第十六話:見晴し台は、くれてやらない
三日目の夜明け、ケースの墓に花が咲いた。
黄色くて、小さくて、頼りない花だ。魔導アブラナは毒を吸うほど育ちが早い。魔気の濃い境目の土なら、三日で蕾がほころんでも、計算上はおかしくない。
計算上は、だけども。
「……ほんとに、おふとんになった」
昨日の夕方、ティムとリーナがバケツで水をやりすぎて、墓がちょっとした沼になった。
今朝の二人は、館の窓からこっちを見ているはずだ。年配の女性が、今日ばかりはちゃんと閉じ込めてくれている。
僕は柄尻の三つ葉に、親指を当てた。
「約束、守りましたよ。二日で、二十メートル。……正確には、二日と三時間ですけど」
返事の代わりに、花が揺れた。三時間は誤差だ。誤差ということにしてほしい。
この二日間のことは、手短に済ませる。語るほどの出来事は、だいたい土を掘っていただけだから。
暗渠は、二十人の作業班が、掘って、埋めて、また掘った。畑の水を抜く造園の基本技術が、そのまま世界の魔気を抜く基本技術になる。造園は、やっぱり偉大だ。
二日目の夕方、外縁の数字が一・二%で止まった。九十二%の灰色の帯が、ただの畑の端に戻った瞬間だ。最後の一畝に苗を植えるとき、ハンスが「泣くなよ」と言ってきて、言った本人が先に泣いていた。
その一番外側に、高さ三メートルの土塁。針葉樹とアブラナを植えた緑の壁で、見えなければ狙えない、という理屈だ。壁の外にも、針葉樹を一列だけ。前哨と呼べるほど立派なものじゃない。ただ、庭の根が届く範囲を、ほんの少し外へ押し広げたかった。
オズは盾を三枚、打ってくれた。黒鋼と黒鋼のあいだに、灰から生まれた黒い土を挟んだ、通称サンドイッチ盾。裏には全部、小さな三つ葉が彫ってある。名前は安直でも、中身は安直じゃない。……たぶん。
「席は空けとくって、言っただろ」
一枚目を担いだのは、ハンスだった。
「君、盾役じゃないでしょう」
「だから座るんだよ。空いてる席に座って、何が悪い」
墓のすぐ脇、土塁の裏。守備隊の一番前の席だ。そこに盾を据えたハンスの膝は、盛大に笑っている。……指摘はしないでおく。右眉の件で、さんざん笑われた恨みはあるけれど。
門も開いた。昨日の昼だ。
名簿を握ったハンスが、名前を一つずつ読み上げる。呼ばれた人から、一人ずつ門をくぐる。最初の六十人。泥だらけの顔が、庭の緑を見て、揃って同じ形に固まった。
その中に、赤ん坊を抱いた母親がいた。あの日、門の隙間から見た、泣く力さえ残っていなかった子供と、同じくらいの年頃だ。
……門を閉める計算をしていた日の僕へ。数字、ちゃんと合ってるぞ。
「新入りさんは全員、館の地下です。騒いだら、私が叱りますので」
何も聞いていないのに、年配の女性が報告してきた。この庭の指揮系統は、もう僕の手を離れている。喜ばしいことだ。きっと。
そして最後に、一つだけ。
墓の隣に、誰にも詳しく話していない穴がある。縦横三メートル、深さ二メートル。中身は空っぽ。作戦名は『かかし』。
「本当に、あれで、あの人の目を騙せると思う?」
昨夜、フィオナが小さな声で聞いてきた。「半分」と答えたら、「正直でよろしい」と返された。
半分でも、ゼロよりずっといい。ゼロの作戦なら、前世でさんざん見てきた。
必要なのは、領主様が泣きながら隠していた、最後の一桶。
「一滴残らず、と言ったはずですが」 「一桶は、一滴では、ない」
理屈が通っていたので、没収はしなかった。それどころか、「歴史の持ち主は私だ」と言い張る領主様が、年配の女性との三十分の交渉の末に、投入役の座を勝ち取った。使い道は、まだ内緒だ。当日の僕に言わせてほしい。言い切れる自信は、半分だけど。
「ユーリ」
土塁の裏、内側の斜面に並んで座っていたフィオナが、僕の手の甲に指を置いた。数字の隣に、青い川が走る。
その川の一本が、北西から、細い糸になって伸びていた。
「来てる」
壁の向こう、八十メートル。灰の荒野に、ほぼ百%の点がひとつ。
帳簿は、壁越しでも嘘をつかない。視線除けの壁を作ったら、こっちも外が見えなくなった。シゴデキとしては、減点だ。
「あの人だけじゃないの」 フィオナの声が、少し硬い。 「糸の先。北西の丘の上。……数字には、映らない?」
言われて、帳簿の端を睨んだ。丘の上は、空白だった。ゼロですらない。そこだけ、帳簿が最初から存在を認めていない。
「何も出ない」
「私にも、人の形には見えない。川が、あの場所だけ避けて流れてるの」
「……座ってるのかな」
「え?」
「いや。立ってる気がしなくて」
馬鹿な感想だ。でも、あの空白は、慌てている相手のものじゃなかった。急がない。待つことに慣れている。
「二日ぶりだな、庭師」
薄い声が、風に乗って壁を越えてきた。
「外縁を取り戻したか。見晴らし台は、返さぬということだな」
「返しません。あそこは、うちの庭なので」
「そうか」
何も思っていない声だった。本当に、何も思っていないのだろう。それが一番、腹が立つ。
「ならば、壊す。——
一射目は、いつも測るためにある」
ひゅ、と空気が鳴った。
最初の矢は、壁のど真ん中に刺さった。
黒い光が、緑の壁の中へ、ずぶりと沈む。針葉樹の葉が一斉に震えて、矢の黒を、ひとつ残らず吸い込んでいく。数字が跳ねた。百、九十、六十、三十。
……ゼロ。吸い込んだ針葉樹が一本、黄色く染まって、枝を落とした。
「止まった……!」
ハンスが、盾の陰で叫んだ。
「渦が、一割ぶん小さくなったわ」フィオナが目を細める。
「撃つたびに削れてる。向こうも、無限じゃない」
二射目、三射目、四射目。全部、壁に飲まれた。針葉樹が三本、黄色くなった。でも、それだけだ。
……いける。籠城は、庭師の専売特許だ。向こうが芯を削り切るまで、壁の中で待てば——
「測り終えた」
薄い声が、言った。
「二射目からは、当てるためにある」
五射目は、壁へ向かわなかった。
壁の手前で、くい、と矢が向きを変えた。水に落とした墨みたいに、ふらりと。壁の縁をなぞって、そして頭の真上から降ってきた。ハンスの盾へ。
ガン!
「ぐ、っ……!」
黒鋼の板のあいだで、黒い土が、じゅっと鳴った。矢は盾の半ばまで食い込んで、そこで止まった。貫通はしない。矢尻が、内側の黒い土に、ずぶずぶと飲まれていく。
「と……止まった。止まったぞ! 貫かれてねえ! ユーリ、見ろ、貫かれてねえ!」
「見えません。壁があるので」
「そこは見ろよ!」
半分は冗談だ。もう半分は、見えなくても分かった。ケースの盾は、貫かれた。この盾は、貫かれなかった。それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。
だが安心している暇はない。……今からしれっとしれっと凄まじい技が———
「矢が、曲がった」
フィオナの声が、低くなる。
「違う、引かれてるの。矢の根元に、糸が絡んでる。あの丘から」
背中が冷えた。
六射目は、地面に刺さった。僕の足元から三メートル。庭の根の、一番太い継ぎ目の真上だ。
「根が——!」
黒が、地中を走った。根の血管をなぞって、じわじわと広がる。一メートル、二メートル。数字が赤く染まっていく。
「ここ!」フィオナが僕の手を握って叫んだ。
「三十センチ、右で切って!」
「了解——剪定!」
スコップの刃を突き立てて、根を一本、断ち切った。黒い毒が切断面でせき止められて、切り離された先が、ほろりと崩れる。
三秒。たった三秒の攻防だ。あと少し遅れていたら、庭の心臓まで届いていた。
「……っ、はあ」
「息、止めてた」
「君もだ」
「あの目、庭の川を辿って、地図にしてる」
フィオナが早口で続ける。
「盾の下も、根の継ぎ目も、全部。……次に狙うのは、一番太い川。庭の心臓よ」
分かった、と言えた。そうなった時の答えは、もう用意してあるから。
「なら、一番太い川を、こっちで決めよう」
「……『かかし』を、起こすのね」
「うん。起こす。ただし、あの目に見せていい時間は短いほどいい。長く見られたら、偽物だと気づかれる」
「二十秒。それで描き切る」
僕は振り返って、前衛を見た。ハンス、オズ、カシアン、クルト。盾と剣と、泥だらけの顔。
「二十秒、僕もフィオナも動けません。その間に降ってくる矢は、全部、頭の上に。盾を、屋根にしてください」
「俺、盾役でもなかったんだが」とカシアン。
「今日だけは、全員盾役です」
「臨時雇用か。手当は?」
「臭い手当、上乗せで」
「交渉成立だ」
軽口が飛ぶうちは、大丈夫だ。大丈夫なはずだ。
クルトは黙って、土塁の内側に立った。白刃の柄に、手を置いたまま。
穴の縁には、すでに領主様が立っていた。泥だらけの外套の下で、黒く熟した最後の一桶を、赤ん坊みたいに抱えている。
「ユーリ君。私は、この日のために、先代から……」 「領主様、話は後で。合図したら、全部、穴へ」 「……うむ」
唇が震えていた。でも、桶を持つ手は、震えていなかった。
僕とフィオナは、穴の縁に膝をついて、手を重ねた。僕の手の甲に、彼女の掌。頭上で、三枚の盾が屋根になる。ケースの席の、真上に。
「流れを、描くわ」
彼女の声が、いつもより少し遠い。
「底から縁へ、縁から壁の下へ。庭で一番太い川の、偽物。……ユーリは、湖をそのまま流して」
「全部出して、いい?」
「全部出して。私が、絞る」
世界が一つ増えた。帳簿の上に、地図が広がる。僕の中の湖から、穴の底へ向かって、水路が一本、また一本と伸びていく。その一本一本を、彼女の指が丁寧に掘っていた。川を描いているんじゃない。偽物の河床を、掘っているんだ。庭師の仕事と、同じだ。
ガン!
頭上で、金属音。屋根が、きしんだ。
「……っ、重ぇな……!」
声はハンスだった。目を閉じていても、状況は音で分かる。ガン。ガン。ガン。三枚の盾が、順番に殴られる。屋根の隙間から黒い光が差すたび、数字が揺れた。
「どんだけ撃つんだ、あの野郎!」
「喋るな、舌を噛む」オズの声は低くて硬い。
「持て。持たせろ。この盾は、持つように打った」
槌の音はない。でも、槌の音が聞こえる気がした。カン、カン、カン。あの夜と同じリズムで、盾が鳴っている。
「……重ぇな」
ハンスが、もう一度言った。今度は、小さな声で。
「あの野郎、毎回こんなのを、顔色ひとつ変えねえで……」
一瞬、誰も喋らなかった。それから、カシアンがふっと息を漏らした。
「重ぇな、って。それしか言わなかったよな、あいつ。戦ってる間の文句は」
「あとは、『待つのも、守るのも、得意だ』」オズが短く笑う。
そうだ。そう言っていた。
「得意、か」
クルトの声が、屋根の向こうから聞こえた。
「ならば、我々も、得意になるまで立っていればいい」
「……それだ」ハンスが洟をすすった。
「あの野郎、得意だって言いやがったんだ。じゃあ俺たちも、得意になるまで立ちゃいいんだ」
「立てるうちはな」
「立てなくなったら、座って持つ」
「それは、ただの意地だ」
「意地で上等だ!」
ガン、と衝撃。黒鋼の継ぎ目に、ぴし、と細い亀裂が走る音がした。
「この下には、ケースがいる」
オズが、歯の隙間から絞り出した。
「貫かれるまで立ってた男がいる。貫かれてもいねえ俺たちが、膝をつけるか!」
誰も答えなかった。答える代わりに、全員が盾を、もう半歩、持ち上げた。
目を閉じたまま、僕は思い出していた。『それが、今日一番の手柄だ』。ケースに向かって、僕が言った言葉。待つことが手柄なら、立つことも手柄だ。
いま、頭上で、四人分の手柄が積み上がっている。僕が、ここで手を抜けるわけがない。
手の中で、フィオナの指が、かすかに震えた。
「フィオナ」
「……なに。集中してるの」
「大丈夫?」
「大丈夫」
即答だった。でも、握った掌の感触に意識を向ける。彼女の左手の、親指。拳の内側に、きゅっと隠れている。
ああ、そうか。この人は、大丈夫じゃないとき、親指を中に握り込むのか。
「半分、大丈夫じゃないほうだね」
「……っ」びくりと、手が跳ねた。
「なんで、分かるの」
「親指。顔に書いてあった」
「それ、私の台詞……」
「初めて言った」
小さく、息が漏れた。笑ったのだと思う。
「あと十秒、持たせて」
「うん。全部出していい。倒れたら、僕が受け止める」
「……まかせた」
声の震えが、少しだけ消えた。穴の底が、白く、白く輝いている。偽物の川が、完成した。あとは、水を注ぐだけ。
「領主様、今です!」
「歴史よッ!」
領主様の絶叫が、戦場に響いた。
「世界を、救えええええッ!」
桶が傾く。黒く熟した、先代からの歴史が、穴の底へどぷんと落ちていった。
ごぼり。
穴が、息をした。その瞬間、庭で一番太い川が、そこに生まれた。
頭上の盾が、がくんと軽くなった。矢が離れていく。三本、四本。僕らの真上から一斉に、くい、と向きを変えて——穴へ。
吸い込まれた。
数字が爆ぜる。百、百、百。穴の底が、貪るように黒を飲んでいく。九十、五十、二十。
湯気が立ちのぼって、矢の魔気が、ひとつ残らず土に溶けていく。
「かかしに、引っかかった……!」
「引っかかっただけじゃない!」
フィオナが叫んだ。目を見開いて、北西の糸を睨んでいる。
「逆に、引いてるの! 矢は糸で繋がってる。矢の根元から、射手の胸まで。それを、穴が吸ってる。矢だけじゃない、射手の芯まで、引っ張ってるのよ!」
壁の向こうで、重たいものが膝をつく音がした。
「……何だ、これは」
薄い声が、初めて揺れた。帳簿の点が、百から八十、六十と落ちていく。
「何をした、庭師」
「かかしです。畑に立てる、あれ。鳥を騙すための」
「……鳥」
「ええ。賢い鳥ほど、本物より本物らしい偽物に、引っかかるんですよ」
北西の糸が、ぶつん、と鳴った。
「切られた」フィオナが息を吐く。
「向こうの目が、矢との繋がりを捨てた。射手を、助けるために」
点は、四十一で止まった。
「……やった」誰かが呟いた。「やったぞ!」
ハンスが盾を放り出して叫んだ。
オズが、ばきばきに割れた盾を抱えたまま天を仰ぎ、カシアンがその場に大の字になった。領主様は、空になった桶を抱いて、静かに泣いていた。さらば、我が家の歴史。
その横で、膝ががくりと折れた。僕のじゃない。
「フィオナ!」
支えた肩は、冷たかった。二十秒ぶんの川を、全部彼女の指で掘ったのだ。魔力が底をつくと、体は寒さを訴える。前にも見た。
「……へいき」
「親指」
「…………」
彼女は、握り込んでいた親指を、そっと開いた。
「座って」
「でも、まだ」
「座って、フィオナ。三十秒だけ」
ぱちぱちと瞬きをして、それから力なく笑う。
「……こんな気持ちだったのね。いつも」
「言われる側も、悪くないだろう」
「悪くない。……悔しい」
水筒の薬草湯を渡すと、素直に座って飲んだ。素直すぎて、逆に心配になる。ほら、やっぱり、半分も大丈夫じゃない。
「まだ、終わっていない」
薄い声が、壁の向こうから届いた。歓声が、ぴたりと止まる。
「遠くから測る時間は、終わりだ。……近くで、測り直す」
足音。一歩、また一歩。急がず、乱れず。
帳簿の点が、こっちへ近づいてくる。六十メートル。五十。
壁の外に植えた針葉樹の列に、足がかかった。数字が落ちはじめる。三十八、三十四、二十九。
吸われながら、歩いてくる。怖いのは、吸われても止まらないことだ。
「来る気か」カシアンが唸る。
「来ます。矢の誘導を切られたので、近づかないと当てられない」
八十メートルは、遠すぎた。僕とフィオナの槍が届くのは、せいぜい三十メートル。届かない相手には、撃たれるのを待つしかない。でも、向こうから来てくれるなら、話は別だ。
「クルトさん。上に」
「承知した」
クルトが、土塁の天辺へ登った。白刃の剣を抜いている。一番高い場所に立つ者は、一番狙われる。分かっていて、迷いがなかった。
「フィオナ。立てる?」
「……立てる。撃たせて」
「魔力は?」
「三割」
「嘘だ」
「…………一割。もないわ。でも、ユーリの湖があるもの。足りないもの同士、でしょう」
返す言葉が、見つからなかった。代わりに、彼女の手を引いて立たせた。
土塁の天辺から見下ろす荒野は、灰色の海だった。
その海の中に、細身の人影が一つ。壁の外の針葉樹の根に、足首を絡め取られて立っている。魔気を枯らす力は、もう残っていないらしい。
距離、二十五メートル。 相手より、高い場所。庭師の、一番得意な間合いだ。
灰色の外套の下の顔が、僕を見上げた。それから、僕の後ろにいる人を見た。
「……その目か」
背中に、フィオナの両手。僕の手の甲に重なって、湖の水路を、一本に絞っていく。
「見晴らし台は、くれてやらない」
僕は言った。声は、思ったより震えなかった。
「今日から、ここがこっちの特等席です」
「……減らず口を」
弓が、鳴った。
矢は、黒くなかった。白かった。魔気が濃すぎて、色が飛んでいる。残りの芯を、ぜんぶ込めた一矢だ。
「最後の一射は、終わらせるためにある」
矢尻が、僕の肩越しを向いていた。狙いは、僕じゃない。
距離。矢の速度。僕の足。計算は一瞬で終わった。答えは——「死ぬ」。……またか。前世のシゴデキは、毎回、同じ答えしか出さない。
でも、今日は、答えが一つ足りなかった。
視界の端で、クルトが目を閉じていた。
戦場のど真ん中で、目を閉じた。
白刃が、閃いた。
ぎぃん、と歯が浮く音。矢が、空中で真っ二つに割れた。片割れが頬を掠めて、熱が走る。もう片方は土塁の斜面に刺さって、白く光って消えた。
「……肩が、沈んだ」
クルトが、目を開けながら言った。
「それだけで、十分だった」
見えなくても、見ようとする。あの日の言葉が、本当になった。
「フィオナ!」
「うん」
「絞って。もっと。……そう」
ホースの先を、指で潰す。炎が、槍になった。細く、真っ直ぐに、音もなく。灰の海を一直線に裂いて——
彼の胸の、ど真ん中へ。
あの日、古い胸当てに空けた穴と、同じ大きさの穴があいた。指が三本、入るくらいの。
彼は、倒れなかった。足首を絡めた根に支えられて、立ったまま、自分の胸を見下ろした。
「……測り、損ねたか」
薄い声に、初めて感情らしきものが混じった気がした。悔しさかもしれないし、ただの驚きかもしれない。
灰色の外套が、ふわりと広がって、崩れた。黒い粉になって、風に流れていく。庭の外だ。土には、還らなかった。
……還してやりたかったわけじゃない。ただ、思っていたより、あっけなかった。ケースの席の目の前で、刈り取ったのに。
静かだった。
風が、灰を巻いて通り過ぎる。壁の下で、誰かがずるずると座り込む音がした。
「……貫かれて、ねえ」
ハンスの声だ。
「見ろよ、オズさん。三枚とも、ひびだらけで、一枚も、貫かれて……」
「ああ。見えてる」
オズが、割れた盾を抱えたまま、墓のほうを見ていた。
「聞こえたか、ケース。お前の席は、通さなかったぞ」
墓の黄色い花が、風に揺れた。
勝った。ようやく、そう思えた。……ケースの席は、空いたままだけど。
「フィオナ」
振り返ろうとして、背中の手がいつの間にか冷たくなっているのに気づいた。
「——っ、あ」
短い悲鳴。背中から、彼女の体温がふっと消えた。
「フィオナ!」
彼女は両手で目を押さえて、土塁の上に崩れ落ちた。支えた腕の中で、細い肩ががたがたと震えている。
「見えない」
「え?」
「何も、見えないの。川が……ひとつも」
押さえた指の隙間から、緑の目が僕を探して揺れていた。焦点が合っていない。
「糸が切れる瞬間に、あの人の目が、こっちを見たの。弓の人じゃない。丘の……もっと、深いところから」
「……何をされた」
「分からない。真っ白なの。霧みたいに、流れが全部、白くて——」
歯が、かちかちと鳴っていた。僕は彼女の頭を抱えて、周りに聞こえない声で言う。
「大丈夫」
「うそ」
「うん。半分、うそ。でも、半分は本当だ」
彼女が、ひゅっと笑った。笑ったのか、息を吸っただけなのか、分からない。
それから僕の袖を握って、耳元で囁いた。
「聞こえたの。声が。……『よく、見えた』って」
血が、凍る。
「『ベレーの目は、壊さない。使うものだから』……って」
ベレー。それを知っているのは、この庭で、僕と彼女だけのはずだ。
「ユーリの湖も、見られた。底が見えないって、あの人、笑ってた。……ごめんなさい、私のせいで——」 「謝るな」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
「君のせいじゃない。あいつが勝手に覗いたんだ。覗き魔は、覗いた側が悪い」
「……そういう問題?」
「僕の中では、そういう問題」
彼女が、また、ひゅっと笑った。今度は、ちゃんと笑った気がした。
北西の丘に、帳簿を向ける。空白は、まだそこにあった。
さっきまで動かなかったものが——立ち上がった。
座っていたのだ。やっぱり。この戦いのあいだずっと、あの丘の上で座って、見ていた。
空白が、ゆっくりと背を向ける。
急ぐ様子は、少しもなかった。
「……ユーリ」
「うん」
「川が見えなくなったら、私、役に立てない」
「立てる」
即答した。
「君が教えてくれたことは、全部、僕の中にある。君の川は、僕が翻訳する」
「……ユーリが? 川の言葉下手なのに」
「だから、君の言葉じゃなくて、僕の言葉で読む。逆翻訳だ」
「それに君の目が見てる景色は、何度も経験してきたからな」
彼女の手を取って、地面に触れさせる。
「含水率、三十八。魔気濃度、一・二。風は西から。花が揺れてる。黄色い」
「…………それ、全部、帳簿の言葉ね」
「川の言葉は、まだ先生に習ってる途中なので」 「……精度は?」
「保証しない」
「手帳に、書いておかなきゃ」
「なんて?」
「『ユーリの翻訳は下手』」
そんな……
笑い声が、震えながら土塁の上に落ちた。握った手の中で、彼女の指が、ほんの少しだけ握り返してくる。
遠くで、ハンスが叫んでいる。誰かが泣いている。領主様が「歴史が」と呟いている。
勝ったのだ。確かに、勝った。
帳簿の空白は、ゆっくりと、北西へ遠ざかっていく。
急ぐ必要がないのだろう。
——見たいものは、もう、見たのだから。




