第十五話:翻訳
小さな手が、ケースの墓に種を撒いていた。
一粒ずつ、数えながら。ティムが数えて、リーナが落とす。分業制だ。
「いち、に、さん……」
「ティム、はやい」
「じゃあ、ゆっくり。し、ご……」
僕は苗を植え終えたスコップを握ったまま、少し離れて立っていた。夜明けの風は冷たくて、灰の匂いがした。
「ケースのおなか、あったかくなるように」
リーナが、盛った土をぽんぽんと叩く。
「おふとん。おはなの、おふとん」
喉の奥で、何かが詰まった。
魔導アブラナは毒を吸って育つ。魔気の濃い境目に近いこの場所には、むしろ向いている。計算としては、完璧に正しい。
でも、いま頭に浮かんだのは、計算じゃなかった。
「……いい布団になるよ。根が深いから、ぐっすり眠れる」
そう返すのが、精一杯だ。
少し離れたところで、年配の女性が腕を組んでいた。館を抜け出した子供たちを、止めもせず、連れ戻しもせず、ただ見張っている。
「止めても聞かない子は、見張るしかありません。誰かさんで慣れていますから」
「……誰のことでしょう」
「さあ。この庭で一番、聞き分けのない人かしら」
返す言葉がない。今朝の僕は、こればっかりだ。
足音がして、振り返った。
フィオナが、木椀を二つ持って立っていた。外套の裾を握りしめて、目が合った瞬間、三歩ぶん後ずさる。
「……おはよう」
「お、おはよう」
声が裏返った。リーナがきょとんと首を傾げる。
「ユーリ、かぜ?」
「風邪じゃない」
「お顔、まっか」
「寒いんだよ」
「若い人は、放っておきなさい」
年配の女性が、子供たちの肩に手を回した。
「さ、手を洗って朝ごはんです。種まきの続きは、そのあと」
去り際にこちらへ向けた目は、全部分かっている人の目だった。誰にも言っていないはずなのに。この庭の情報網は、魔族より恐ろしい。
二人きりになった。風が、灰を一粒だけ運んでいく。
「……寝てないでしょう」
「フィオナもね」
「……うん」
彼女が、木椀を片方、僕に押しつけてくる。湯気の立つスープ。干した野菜と、肉の出汁の匂い。
並んで地面に腰を下ろした。肩と肩のあいだは、拳ひとつぶん。昨夜は、ゼロだったのに。
「あの、昨日のこと」
「うん」
「……なかったことには、しないでね」
椀を握る指が、白くなっている。
「しない」
「本当に?」
「しない。絶対に。僕は全然、平気だし——」
「右眉」
「えっ」
反射的に眉を押さえた。上がっていたらしい。右か左か確かめる間もなく、フィオナが吹き出した。
「平気なわけ、ないでしょう。私だって、平気じゃないもの」
「……ごめん。大丈夫じゃないです」
「うん。正直でよろしい」
「でも、平気じゃないけどとっても幸せだよ」
「ん……私も」
フィオナの笑った頬が、朝日で赤かった。たぶん、朝日のせいだけじゃない。かわいすぎるのではなかろうか。
彼女のことは、なんとしてでも守らなきゃな。
スープを一口飲んで、彼女のこと以外何も考えられなくなる前に、庭の外縁へ視線を逃がした。
数字が並ぶ。外縁の帯は、残り十四メートル。九十二%から動かない。
その向こうの縁に、昨日の点は——ない。
「いない?」
「うん。糸も、細いまま。……何も、起きてないの」
何も起きていない。それが、いちばん胃に悪い。
来るなら来てくれたほうが、計算ができる。
来ない理由が分からないうちは、安心したふりをしているだけだ。
朝食のあと、槽のそばの作業台に、板を一枚立てかけた。白墨を握る。
集まったのは、フィオナとクルト、カシアン。それと、水を飲みに来て居座ったオズ。
「議題はひとつ。なぜあいつは、昨日の夕方から今朝まで、来なかったのか」
「疲れたんじゃないのか」
カシアンが肩をすくめた。
「弓兵は、腕が命だろう」
「半分、正解」
フィオナが、静かに引き取る。
「二射目のあと、あの人の渦が、ひとまわり小さくなったの。自分の芯を削って撃ったみたいに」
「撃つたびに、自分を減らしてる?」
「たぶん。魔族は、魔気で体を保ってるから」
僕は板に、丸をひとつ描いた。
「魔族は、魔気の入れ物だと思ってほしい。撃てば減る。戻すには、濃い灰に浸かるしかない。ところが、これを見て」
庭の隅に十枚並べた皿。積もった灰の重さを、ハンスが毎日量ってくれている。
「昨日の同じ時刻より、四割減ってる」
「薄いな」
クルトが唸る。
「僕らが灰を土に変えてるぶんもある。でも、それだけじゃ説明がつかない。灰の出元が、弱ってるんだ」
「出元?」
「小都市の魔術兵器。先遣隊が魔力を注いで動かしてる。その先遣隊は、数人規模だった」
白墨が、こつんと鳴る。
「一人は昨日の朝、土になった。もう一人は、ここで弓を引いてた。兵器の番をする手は、確実に減ってる。向こうも、人手が潤沢じゃない」
「向こうも手一杯、というわけか」
「……仮説だけどね」
「聞き飽きたぞ、その台詞は」
「僕もです」
カシアンの笑いが収まるのを待って、フィオナが小さく手を挙げた。
「もうひとつ。矢を撃ったあと、糸が一度だけ脈打ったの。その直後に、あの人は引いたわ」
「誰かに止められたみたいに?」
「うん。勝手には動いてないんだと思う」
クルトが腕を組む。
「観測し、報告し、命令を待つ。斥候の動きだな」
「そう。だから向こうは、庭の仕組みが分かるまで無理押しはしない。ケースを撃ったのは——」
言葉が、喉に引っかかった。
「……測るためだったのかもしれない。許すつもりは、ないけど」
誰も何も言わなかった。オズが、膝の上で拳を握るのが見えた。
「結論を言うよ」
僕は板に数字を書く。
「向こうの手札が戻って、命令が届いて、増援が来る。最短で三日。長ければ十日」
「十日あるかもしれんのに、三日で動くのか」
「十日あると思って、三日目に死ぬのは嫌だからね」
三つの列を書く。
「一、見晴らし台を潰す。二、灰を薄くする。三、こっちの手札を増やす」
こんこん、と板を叩いた。
「一つ目。外縁を取り戻すのに、陣の押し戻しだけだと三日かかる。それを二日に縮める。地中に魔気の通り道を掘って、槽まで引くんだ。暗渠排水っていって、畑の水を抜くのと同じ理屈。造園の基本」
「基本なのか」
「基本です。さらに境目の内側に、高さ三メートルの土塁を築く。針葉樹とアブラナを植えて、緑の壁にする」
「矢除けか」
「視線除けだよ。見えなきゃ、狙えない。見晴らし台は、見晴らしを奪えば、ただの空き地だ」
白墨が、板の隅を指す。
「二つ目。南西に針葉樹の帯を作る。葉は灰を捕まえるフィルターになるし、落ち葉は堆肥になる。灰が薄くなれば、魔族の燃料も薄くなる」
「兵糧攻めか」
「庭師流の、ですけどね」
そして、三つ目。
僕は、隣のフィオナを見た。彼女も、僕を見ていた。
「ずっと後回しにしてた約束を、今日、果たそうと思う」
———
館の裏手の、元・肥え溜め。
荷車三十台ぶんを搾り尽くした石組みの穴は、今ではだだっ広い空き地だ。底に残った臭いだけが、先代からの歴史を語っている。
穴の縁に立ったフィオナが、僕に手を差し出した。
「まず、魔力の流れを見せて」
掌に、彼女の指が重なる。目を閉じる。……昨夜のことがあるせいで、いつもの何倍も、心臓の音がうるさい。スキルに数字が出なくて、本当にありがたい。
フィオナの眉が、ぴくりと動いた。
「……え」
「何?」
「ちょっと待って。ユーリ、これ」
目を開けた彼女は、ぽかんとしていた。
「川じゃない。湖なの。底が、見えない」
「それは、褒められてる?」
「すごく褒めてる。消費効率がいいとはいえあんなに大規模なスキルを行使し続けて魔力が切れないのも納得ね。でも、出口がないの。土へ向かう道だけが太く通ってて、外へ出る道が、ほとんどない」
「つまり?」
「魔力は膨大なのに、蛇口が土にしか繋がってないの。魔術が下手なのは、才能がないからで……というより、配管の問題」
「いま、才能がないって言った?」
「流れを作る才能は、本当にないです」
「ひどい」
「でも、魔力の量だけは、桁違い」
慰めになっていない。いや、事実だけど。
「……蛇口、か」
その単語で、頭の中の何かが繋がった。前世で、何百回も握ったもの。
「散水ノズルみたいなものか。絞れば、水は遠くまで飛ぶ。緩めれば、ばしゃっと広がる」
「それ! それだよ!」
フィオナの顔が、ぱっと輝いた。……ずるいな、その顔は。
「じゃあ、私が管になる。ユーリの流れを私が絞って、形にする。ユーリは、出すことだけ考えて」
そう言って、彼女は僕の背中側に回った。
背中に、体温。両手が、僕の手の甲に重なる。腕の内側に、彼女の腕が沿う。耳元で、息の音がした。
「……近い」
「集中」
「してる」
「声、裏返ってる」
「気のせいです」
苦しい言い訳である。
「いい? イメージは、火じゃなくて水。ホースの先を、指で潰して」
「ホース」
「絞って。もっと。……そう」
世界が、一つ増えた。青い川の地図が、視界の端に広がる。僕の中の湖から一本の細い水路が、フィオナの指のあいだを通って、掌の先へ延びていた。
「撃って!」
炎が、槍になった。
細く、真っ直ぐに、音もなく。穴の底に立てかけた古い胸当てを、すっと貫く。
遅れて、焦げた匂いが立った。胸当ての真ん中に、指が三本入るくらいの穴が、赤く光っている。
……静寂。
「……できた」
「できた!」
次の瞬間、後ろから抱きしめられていた。
「できた、できた、ユーリ、すごい、できた!」
「ちょ、フィオナ、首」
「あ」
腕がぱっとほどけて、彼女は三歩下がった。耳まで赤い。
「ご、ごめんなさい」
「いや、あの、嬉しかったよ。……じゃなくて。うん。どっちも」
何を言っているのか、自分でも分からない。
「確認だ」
穴の縁から、クルトの声がした。いつからいたのか、腕を組んだまま、胸当ての穴を見つめている。
「今のを、お前一人でやれるのか」
「無理です。一人だと——」
試しに掌へ力を込めてみる。
ぽっ。
蝋燭ほどの火が、指先に灯った。
「……これです」
穴の底まで、カシアンの笑い声が響いた。あとで、あの男の晩飯のスープだけ薄くする。
「でも、二人なら、あの鉄を貫ける」
フィオナが、胸を張った。
「足りないもの同士だから、補えるの。私は魔力が足りない。ユーリは管が足りない」
「僕ら、ちょうど割り勘ですね」
「その言い方、ほんとにやめて」
怒らせてしまった。ごめんよ。
「もうひとつ、試したいことがあるの」
フィオナが、クルトに向き直った。
「クルトさん、少しだけ、肩を貸してください。私の見ている世界を、少しだけ。ユーリには、できたから」
クルトが僕を見る。頷くと、彼は黙って片膝をついた。
彼女の手が、騎士の肩に触れる。目を閉じる。クルトの目が、ゆっくりと見開かれていった。
「……これは」
「見えますか。ユーリの足元から、右肩に向かって、細い流れがあるの」
クルトが木剣を取った。僕は、構えてすらいない。
次の瞬間、切っ先が僕の鼻先で、ぴたりと止まっていた。
僕は、一歩も動いていない。動けなかった。
「見えた。……お前の肩が動く前に、流れが」
声が、わずかに震えている。
「宰相閣下の『剣の境地』とは、こういう世界だったのか」
フィオナの指が、びくりと跳ねた。
僕は、クルトからは見えない外套の影で、彼女の指を握った。冷たい。大丈夫、と、指の腹でだけ伝える。
フィオナが、ふっと息を吐いた。
「……三十秒が、限界です。魔力が、もたなくて」
「十分だ」
クルトは静かに木剣を下ろした。
「一度でも見えたなら、次からは、見えなくても見ようとする。それだけで、剣は変わる」
そう言った騎士の横顔は、いつもより少しだけ、若く見えた。
昼過ぎの境目は、土を掘る音で満ちていた。
暗渠の溝を、二十人が掘っている。僕が地面に手を置いて魔気の通り道を数字で描き、フィオナがその横で川を見て、補正する。
「ここ、少し浅い」
「了解。オズさん、砕石あと三台」
「おう!」
魔気濃度四十%の線には、白い杭が等間隔に打ってあった。これより外には、人は入らない。昨日決めた、唯一の絶対ルールだ。
「あっ!」
誰かの声。続いて、杭が一本、からんと倒れる音。
見ると、若い作業員が線の向こうへ走っていた。
倒れた杭を拾おうとしたのだろう。真面目な青年だ。名前は、ロイ。昨夜の総力戦で、いちばん遅くまで掘っていた。
「ロイ、戻れ!」
聞こえていたはずだ。彼は杭を掴んで振り返り、笑った。
その笑顔のまま、膝から崩れた。
「ロイ!」
駆け出していた。数字が足元で赤く跳ねる。四十五、五十。線を越えかけた僕の腕を、誰かが掴んだ。
「だめ!」
フィオナだった。
「ユーリまで倒れたら、誰が庭を見るの」
「でも」
「私が行く。ユーリは、そこから」
返事を待たずに、彼女は線を越えた。数歩。ロイの腕を掴んで、引きずるように戻ってくる。クルトとカシアンが駆け寄って、一緒に内側へ担ぎ込んだ。フィオナは、二、三度、激しく咳き込んだ。
ロイの唇が、黒かった。
袖をまくると、腕に黒い筋が走っていた。手首から肘へ、血管をなぞるようにじわじわと。
……あの矢と、同じだ。
フィオナの手が、止まった。
「……あ」
声が、かすれていた。指先の緑が灯って、細く揺れて、消えそうになる。
ケースの顔が、見えた気がした。僕にも。彼女にも。
「フィオナ」
名前を呼んだ。それだけで、彼女の肩が跳ねる。
「無理しなくていい。僕が——」
「だめ」
即答だった。
「あなたは土を見て。私は流れを見る。……そう決めたでしょう」
細い声だった。でも、手はもう、震えていなかった。
「翻訳しよう」
僕は言った。
「君の川と、僕の帳簿を。いま、何が見える?」
フィオナが目を閉じて、ロイの腕に掌を沿わせる。
「黒い流れが、手首から入ってる。澱んでるの。出口がなくて、ぐるぐるして、肘で行き止まりになってる」
「出口がないから、溜まる」
「うん」
「じゃあ、出口を作る」
頭の中で、何かがかちりと鳴った。ケースのときにはなかった、一つの仮説。
「ハンス! 昨夜、灰が変わった黒い土を、ありったけ! あと魔導アブラナの葉を煎じて!」
「は? なんで」
「魔気を食べるのは、土の仕事だからだよ!」
説明する暇は、なかった。
「庭は、魔族の魔気まで土に還した。人の体の中の魔気も、同じ理屈で吸い出せるかもしれない。毒を消すんじゃない。土に、食べてもらう」
運ばれてきた黒い土は、ふかふかで、温かかった。それをロイの手首に、厚く載せる。
「フィオナ。出口は、どこ?」
「手首の、ここ。……そう、そこ。そこから土のほうへ、流れを引いて」
「やってみる」
僕の掌が土に置かれ、フィオナの指が重なった。数字の隣に、青い川がはっきりと見える。
黒い筋が澱んでいる。その先端が、土のほうへ、ゆっくりと引かれていった。
「……動いた」
「うん。動いてる。そのまま」
アブラナの煎じ汁を、匙で口へ運ぶ。ロイが、ごほごほと咳き込む。それでも一口、また一口。
肘にあった黒い筋が、手首へ。手首から掌へ。じりじりと後退していく。
やがて、唇に血の色が戻った。
長い沈黙のあと、青年の瞼が震えた。
「……杭は……」
「え?」
「杭は、無事、ですか……」
僕は思わず、フィオナと顔を見合わせた。
「折れたよ」
「す、すんません……」
「杭なんて、いくらでも立てる」
気づいたら、口が動いていた。
「君は、一本しかないんだ。次は、僕を呼べ」
ロイは、ぽかんとして、それから顔をくしゃくしゃにした。
……前世の僕は、人の命さえ、コストで測っていた。赤字か黒字か。そうしないと心が持たなかったからだ。でも、それだけじゃ守れないものがあると、この庭が教えてくれた。
フィオナが、その場にぺたんと座り込んだ。
「……止められた」
ひどく小さな声だった。
「ケースさんのときは、間に合わなかった。矢の毒は、これの十倍は濃いから。でも、何もできないわけじゃ、なかった」
ぽろ、と涙が落ちた。
「次は、もっと早く見つけられる。もっと上手くなる。……ケースさんが、教えてくれたの」
僕は隣に座って、何も言わず、濡れた頬に親指で触れた。
周りの作業員たちが、そろって空を見上げたり、地面を見たりしている。見なかったふりをしてくれているらしい。ありがたい。
夕方、帳簿を抱えたハンスが、全力で走ってきた。
「ユーリ! 見ろ、これを!」
「僕が真っ先に知らせる約束だったのに」
「お前は昼まで、穴の底にいただろうが!」
彼が突き出したのは、帳簿の最後の頁だった。人数、食料、備蓄、見込み収穫。その一番下の、数字。
「……黒字!!」
「そうだ! 昨夜、灰が土に変わった区画にまいた種が、もう双葉を出してる。灰から出来た土は、肥料そのものだ。収穫の見込みが倍になった。人数が増えても、帳簿が、初めて黒になった!」
胸に押しつけられた帳簿を、受け取る。
庭を始めた日から、ずっと赤字だった。赤字なんて知っていた。それでも、数字の隣に、ほんの少しずつ、黒が増えていった。
「前世の僕が見たら、この数字で泣くとは思わなかっただろうな」
「泣いてんのか」
「泣いてない」
「右眉、上がってるぞ」
「なんでみんな知ってるんだ!」
笑い声が広がった。誰だ僕を売った裏切り者は。フィオナまで、肩を震わせている。あとで絶対、情報の出所を調べてやろう。
「収穫が消費を超えた日には、門を開ける。……覚えてるな」
「覚えてるよ」
「俺も、忘れてなかった」
ハンスの声が、少し掠れていた。
「門の外の連中には、俺から話す。名簿を作って、段階的に入れる。戦える奴は希望すれば、守備隊だ。カシアンの仲間が見る。それと、灰の皿は朝からさらに二割減った。お前の『灰を薄くする』が、効いてる」
「……頼む」
「任せろ。ああ、それと」
ハンスが、そっぽを向いた。
「守備隊の一番前の席は、空けとく。ケースの席だ」
何も言えなかった。ただ、頷いた。
日が傾く頃、庭の一角から、槌の音が響いてきた。
オズの炉の前に、黒鋼の板が積まれている。その間に挟むのは、乾かした黒い土。
「鉄の中に、土を入れる」
「挟むんです。サンドイッチみたいに」
「変なことを考えるやつだな、お前は」
鼻で笑ったけれど、槌を握る手は、真剣だった。
「矢が貫く前に、土が魔気を吸う。吸いきれなくても、勢いは削れる。……もう、盾が貫かれるのは見たくねえ」
「作りましょう。一緒に」
「おう。名前は、サンドイッチ盾でいいか」
「安直ですね」
「分かりやすいのが、一番だ」
炉の火が、オズの顔を赤く照らしていた。
夜。土塁の上は、風が冷たかった。
三メートルの土の壁は、昼のうちに半分ほど積み上がっている。その天辺に、僕とフィオナが並んで座っていた。見張りの当番だ。クルトが当番表を勝手に書き換えていた。感謝している。本当にありがとう。
「寒くない?」
「大丈夫」
「半分、大丈夫じゃないでしょう」
「……え」
フィオナが、くすりと笑った。外套の内側から、一冊の手帳を取り出す。
「ねえ、ユーリ。これ、見て」
表紙には、小さな文字。
『ユーリ・フロックス』
「……え?」
「読んで」
頁をめくる。丁寧な字が並んでいた。
『含水率=川の重さ』
『分解=小さな生き物たちの食卓』
『地縄張り=ここに作る、と決めること』
そこまでは、土の話だった。次の頁から、様子が変わった。
『「少し」=かなり』
『「大丈夫」=半分、大丈夫じゃない』
『「問題ない」=問題あり。要確認』
『「計算通り」=計算外だったけど、顔に出さないようにしている』
『「寝た」=寝てない』
『嘘をつくときは、右眉が上がる』
「…………」
「翻訳精度、高いでしょう」
得意げな声が、すぐ隣から聞こえた。うん。高いよ……
全部当たってる。
「いつから書いてたの」
「あの夜から。ユーリが『翻訳しよう』って言った、馬の上で」
……最初からか。
最後の頁に、見出しだけが書かれていた。
『ユーリが私の名前を呼ぶとき』
その下は、白紙だった。訳の欄だけが、ぽっかり空いている。
「ここだけ、訳せないの」
フィオナが、膝を抱えた。
「ずっと考えてたんだけど、分からなくて。確かめたいのかなって思ったけど……違うな」
彼女が、僕のほうを向く。月明かりが、緑の瞳に揺れていた。
「聞きたいの。ユーリの口から」
心臓が跳ねた。数字に出なくて助かった。いや、いまは出てほしい。出ていたら、たぶん全部バレている。
手帳に挟まっていた鉛筆を取る。
「……僕の言葉で、書いていい?」
「うん。ユーリのことを書くためのものだもの」
白紙の欄に、慣れた帳簿の字で、二文字。
『好き』
少し考えて、その横に付け足した。
『(翻訳不要)』
手帳を返す。フィオナは、頁をじっと見つめて、長いこと動かなかった。やがて、ふるふると肩が震えた。
「……ずるい」
「それ、何回目だっけ」
「何回でも言うわよ。ずるい。翻訳不要、なんて」
顔を覆った手の隙間から、小さな声が漏れる。
「私も。……私も、ずっと、訳さなくても分かってた」
「顔に書いてあった?」
「五度目」
指の隙間から、片目だけ覗かせて、彼女は笑った。
「今度は、ちゃんと口に出してくれた。それが、嬉しいの」
手を伸ばして、彼女の手を握る。冷たかった指が、少しずつ温かくなっていく。彼女の頬を触る。
二度目の口付けは、それはそれは甘美なものであった。
肩に、こつん、と頭が預けられた。
この五分だけは、世界が滅びかけていることも、魔族の矢のことも、遠くにあるように思えた。もちろん、錯覚だ。分かっている。それでも、これくらいは許されてもいいはずだ。
「ねえ、ユーリ」
「うん」
「私ね、ずっと、役に立てるか怖かったの。でも今日、ロイさんを助けられて、気づいたの」
「何に?」
「役に立つか立たないかじゃなくて。……ここにいたいから、いるんだって」
息が、止まった。
「ベレーでも、エルゼルトでもなくて。フィオナとして。ユーリの隣に、いたいの」
昨夜の涙の理由が、やっと全部、繋がった気がした。
「僕も、同じだよ」
返す言葉は、それで足りた。
どれくらい、そうしていただろうか。
肩の重みが、ふいにこわばった。
「……ユーリ」
「うん?」
「糸が」
フィオナの視線は、北西を向いていた。灰色の空の、さらに奥。
「脈が、変わった。さっきまでゆっくりだったのに、一定の間隔で打ってる。まるで」
唇が、白くなっていく。
「足音みたい」
背筋を、冷たいものが這った。
「近づいてる?」
「向こうの端が、歩き出してる。こっちへ、まっすぐ」
彼女は目を閉じて、僕の手を強く握った。一拍、二拍。風が止まる。
「……三日。たぶん、三日」
僕の最短見積もりと、同じ数字だ。偶然だと、思いたい。
「それと、もうひとつ」
声が、ひどく小さくなった。
「糸の向こうに、目があるの。ずっとこっちを見てる。……私と同じ、流れが見える目。ううん、違う。私より、ずっと深い」
指が、僕の手の中で震えた。
「見られた。私、いま、見つけられた」
僕は、彼女の肩を抱き寄せた。
灰色の空の向こうで、何かがゆっくりと、こちらへ歩いてくる。
刈り手が、来る。
ならば、それまでに庭を育てるだけだ。三日。柄尻の三つ葉に、親指を当てる。
「大丈夫」
そう言ってから、僕は、右眉を押さえた。
「……いまのは、半分、大丈夫じゃないほうだ」
「翻訳、いらなかったね」
小さく笑う彼女の手を、僕は離さなかった。




