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18/22

第十七話:土に妬いた夜

勝った日の庭は、まず臭い。次に、うるさい。そして、やたらと忙しい。


造園も戦も、終わった日がいちばん仕事が多い。前世から変わらない真理だ。できれば変わっていてほしかった。誰かどうにかして。


……まあいい


「だから貫かれてねえって言ってるだろ!」

「ひびは入ってる」

「入ってても貫かれてねえんだよ!」


土塁の裏では、ハンスとオズが割れた盾を挟んで、同じ口論を三周目に突入させている。止める人はいない。あれは喧嘩の形をした追悼だ。好きなだけやらせるのが、たぶん正しい。


館の地下では、昨日入ったばかりの六十人が、「この庭、臭いのに飯がある」と驚いたまま眠っているらしい。順応が早い。いい傾向だ。ここで暮らすなら、鼻はまず諦めてもらうしかない。


少し離れた空き地では、領主様が空っぽの肥え溜めの縁に腰かけて、空の桶を膝に乗せたまま遠くを見ていた。


「歴史が……」

「領主様、そこ洗い場です。座る場所ではありません」

「歴史が……」


年配の女性に手際よく立たされ、連れていかれた。庭は守った。その代償が領主様の心の拠り所だったのは、まあ、うん。ご愁傷さまって感じだな。


作業小屋の、固いベッド。出会った日と同じ場所に、またフィオナを寝かせている。成長しないなあ、この庭の療養設備は。

彼女は天井を見ようとして、微妙に外していた。


「ユーリ。いま、何時くらい?」

「昼を少し過ぎたところ。……見える?」

「ぼんやりとなら。光と、影と、人の形。ユーリは、そこ」


伸ばされた指が、三十センチ左で止まる。

「そこは壁」

「……ほんとだ。ちょっと温かいと思ったの」

「僕の外套が掛けてあるだけ」

「ユーリ、思ってたより薄っぺらいのね」

「言い方」


軽口が出るなら、ひとまず大丈夫だ。……と思いたい。

最初の数時間は、本当に何も見えなかったらしい。昼前に光が戻って、輪郭が戻った。ただ、川だけが戻らない。


「川は?」

「霧のまま」

そう言ってから、彼女は少しだけ黙った。


「『壊さない。使うものだから』ですって。……使い道もなくなった目を、あの人はどうするのかしら」

「その話は、いまはいい」

「いまの私、ただのフィオナね。ユーリの帳簿より読めるものが、何もないの」

「『ただの』は余計」


笑おうとして、失敗している。左手の親指が、拳の内側にきゅっと隠れた。


「親指」

「……見えてないのに、見ないで」

「見えてないのに、隠すんだ」

「勝手に隠れちゃうのよ!」


ふくれた頬が可愛すぎて、返す言葉が一瞬飛んだ。まずい。怪我人に見とれている場合か、僕は。

そこへ、扉が元気よく開いた。


「ユーリさん。お食事です。あなたが食べさせなさい」

年配の女性が、木椀を僕の胸に押しつけてくる。

「僕ですか?」

「手が空いているでしょう。それとも、土塁で盾を持ちたいですか」

「食べさせます」


即答だった。ここまで来ると予定調和だ。

「あーん、は、しないから」

「させないわよ」


一口ずつ、ゆっくり。いつかの台詞を、今度は僕がなぞっている。前世でも今世でも、僕の言葉はよく戻ってくる。ブーメランの扱いには、もう少し慣れたい。


廊下では、見舞いが渋滞していた。

カシアンは干し肉の束を置いて「俺の全財産だ」と去り、ハンスは「別に来たわけじゃねえ」と言いながら杖を壁に立てかけて逃げた。握りに、意外ときれいな字で『フィオナ専用』と彫ってある。素直じゃないなあ、あの人。


オズは小さな鈴をくれた。三つ葉の彫り入りだ。

「手首につけとけ、嬢ちゃん。音で居場所が分かりゃ、こっちも安心して馬鹿ができる」

「馬鹿をする前提なんですね」

「男は、そういう生き物だ」


りん、と鳴った。彼女がその音に耳を澄ませて、ふわっと笑う。

ティムとリーナは、シロツメクサの冠を持ってきた。リーナの作品は、ほぼ結び目だ。


「おねえちゃん、見えなくても、かわいいよ」

「ほんと? ありがとう。冠は、どこかしら」

「ここ!」

「……ここ?」

「そこはリーナの頭だよ」

「そうなの」


二人そろって首をかしげている。僕は誰にも見られないように口元を押さえた。フィオナを見ていると、どうしても口角が上がってしまう。


最後に入ってきたのは、クルトだった。

鎧を外した騎士が、ベッドの脇に静かに膝をつく。


「目を閉じて立つのは、俺のほうが先達だ。さっき一度、やったからな」

フィオナが顔を向ける。焦点が合っていないのに、ちゃんと彼のほうを向いていた。


「見えなくても、見ようとする。お前が教えてくれた世界だ。今度は、俺が道を作る。明日から、歩く稽古を付ける。俺の手を引け」


大きくて不器用な手が、ぽん、と彼女の頭に置かれた。

フィオナは驚いたような顔をしたあと、「お願いします」と頷いた。


いい場面だ。本当にいい場面だ。

……なのに、胸の奥で、何かが雑草みたいに伸びた。


待て。相手はひと回り以上年上の騎士で、命の恩人で、完全に善意だ。妬く要素が一つもない。それなのに、根が張っている。雑草は、抜いても根が残るからたちが悪い。


僕は何も言わずに部屋を出た。右眉が上がっていたかどうかは、見ていた人にしか分からない。


頭を冷やすには、見回りがいちばんだ。土塁の外を歩きながら、足元の数字を睨む。外縁、一・二%。静かすぎるくらい、いい数字だ。


壁の外に植えた針葉樹の前で、足が止まった。

葉が、齧られている。

針の先が、点々と欠けていた。風でも鳥でもない。もっと小さくて、もっと几帳面な食べ方だ。


「……うそでしょ」

前世で、嫌というほど見た痕だ。食害痕。庭師の敵は、泥棒でも雑草でもない。虫である。


夏の現場で、一晩で生垣を丸坊主にされたことがある。朝、依頼主の前で土下座に近い角度で頭を下げた記憶が、いま鮮やかに蘇った。あれは、本当に、嫌だった。


枝を揺らすと、灰色の塊がぽとりと落ちた。小指の先ほどの、バッタ。羽まで灰色だ。


数字が出た。魔気濃度、五十一%。……生きている。

庭の根が届かない外側で、灰を食って育ったのか。魔族の次は虫か。笑えない。前世の僕なら、ちょっと燃えていたかもしれない。害虫駆除なら、こっちの専門分野だ。


でも、ひとつだけ胸に引っかかった。

こんなものが近づいてきたら、真っ先に気づくのは、川を見られる人のはずだった。

今日、その人は、いちばん動けない。


「おい、ユーリ。そんな顔で何を見てんだ」


通りかかったハンスが、僕の手元を覗き込んで、顔をしかめた。

「虫じゃねえか。ただの、虫」

「ただの、じゃないんだよ。……あとで話す。今は、誰にも言わないで」

「はあ? 俺が口の軽い男に見えるか」

「見える」

「お前なあ!」


ぶつぶつ言いながらも、ハンスは声を落とした。こういうところが、この人の好きなところだ。

「……言うよ。フィオナには、ちゃんと。約束だから」


一人で抱え込まない。お互い様。何度も言われて、やっと身についてきた。

小瓶に虫を入れて戻ると、彼女は僕の話を、黙って最後まで聞いた。


「それ、どんな音?」

「音?」

「羽音とか、何か。……聞こえない。ごめんなさい。いまの私、役に立てなくて」

「謝るのは禁止。……それ、僕の台詞だけど」

「じゃあ、お互い様ね」


彼女は少し考えてから、ぽつりと言った。

「水の音が、聞きたい。井戸まで、連れていって」


夜の井戸は、水の音がよく響く。

フィオナは両手で僕の腕を掴んで歩いた。手首の鈴が、りん、りん、と律儀に鳴る。小石を避けるたびに、小さく「わ」と言う。可愛い。何この生き物。


……照れっぱなしである。


縁に並んで座り、外套を二人の膝に掛ける。手首の鈴が気になるらしく、彼女は何度も指でつまんでは離している。


「うるさくない?」

「全然。むしろ、居場所が分かって助かる」

「……それ、迷子扱いじゃない?」

「迷子になったら、僕が探すから」

「見つける前に、鈴の音で気づかれちゃう」

「それが狙いだよ」


むう、と唇を尖らせて、それでも鈴をいじる指は、嬉しそうだった。

スコップは井戸の縁に立てかけた。柄尻の三つ葉が、星明かりにぼんやり浮かんでいる。


「ねえ、翻訳して」

「何を」

「いま、ここ。ユーリの言葉で。……土じゃなくても、いいから」


土じゃなくていい、という注文が難しい。僕の語彙の八割は土だ。


「えっと。井戸の縁は石で、冷たい。風は西から、弱い。灰は、ほとんどない。雲が切れてて、星が三つ」

「三つ」

「小さいのが二つと、ちょっと大きいのが一つ」

「きれい?」

「ああ、きれいだよ」

「ふふ。ユーリの『きれい』は、貴重ね」

「それから」

「それから?」

「君の髪に、灰が一粒ついてる」

「とって」


指先でそっとつまむ。……近い。灰を一粒とるだけで、どうして息が止まるんだ、僕は。


「ユーリ」

「うん」

「顔、触っていい?」

「え」

「見えないから。ユーリがいま、どんな顔をしてるのか、知りたいの」

断る理由を探した。見つからなかった。右眉のあたりが、すでに怪しい。


彼女の両手が、そっと僕の頬を包んだ。小さくて、まだ少し冷たい。額、眉、目の下、頬骨。確かめるみたいに、ゆっくり。


「……右眉」

「え」

「上がってる」

「なんで分かるの」

「触ったら、書いてあったの。六度目」

「触った場合も数えるんですか」

「数えます。あとで手帳に書いておくね」


声が、笑っていた。ちゃんと、笑っていた。その笑顔が見られるのは今日の僕の特権みたいで、胸の雑草が、少しだけ静かになる。


「あのね、ユーリ。白状するわ」

「うん」

「今日、ちょっと妬いてた」

「誰に」

「土」

「土?」

「ユーリ、土の話をしてるとき、いちばん楽しそうなんだもの。……私、川が見えなかったら、土に勝てるものが何もないのに」


彼女の拳の中の親指を、そっと開いて、一本ずつ戻した。

「……僕も、白状していい?」

「うん」

「クルトさんに、妬いてた。雑草みたいに」

「クルトさん?」

「君が、あの人と稽古するの、嬉しそうだったから。それに目を閉じる稽古なんて、僕には教えられない世界だったから」

フィオナは、しばらくぽかんとして、ぷっと吹き出した。

「ずっと妬いてたの?」

「ずっとじゃない。少しだよ。小一時間。いや、半日」

「半日かあ」

「うん」

「少しじゃないね」

「……かなりです」


彼女は笑いながら、僕の額に自分の額を、こつんと当てた。

「お互い様、ね」

「うん。お互い様」

近い。額が触れているだけなのに、心臓がドラムのように脈を打ち続けている。


「ユーリ」

「うん」

「聞こえる」

「何が」

「心臓。数字に出なくても、聞こえるの。ユーリの、すごく速い」

「そ、それは」

「三桁、いってる?」

「いってません」

「右眉」

「いってます!」


笑い声が、水の音に混ざって、井戸の底へ落ちていく。

そのあとのことは、上手く説明できない。


彼女の指が僕の頬から離れて、襟を、きゅっと握った。それが合図だったと思う。たぶん二人とも、同時に気づいた。

やわらかい。三度目はこれまでで一番、息の仕方が分からなかった。前回よりも深く、もっと深く——


離れたあとも、額はくっついたままだった。

「……ユーリ」

「うん」

「私ね、いま、すごく幸せ」


言ってから、声が、すっと沈んだ。

「それが、少し、怖いの」

「ケースさんがいないのに。ロイさんも、危なかったのに。ティムたちのお父さんも、騎士団の人たちも。……なのに、私、ユーリの隣で笑ってる。ケースさんの席に、勝手に座ってる気がして」


答えを持っていなかった。持っているふりは、右眉が許してくれない。


前世の僕なら、こういう感情を「非生産的」と書いて切り捨てていた。切り捨てられたら、どんなに楽だっただろう。でも、この庭の僕は、そういう人間じゃなくなってしまったらしい。それが少し誇らしくて、少し、困る。


「同じこと、考えてた」

正直に言った。


「さっき、君の笑い声を聞きながら。ケースの花はまだ咲いてるのに、幸せだって思う自分が、ちょっと嫌だった」

「ユーリも?」

「お互い様ってやつ」

「そうだね」

「今日は、僕も同罪だと思う」


しばらく、水の音だけが続いた。

正しい答えは、たぶんない。ケースに聞くこともできない。ただ、リーナの言葉を思い出した。おふとん。毒を吸って、花になる。悲しみも、土に還せば、何かを育てられるのだろうか。


「……分からない」

僕は言った。

「幸せになっていいのかは、まだ分からない。でも、君の手を離したくない。」

「それだけで、いいの?」

「まあ……君としたいことは他にもたくさんあるけどさ。まだ問題は山積みだからね」

「……うん」


彼女が、僕の肩に頭を預けた。

「問題解決までは、我慢ね……できないけど、するわ」

「それ、矛盾してない?」

「してるわ。でも、翻訳不要でしょう?」

返す言葉が見つからなくて、笑ってしまった。


りん、と鈴が鳴った。

風でも、僕の動きでもない。彼女の手首が、ぴくりと跳ねたのだ。

「……ユーリ」

「うん?」

「音がする」

「音?」

「遠くで。麦を挽くみたいな、ざあ、って。川は見えないのに、耳だけ、やけにはっきりするの」


耳を澄ませた。水の音。風の音。それ以外には……いや。

聞こえた。ほんのかすかに。北西の空の、ずっと向こうから。

視界の端で、帳簿が震えた。


点だ。一つ、二つ、十、百。五十%前後の小さな点が、数えている途中で追いつかなくなるほど湧き出している。星空を、逆さにして撒いたみたいに。


それが、動いていた。

風は西から吹いているのに、風上へ向かって。

……拍がある。

羽音が、一定の間隔で、同じ脈を打っている。あの黒い糸と、同じ脈だ。


「丘の、あの人ね」

「たぶん」

誰かの号令で、飛んでくる。


一匹ずつなら、庭は飲み込める。でも、あの数が一斉に死んだら。最初の魔族が死んだあの夜が、頭をよぎった。分解が追いつかない、あの赤い数字。


魔族は、庭に入ると魔気を吸われる。だったら、吸いきれない数で来ればいい。……向こうも、学習している。

小瓶の中で、灰色のバッタが、かりかりと壁を引っ掻いた。一匹見たら、百匹いる。害虫の鉄則だ。今夜の鉄則は、少し桁が違ったが。


「ごめんなさい。川が見えたら、もっと」

「それは、言わない約束だよ」


彼女の肩を、強く抱いた。

「君が聞いたんだ。見えなくても、聞いた。それは、ちゃんと君の目と一緒だ。」


フィオナが息を呑んで、それから小さく頷く。手首の鈴が、りん、と鳴った。

「あと、それから、あの……えーと」

あれ、言葉が詰まる。恥ずかしいからだろうか。どうしよう、きっと顔も真っ赤だし情けなく見えているかもしれない。対する彼女は澄まし顔で言った。


「ユーリ、恥ずかしがらないでいいんだよ」

お見通しってわけか。

「えっと、フィオナ。たとえ君の目が以前のようには見えなくても、そんなことどうでもいい。僕は、君が隣にいてくれるだけで幸せだよ。その……愛してる」


その瞬間、彼女は顔を伏せた。

さっきまでの大人びた綺麗な顔は、もう僕の目の前にはない。

耳だけじゃなく、顔まで赤く染めながらオドオドしている。


「あ、え?あの、私も!その、えーと……」

「恥ずかしがらないでいいんだよ」


フィオナが顔を上げた。

さっきまで泳ぎに泳いでいた目は真っ直ぐ僕を見ている。

「私も、愛しています」


もう、壁と見間違えられることはなかった。

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