第十七話:土に妬いた夜
勝った日の庭は、まず臭い。次に、うるさい。そして、やたらと忙しい。
造園も戦も、終わった日がいちばん仕事が多い。前世から変わらない真理だ。できれば変わっていてほしかった。誰かどうにかして。
……まあいい
「だから貫かれてねえって言ってるだろ!」
「ひびは入ってる」
「入ってても貫かれてねえんだよ!」
土塁の裏では、ハンスとオズが割れた盾を挟んで、同じ口論を三周目に突入させている。止める人はいない。あれは喧嘩の形をした追悼だ。好きなだけやらせるのが、たぶん正しい。
館の地下では、昨日入ったばかりの六十人が、「この庭、臭いのに飯がある」と驚いたまま眠っているらしい。順応が早い。いい傾向だ。ここで暮らすなら、鼻はまず諦めてもらうしかない。
少し離れた空き地では、領主様が空っぽの肥え溜めの縁に腰かけて、空の桶を膝に乗せたまま遠くを見ていた。
「歴史が……」
「領主様、そこ洗い場です。座る場所ではありません」
「歴史が……」
年配の女性に手際よく立たされ、連れていかれた。庭は守った。その代償が領主様の心の拠り所だったのは、まあ、うん。ご愁傷さまって感じだな。
作業小屋の、固いベッド。出会った日と同じ場所に、またフィオナを寝かせている。成長しないなあ、この庭の療養設備は。
彼女は天井を見ようとして、微妙に外していた。
「ユーリ。いま、何時くらい?」
「昼を少し過ぎたところ。……見える?」
「ぼんやりとなら。光と、影と、人の形。ユーリは、そこ」
伸ばされた指が、三十センチ左で止まる。
「そこは壁」
「……ほんとだ。ちょっと温かいと思ったの」
「僕の外套が掛けてあるだけ」
「ユーリ、思ってたより薄っぺらいのね」
「言い方」
軽口が出るなら、ひとまず大丈夫だ。……と思いたい。
最初の数時間は、本当に何も見えなかったらしい。昼前に光が戻って、輪郭が戻った。ただ、川だけが戻らない。
「川は?」
「霧のまま」
そう言ってから、彼女は少しだけ黙った。
「『壊さない。使うものだから』ですって。……使い道もなくなった目を、あの人はどうするのかしら」
「その話は、いまはいい」
「いまの私、ただのフィオナね。ユーリの帳簿より読めるものが、何もないの」
「『ただの』は余計」
笑おうとして、失敗している。左手の親指が、拳の内側にきゅっと隠れた。
「親指」
「……見えてないのに、見ないで」
「見えてないのに、隠すんだ」
「勝手に隠れちゃうのよ!」
ふくれた頬が可愛すぎて、返す言葉が一瞬飛んだ。まずい。怪我人に見とれている場合か、僕は。
そこへ、扉が元気よく開いた。
「ユーリさん。お食事です。あなたが食べさせなさい」
年配の女性が、木椀を僕の胸に押しつけてくる。
「僕ですか?」
「手が空いているでしょう。それとも、土塁で盾を持ちたいですか」
「食べさせます」
即答だった。ここまで来ると予定調和だ。
「あーん、は、しないから」
「させないわよ」
一口ずつ、ゆっくり。いつかの台詞を、今度は僕がなぞっている。前世でも今世でも、僕の言葉はよく戻ってくる。ブーメランの扱いには、もう少し慣れたい。
廊下では、見舞いが渋滞していた。
カシアンは干し肉の束を置いて「俺の全財産だ」と去り、ハンスは「別に来たわけじゃねえ」と言いながら杖を壁に立てかけて逃げた。握りに、意外ときれいな字で『フィオナ専用』と彫ってある。素直じゃないなあ、あの人。
オズは小さな鈴をくれた。三つ葉の彫り入りだ。
「手首につけとけ、嬢ちゃん。音で居場所が分かりゃ、こっちも安心して馬鹿ができる」
「馬鹿をする前提なんですね」
「男は、そういう生き物だ」
りん、と鳴った。彼女がその音に耳を澄ませて、ふわっと笑う。
ティムとリーナは、シロツメクサの冠を持ってきた。リーナの作品は、ほぼ結び目だ。
「おねえちゃん、見えなくても、かわいいよ」
「ほんと? ありがとう。冠は、どこかしら」
「ここ!」
「……ここ?」
「そこはリーナの頭だよ」
「そうなの」
二人そろって首をかしげている。僕は誰にも見られないように口元を押さえた。フィオナを見ていると、どうしても口角が上がってしまう。
最後に入ってきたのは、クルトだった。
鎧を外した騎士が、ベッドの脇に静かに膝をつく。
「目を閉じて立つのは、俺のほうが先達だ。さっき一度、やったからな」
フィオナが顔を向ける。焦点が合っていないのに、ちゃんと彼のほうを向いていた。
「見えなくても、見ようとする。お前が教えてくれた世界だ。今度は、俺が道を作る。明日から、歩く稽古を付ける。俺の手を引け」
大きくて不器用な手が、ぽん、と彼女の頭に置かれた。
フィオナは驚いたような顔をしたあと、「お願いします」と頷いた。
いい場面だ。本当にいい場面だ。
……なのに、胸の奥で、何かが雑草みたいに伸びた。
待て。相手はひと回り以上年上の騎士で、命の恩人で、完全に善意だ。妬く要素が一つもない。それなのに、根が張っている。雑草は、抜いても根が残るからたちが悪い。
僕は何も言わずに部屋を出た。右眉が上がっていたかどうかは、見ていた人にしか分からない。
頭を冷やすには、見回りがいちばんだ。土塁の外を歩きながら、足元の数字を睨む。外縁、一・二%。静かすぎるくらい、いい数字だ。
壁の外に植えた針葉樹の前で、足が止まった。
葉が、齧られている。
針の先が、点々と欠けていた。風でも鳥でもない。もっと小さくて、もっと几帳面な食べ方だ。
「……うそでしょ」
前世で、嫌というほど見た痕だ。食害痕。庭師の敵は、泥棒でも雑草でもない。虫である。
夏の現場で、一晩で生垣を丸坊主にされたことがある。朝、依頼主の前で土下座に近い角度で頭を下げた記憶が、いま鮮やかに蘇った。あれは、本当に、嫌だった。
枝を揺らすと、灰色の塊がぽとりと落ちた。小指の先ほどの、バッタ。羽まで灰色だ。
数字が出た。魔気濃度、五十一%。……生きている。
庭の根が届かない外側で、灰を食って育ったのか。魔族の次は虫か。笑えない。前世の僕なら、ちょっと燃えていたかもしれない。害虫駆除なら、こっちの専門分野だ。
でも、ひとつだけ胸に引っかかった。
こんなものが近づいてきたら、真っ先に気づくのは、川を見られる人のはずだった。
今日、その人は、いちばん動けない。
「おい、ユーリ。そんな顔で何を見てんだ」
通りかかったハンスが、僕の手元を覗き込んで、顔をしかめた。
「虫じゃねえか。ただの、虫」
「ただの、じゃないんだよ。……あとで話す。今は、誰にも言わないで」
「はあ? 俺が口の軽い男に見えるか」
「見える」
「お前なあ!」
ぶつぶつ言いながらも、ハンスは声を落とした。こういうところが、この人の好きなところだ。
「……言うよ。フィオナには、ちゃんと。約束だから」
一人で抱え込まない。お互い様。何度も言われて、やっと身についてきた。
小瓶に虫を入れて戻ると、彼女は僕の話を、黙って最後まで聞いた。
「それ、どんな音?」
「音?」
「羽音とか、何か。……聞こえない。ごめんなさい。いまの私、役に立てなくて」
「謝るのは禁止。……それ、僕の台詞だけど」
「じゃあ、お互い様ね」
彼女は少し考えてから、ぽつりと言った。
「水の音が、聞きたい。井戸まで、連れていって」
夜の井戸は、水の音がよく響く。
フィオナは両手で僕の腕を掴んで歩いた。手首の鈴が、りん、りん、と律儀に鳴る。小石を避けるたびに、小さく「わ」と言う。可愛い。何この生き物。
……照れっぱなしである。
縁に並んで座り、外套を二人の膝に掛ける。手首の鈴が気になるらしく、彼女は何度も指でつまんでは離している。
「うるさくない?」
「全然。むしろ、居場所が分かって助かる」
「……それ、迷子扱いじゃない?」
「迷子になったら、僕が探すから」
「見つける前に、鈴の音で気づかれちゃう」
「それが狙いだよ」
むう、と唇を尖らせて、それでも鈴をいじる指は、嬉しそうだった。
スコップは井戸の縁に立てかけた。柄尻の三つ葉が、星明かりにぼんやり浮かんでいる。
「ねえ、翻訳して」
「何を」
「いま、ここ。ユーリの言葉で。……土じゃなくても、いいから」
土じゃなくていい、という注文が難しい。僕の語彙の八割は土だ。
「えっと。井戸の縁は石で、冷たい。風は西から、弱い。灰は、ほとんどない。雲が切れてて、星が三つ」
「三つ」
「小さいのが二つと、ちょっと大きいのが一つ」
「きれい?」
「ああ、きれいだよ」
「ふふ。ユーリの『きれい』は、貴重ね」
「それから」
「それから?」
「君の髪に、灰が一粒ついてる」
「とって」
指先でそっとつまむ。……近い。灰を一粒とるだけで、どうして息が止まるんだ、僕は。
「ユーリ」
「うん」
「顔、触っていい?」
「え」
「見えないから。ユーリがいま、どんな顔をしてるのか、知りたいの」
断る理由を探した。見つからなかった。右眉のあたりが、すでに怪しい。
彼女の両手が、そっと僕の頬を包んだ。小さくて、まだ少し冷たい。額、眉、目の下、頬骨。確かめるみたいに、ゆっくり。
「……右眉」
「え」
「上がってる」
「なんで分かるの」
「触ったら、書いてあったの。六度目」
「触った場合も数えるんですか」
「数えます。あとで手帳に書いておくね」
声が、笑っていた。ちゃんと、笑っていた。その笑顔が見られるのは今日の僕の特権みたいで、胸の雑草が、少しだけ静かになる。
「あのね、ユーリ。白状するわ」
「うん」
「今日、ちょっと妬いてた」
「誰に」
「土」
「土?」
「ユーリ、土の話をしてるとき、いちばん楽しそうなんだもの。……私、川が見えなかったら、土に勝てるものが何もないのに」
彼女の拳の中の親指を、そっと開いて、一本ずつ戻した。
「……僕も、白状していい?」
「うん」
「クルトさんに、妬いてた。雑草みたいに」
「クルトさん?」
「君が、あの人と稽古するの、嬉しそうだったから。それに目を閉じる稽古なんて、僕には教えられない世界だったから」
フィオナは、しばらくぽかんとして、ぷっと吹き出した。
「ずっと妬いてたの?」
「ずっとじゃない。少しだよ。小一時間。いや、半日」
「半日かあ」
「うん」
「少しじゃないね」
「……かなりです」
彼女は笑いながら、僕の額に自分の額を、こつんと当てた。
「お互い様、ね」
「うん。お互い様」
近い。額が触れているだけなのに、心臓がドラムのように脈を打ち続けている。
「ユーリ」
「うん」
「聞こえる」
「何が」
「心臓。数字に出なくても、聞こえるの。ユーリの、すごく速い」
「そ、それは」
「三桁、いってる?」
「いってません」
「右眉」
「いってます!」
笑い声が、水の音に混ざって、井戸の底へ落ちていく。
そのあとのことは、上手く説明できない。
彼女の指が僕の頬から離れて、襟を、きゅっと握った。それが合図だったと思う。たぶん二人とも、同時に気づいた。
やわらかい。三度目はこれまでで一番、息の仕方が分からなかった。前回よりも深く、もっと深く——
離れたあとも、額はくっついたままだった。
「……ユーリ」
「うん」
「私ね、いま、すごく幸せ」
言ってから、声が、すっと沈んだ。
「それが、少し、怖いの」
「ケースさんがいないのに。ロイさんも、危なかったのに。ティムたちのお父さんも、騎士団の人たちも。……なのに、私、ユーリの隣で笑ってる。ケースさんの席に、勝手に座ってる気がして」
答えを持っていなかった。持っているふりは、右眉が許してくれない。
前世の僕なら、こういう感情を「非生産的」と書いて切り捨てていた。切り捨てられたら、どんなに楽だっただろう。でも、この庭の僕は、そういう人間じゃなくなってしまったらしい。それが少し誇らしくて、少し、困る。
「同じこと、考えてた」
正直に言った。
「さっき、君の笑い声を聞きながら。ケースの花はまだ咲いてるのに、幸せだって思う自分が、ちょっと嫌だった」
「ユーリも?」
「お互い様ってやつ」
「そうだね」
「今日は、僕も同罪だと思う」
しばらく、水の音だけが続いた。
正しい答えは、たぶんない。ケースに聞くこともできない。ただ、リーナの言葉を思い出した。おふとん。毒を吸って、花になる。悲しみも、土に還せば、何かを育てられるのだろうか。
「……分からない」
僕は言った。
「幸せになっていいのかは、まだ分からない。でも、君の手を離したくない。」
「それだけで、いいの?」
「まあ……君としたいことは他にもたくさんあるけどさ。まだ問題は山積みだからね」
「……うん」
彼女が、僕の肩に頭を預けた。
「問題解決までは、我慢ね……できないけど、するわ」
「それ、矛盾してない?」
「してるわ。でも、翻訳不要でしょう?」
返す言葉が見つからなくて、笑ってしまった。
りん、と鈴が鳴った。
風でも、僕の動きでもない。彼女の手首が、ぴくりと跳ねたのだ。
「……ユーリ」
「うん?」
「音がする」
「音?」
「遠くで。麦を挽くみたいな、ざあ、って。川は見えないのに、耳だけ、やけにはっきりするの」
耳を澄ませた。水の音。風の音。それ以外には……いや。
聞こえた。ほんのかすかに。北西の空の、ずっと向こうから。
視界の端で、帳簿が震えた。
点だ。一つ、二つ、十、百。五十%前後の小さな点が、数えている途中で追いつかなくなるほど湧き出している。星空を、逆さにして撒いたみたいに。
それが、動いていた。
風は西から吹いているのに、風上へ向かって。
……拍がある。
羽音が、一定の間隔で、同じ脈を打っている。あの黒い糸と、同じ脈だ。
「丘の、あの人ね」
「たぶん」
誰かの号令で、飛んでくる。
一匹ずつなら、庭は飲み込める。でも、あの数が一斉に死んだら。最初の魔族が死んだあの夜が、頭をよぎった。分解が追いつかない、あの赤い数字。
魔族は、庭に入ると魔気を吸われる。だったら、吸いきれない数で来ればいい。……向こうも、学習している。
小瓶の中で、灰色のバッタが、かりかりと壁を引っ掻いた。一匹見たら、百匹いる。害虫の鉄則だ。今夜の鉄則は、少し桁が違ったが。
「ごめんなさい。川が見えたら、もっと」
「それは、言わない約束だよ」
彼女の肩を、強く抱いた。
「君が聞いたんだ。見えなくても、聞いた。それは、ちゃんと君の目と一緒だ。」
フィオナが息を呑んで、それから小さく頷く。手首の鈴が、りん、と鳴った。
「あと、それから、あの……えーと」
あれ、言葉が詰まる。恥ずかしいからだろうか。どうしよう、きっと顔も真っ赤だし情けなく見えているかもしれない。対する彼女は澄まし顔で言った。
「ユーリ、恥ずかしがらないでいいんだよ」
お見通しってわけか。
「えっと、フィオナ。たとえ君の目が以前のようには見えなくても、そんなことどうでもいい。僕は、君が隣にいてくれるだけで幸せだよ。その……愛してる」
その瞬間、彼女は顔を伏せた。
さっきまでの大人びた綺麗な顔は、もう僕の目の前にはない。
耳だけじゃなく、顔まで赤く染めながらオドオドしている。
「あ、え?あの、私も!その、えーと……」
「恥ずかしがらないでいいんだよ」
フィオナが顔を上げた。
さっきまで泳ぎに泳いでいた目は真っ直ぐ僕を見ている。
「私も、愛しています」
もう、壁と見間違えられることはなかった。




