抱いて、一度も振り返らずに歩いた。
夕方、丘の上から、庭が見えた。
灰色の世界の端に、緑の四角形が、ぽつんと浮かんでいた。こんなに小さかったか、と思った。出るときは、あんなに大きく見えたのに。
永遠とも感じた長い道のりを超えると、領主の建物と、庭が見えてきた。
ゲルトが、馬の上から庭を見ている。黙っていた。眼鏡を外して、袖で拭いた。拭いても拭いても、曇るらしい。
フィオナが、顔を庭のほうへ向けた。
「……音がする。人が、たくさんいる音」
「うん」
「ここから聞こえるくらい、いるのね」
小さな声だった。その数が多いのか少ないのか、もう僕には分からない。
北の空の端が、薄暗く波打っていた。今夜が、二晩目だ。着くのは、明日の夜。
手帳の端に、箇条書きを書く。煙。囮の畑。朝に拾う。灰汁。土。
字が、ひどく汚かった。




