第十四話:剪定した20メートル
目が覚めて最初に見えたのは、天井ではなく年配の女性の顔だった。
視界の大半を、この人に占領されている。
「ここがどこか、分かりますか」
「作業小屋、ですよね。固いベッドの」
「結構。では、今日は」
「……魔族を倒した日の、昼過ぎ、だと思います」
「半日近く寝てましたよ、あなた」
盛り土に座り込んだあとの記憶がないのは、運ばれたからだったらしい。誰に、と聞こうとして、左手の違和感に気づいた。
フィオナが、ベッドの脇の椅子で眠っていた。僕の包帯の端を、指先でつまんだまま。
……動けない。
昨夜に続いて二度目の詰みだ。この庭には、魔族より手強い相手が何人いるんだろう。
「動くんじゃありませんよ」
「僕、この一ヶ月で『動くな』って言われた回数、庭で一番多い自信があります」
「自慢になりません」
年配の女性は声を落とした。
「その子、あなたが運ばれてから、一度もここを離れてません。薬草も自分で潰して」
「それ、僕に言っていいやつですか」
「ハンスさんに聞かれたので」
あの男は、あとで肥え溜めに沈めよう。底はもう空っぽだけど、臭いならまだ残っているはずだ。
僕の額に手の甲を当てて、女性は満足そうに頷いた。
「熱はなし。起きたら手を洗って、食べなさい」
「それ、毎回言われてる気がします」
「毎回言わないと、食べないからです」
返す言葉がない。無念だ。
外に出ると、庭の空気が昨日と少し違っていた。
灰はまだ降っている。ただ、雪のように落ちてくる粒は、昨夜よりずっと少ない。
中心の魔気濃度は一・五%。庭に触れた端から、黒い粉がほろりと土に変わっていく。陣は働き者だ。僕の助手ほどではないにしても。
問題は、その外側だった。
昨日、僕が根を断ち切った外縁の二十メートル。植えたばかりの針葉樹も、魔導アブラナも、全部黒く朽ちて、灰色の帯になって庭をぐるりと囲んでいる。数字は九十二%のまま、微動だにしない。
切ったのは僕だ。必要だと判断して、自分の手で。
判断は間違っていなかったはずだ。でも、数字の上で正しいことと、見ていて平気なことは、別物らしい。
槽のそばには、いつもの面々が集まっていた。ハンス、クルト、カシアン、ケース、オズ。
「よう、寝坊助。もう昼だぞ」
「ハンス君。あとで肥え溜めに沈める」
「なんでだよ!」
「胸に聞いて」
カシアンがシャツをめくって、腹を見せてきた。くっきりと、軍靴の形の青あざ。
「見ろ。勲章だ」
「痛いなら隠してください」
「痛い。すごく痛い。だから見せてるんだよ」
……この人の理屈は、たまに分からない。
「状況を整理する」
クルトが咳払いをして切り出した。
「外縁は人間が入れん。九十二%の灰など、一呼吸で膝をつく」
「陣の力で、少しずつ押し戻します。一日七、八メートル。三日で取り戻せる計算です」
「その三日、あそこは魔族だけが立てる場所ということか」
「そうなります。だから、境目に見張りが要る」
「俺がやる」
ケースだった。大きな手を挙げている。
「境目なら、作業班の守りもできる。俺は待つのも守るのも得意だ。……盾が、まだねえがな」
「夕方までには仕上げる」
オズが、煤だらけの顔で言った。
「叩いて戻すだけじゃ脆い。裏に黒鋼を一枚足す。前より重くなるぞ」
「重い方が落ち着く」
「変わったやつだな、お前」
「あんたに言われたくねえ」
クルトが、腰の白刃に手を置く。
「糸の話は、昨夜フィオナから聞いた。向こうの端を誰が握っているのか分からん。見張りは倍にした。……お前は寝ていたがな」
「寝ろって言われたので」
「言われたら寝るのか」
「僕、命令には従う主義です」
「嘘をつけ」
全員でよってたかって笑いやがって……僕のことをなんだと思っているんだろうか。
まあいい。笑える程度には、みんな生きている。それで十分だ、と思うことにした。
昼下がり、境目の作業が始まった。
陣で押し戻した土に、魔導アブラナの苗を植えていく。
二十人ほどの作業班が、「腰を使いなさい、手首で打つんじゃありません」と叱られながら畝を作っていた。
僕は地面に手を置いて、根の向きを整える。隣には、起きたばかりのフィオナがいた。
彼女の指が手の甲に触れて、数字の隣に青い川が走り出す。帳簿の上に、地図が重なった。
その川の一本が、北西へ細く伸びていた。昨日の黒い糸だ。フィオナの視線が、一瞬だけそちらへ逸れる。
「まだ見える?」
「うん。細くなってる。でも、切れてない」
「……話は、ちゃんと聞くから」
「うん。分かってる」
境目に立つケースの足元へ、ティムとリーナが昼のスープを運んできた。
「ケース、お弁当」
「……ああ」
「お腹、貸してくれる?」
「貸さねえ」
「けち」
「仕事中だ」
即答だった。それでも、リーナの頭に載せた手は、びっくりするほど優しかった。
そこへ、背負子のように大盾を担いだオズが、息を切らして駆けてきた。
「間に合った! 持ってみろ」
ケースが盾に腕を通す。凹みは消えて、裏には黒鋼の板が十字に走っていた。表面の隅に、小さな彫り込みがひとつ。三つ葉。
「……これは」
「ガキどもの注文だ」
リーナが得意そうに胸を張る。ケースは何度か構えを変えて、短く言った。
「いい盾だ」
「当たり前だ。誰が打ったと思ってる」
……それが、僕が聞いた、ケースの最後の軽口だった。
数字が跳ねる。
九十二%の灰色の帯の、ずっと向こうの縁。ほぼ百%の点がひとつ。
「……来た」
言うより早く、ケースが動いていた。数字より先に気づいていたような、迷いのない動き。作業班の前へ出て、盾を構える。
「全員、下がって! 伏せろ!」
黒い光が、灰の帯を一直線に走った。
ガン、と腹に響く音。黒い魔力の矢が、盾の表面に突き刺さって止まっていた。黒鋼が、悲鳴みたいな高い音を引く。
「止めた……俺の盾が、止めたぞ!」
オズが叫ぶ。
灰の向こうに、人影が立っていた。細身の体に、灰色の外套。手には、黒い魔力でできた長い弓。昨日の魔族とはまるで違う。鎧もなく、剣もなく、ただ静かに。
「測っただけだ」
感情のない、薄い声が風に乗って届く。
「一射目は、いつも測るためにある」
二射目が、つがえられた。さっきよりずっと太い。数字が、赤を通り越して白くなる。
狙いは盾じゃない。僕だ。
……ああ、これは避けられない。
距離、二十メートル。矢の速度。僕の足。計算は、一瞬で終わった。答えは「死ぬ」。
前世のシゴデキが最後に出してくれた、無駄に有能な答えだ。
「どけ、庭師」
横から巨体が、僕を突き飛ばした。
視界が回って、地面に転がる。起き上がって見えたのは、僕の前に立つ背中と、その盾を中心から貫いた黒い矢。
黒鋼の板が割れる。矢は盾を抜けて、ケースの胸に深く刺さっていた。
「ケース!」
彼は倒れなかった。膝をつき、割れた盾を地面に突いて、立ったまま僕を見る。
「……ほら。立ってただろ」
「喋るな、今——」
「フィオナ!」
彼女は、もう駆け寄っていた。両手を胸に当てる。指先の緑が灯って、すぐ黒く染まって、消えた。
「だめ……流れが、止まらない……!」
矢の根元から、黒い筋が血管をなぞるように広がっていく。魔気が、体の中で直接、毒になっている。
「止められない……リーナのときは、止められたのに……!」
フィオナの声が壊れかけていた。ケースが、不思議なほど穏やかな顔で言う。
「ユーリ」
「うん」
「俺は、いたか。……今度は」
一瞬、何を聞かれているのか分からなかった。それから思い出した。「いないのと一緒だった」と俯いていた、あの日の声。
「いた」
声が震えなかったのは、奇跡だと思う。
「ずっといた。誰より先に気づいて、僕を突き飛ばした」
「……そうか。なら、いい」
彼は口の端を、ほんの少し上げた。
「ガキどもに、悪いな、と。……腹を貸す約束は、してねえけどな」
盾が手から滑り落ちて、ガシャン、と音がした。それきり、彼は動かなくなった。
灰の向こうで、魔族が弓を下ろす。
「先の者は土になったか。最期に見た庭は、こちらによく届いた」
誰も答えなかった。駆けつけたハンスが立ち尽くしている。
クルトの手が、剣の柄で白くなっている。オズの口から、声にならない音が漏れていた。
魔族の視線が、ケースの胸から手を離せないフィオナで止まった。
「……その目か」
それだけ言って、魔族は踵を返す。灰の帳が揺れて、影が薄れていった。
「庭師。切り離した二十メートルは、よい見晴らし台だ。大切に使うといい」
その夜、境目のそばにケースを埋めた。
場所を選んだのは、オズだった。貫かれた盾を黙って抱えて、「こいつが、いちばん長く立ってた場所だ」とだけ言った。
年配の女性は、長い言葉を言わなかった。土を一握り胸の上にかけて、「お疲れさまでした」とだけ言った。ハンスは声を殺して泣いていた。
カシアンは軽口ひとつ出ないまま、天を仰いでいた。クルトは、ケースの肩を叩いたときの重い手を、自分の手のひらで、静かに握りしめていた。
ティムは父の認識票を握ったまま動かない。リーナがその袖を引いて、小さな声で聞いた。
「ケース、お腹、もう貸してくれない?」
誰も、答えられなかった。
オズが、割れた盾の黒鋼を一枚、墓標の代わりに土へ立てた。三つ葉の彫りが、月明かりに浮かんでいる。
「貫かれるまでは、通さなかった」
鍛冶屋は、ぽつりと言った。
「俺の盾は、そこまではやったんだ」
夜が更けて、僕は井戸の縁に座っていた。
頭の中で、数字だけが回っている。
外縁二十メートル。剪定。見晴らし台。あの矢は、庭の中には入れなかった。
あの帯がなければ、魔族はあの距離まで近づけなかった。
僕が切った二十メートルだ。
「また、一人で計算してる」
隣に、フィオナが腰を下ろした。木椀は持っていない。
「……顔に書いてあった?」
「四度目」
「そうか」
「ユーリが背負う話じゃない、って言っても聞かないでしょう。だから言わない」
彼女は膝の上で指を組んだ。
「その代わり、話を聞いてほしいの」
「……今? 『全部終わってから』じゃ」
「うん。やめた」
静かな声だった。でも、指先がかすかに震えている。
「全部終わってからなんて待ってたら、言い損ねる人が出るかもしれないでしょう。……ケースさんみたいに」
胸の奥が、きゅっと鳴った。
「私ね、止められなかった。いつもそう。もっとできたんじゃないかって思うの。私の目が、本当の意味で使えていたら、って」
「本当の、意味」
フィオナは少しだけ息を吸った。
「エルゼルトはね、ベレー家の分家の名前なの」
一拍、意味が入ってこなかった。
「……ベレー。宰相の?」
「エルゼ・アマデウス・ベレー閣下は、祖父の兄。祖父は若い頃に本家から分かれて、『エルゼに連なる者』という意味でエルゼルトを名乗ったの。私から見れば、大叔父」
大火の中で膝をついた、あの名宰相。帝国が死んだ日の、象徴。
「ベレーの家にはね、代々、魔力の流れが見える目を持つ人が生まれるの」
彼女は、自分の目元に指を添えた。
「本家は、それを剣に使った。相手の魔力の流れを読んで、振り出す前に斬る。大叔父様が『剣の境地』と言われたのは、そういうこと。分家は剣より、植物や水の流れを読むほうに寄った。……私の魔術、年の割に出来すぎてると思わなかった?」
「思ってた。ずっと」
「種を明かすと、それだけなの。川を見るか、斬る相手を見るか。同じ目の、使い方の違い」
ああ、そうか。
欠片の割れ目の先を辿れた理由。魔族の渦の核を見つけた理由。残穢まで読める、突出した才能。全部が、一本の線で繋がった。
「どうして、黙ってたの」
聞いてから、答えは分かっていた。それでも、聞いた。
「首都が落ちたとき、エルゼの名前は『帝国を守れなかった家』の名前になったわ」
フィオナは笑おうとして、失敗した。
「街道で、大叔父様を呪う声をたくさん聞いた。名乗っていたら、一緒にいた子供たちまで石を投げられたと思う。……でも、それだけじゃない」
彼女が、僕のほうを向く。緑の瞳が月明かりに揺れていた。
「ここに来てから、ずっと怖かったの。役に立てなかったらどうしようって。でも、もっと怖かったのは、言った瞬間に『ベレーの人』としてしか見てもらえなくなること。『大した話じゃないかも』なんて言ったけど、あれ、嘘。私には、いちばん大きな話だった」
しばらく、井戸の底の水の音だけがしていた。
何を言うべきか考えて、そして、考えるのをやめた。
「あのさ」
「うん」
「僕、君を雇うって決めたの、名前を聞く前だったんだ」
「え?」
「君が気を失ってる間に。決め手は、指先が緑だったことと、僕の糞の庭を『綺麗』って言ってくれたこと。それだけ。家柄は、雇用条件に書いてない」
「……書いてないの?」
「書いてない。ちなみに僕の前世の履歴書は、もうちょっと寂しかった」
フィオナの口の端が、ぴくりと動いた。
「ベレーでも何でもいいよ。ファイアボールを迷わず撃ったのは、フィオナの指だった。隣で川を見てるのも、ベレーの目じゃなくて、フィオナの目だ」
言い終えてから、顔が熱くなった。スキルに心拍数が出ないのは、本当にありがたい。
「……ずるい」
「それ、もう何回目だよ」
「ずるいんだもの」
彼女は顔を伏せた。肩が小さく震えている。泣いているのか、笑っているのか、今度は分かった。たぶん、両方だ。
それから顔を上げて、言った。
「あの人、私を見て『その目か』って言ったでしょう。魔族は、ベレーの目を知っているのかもしれない。もし狙われるのが私なら——」
「却下」
「まだ言い終わってない」
「却下。一人で抱え込まないって約束しただろ。お互い様だったよな」
彼女は目を丸くして、それからふわりと笑った。
「そうだね」
だけどやっぱりその顔は泣きそうだ。僕は思わず手を伸ばして———
今日重ねたのは、手のひらだけではなかった。
やわらかい感触が、少しだけ唇に残っていた。
夜明け前、僕はケースの墓の隣に、針葉樹の苗を一本植えた。
あの日、一人で植えた苗は、昨日の剪定で朽ちた。これは、残っていた最後の予備の一本だ。
柄尻の三つ葉に、親指を当てる。
「待つのが手柄だって、言いましたよね」
返事はない。分かっている。
「だったら、今度は僕が待つ番です。二十メートル、必ず取り戻します」
数字は、まだ九十二%のまま動かない。三日。いや、二日で。
灰色の帯の向こうで、何かが静かに、こちらを見ている気がした。
見晴らし台は、くれてやらない。
刈られたものは、植え直す。今度は、刈り取れないほどに。




