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15/21

第十四話:剪定した20メートル

目が覚めて最初に見えたのは、天井ではなく年配の女性の顔だった。


視界の大半を、この人に占領されている。


「ここがどこか、分かりますか」

「作業小屋、ですよね。固いベッドの」

「結構。では、今日は」

「……魔族を倒した日の、昼過ぎ、だと思います」

「半日近く寝てましたよ、あなた」


盛り土に座り込んだあとの記憶がないのは、運ばれたからだったらしい。誰に、と聞こうとして、左手の違和感に気づいた。


フィオナが、ベッドの脇の椅子で眠っていた。僕の包帯の端を、指先でつまんだまま。


……動けない。

昨夜に続いて二度目の詰みだ。この庭には、魔族より手強い相手が何人いるんだろう。


「動くんじゃありませんよ」

「僕、この一ヶ月で『動くな』って言われた回数、庭で一番多い自信があります」

「自慢になりません」


年配の女性は声を落とした。


「その子、あなたが運ばれてから、一度もここを離れてません。薬草も自分で潰して」

「それ、僕に言っていいやつですか」

「ハンスさんに聞かれたので」


あの男は、あとで肥え溜めに沈めよう。底はもう空っぽだけど、臭いならまだ残っているはずだ。


僕の額に手の甲を当てて、女性は満足そうに頷いた。


「熱はなし。起きたら手を洗って、食べなさい」

「それ、毎回言われてる気がします」

「毎回言わないと、食べないからです」


返す言葉がない。無念だ。


外に出ると、庭の空気が昨日と少し違っていた。

灰はまだ降っている。ただ、雪のように落ちてくる粒は、昨夜よりずっと少ない。


中心の魔気濃度は一・五%。庭に触れた端から、黒い粉がほろりと土に変わっていく。陣は働き者だ。僕の助手ほどではないにしても。


問題は、その外側だった。


昨日、僕が根を断ち切った外縁の二十メートル。植えたばかりの針葉樹も、魔導アブラナも、全部黒く朽ちて、灰色の帯になって庭をぐるりと囲んでいる。数字は九十二%のまま、微動だにしない。


切ったのは僕だ。必要だと判断して、自分の手で。


判断は間違っていなかったはずだ。でも、数字の上で正しいことと、見ていて平気なことは、別物らしい。


槽のそばには、いつもの面々が集まっていた。ハンス、クルト、カシアン、ケース、オズ。


「よう、寝坊助。もう昼だぞ」

「ハンス君。あとで肥え溜めに沈める」

「なんでだよ!」

「胸に聞いて」


カシアンがシャツをめくって、腹を見せてきた。くっきりと、軍靴の形の青あざ。


「見ろ。勲章だ」

「痛いなら隠してください」

「痛い。すごく痛い。だから見せてるんだよ」


……この人の理屈は、たまに分からない。


「状況を整理する」


クルトが咳払いをして切り出した。


「外縁は人間が入れん。九十二%の灰など、一呼吸で膝をつく」

「陣の力で、少しずつ押し戻します。一日七、八メートル。三日で取り戻せる計算です」

「その三日、あそこは魔族だけが立てる場所ということか」

「そうなります。だから、境目に見張りが要る」

「俺がやる」


ケースだった。大きな手を挙げている。


「境目なら、作業班の守りもできる。俺は待つのも守るのも得意だ。……盾が、まだねえがな」

「夕方までには仕上げる」


オズが、煤だらけの顔で言った。


「叩いて戻すだけじゃ脆い。裏に黒鋼を一枚足す。前より重くなるぞ」

「重い方が落ち着く」

「変わったやつだな、お前」

「あんたに言われたくねえ」


クルトが、腰の白刃に手を置く。


「糸の話は、昨夜フィオナから聞いた。向こうの端を誰が握っているのか分からん。見張りは倍にした。……お前は寝ていたがな」

「寝ろって言われたので」

「言われたら寝るのか」

「僕、命令には従う主義です」

「嘘をつけ」


全員でよってたかって笑いやがって……僕のことをなんだと思っているんだろうか。


まあいい。笑える程度には、みんな生きている。それで十分だ、と思うことにした。


昼下がり、境目の作業が始まった。

陣で押し戻した土に、魔導アブラナの苗を植えていく。


二十人ほどの作業班が、「腰を使いなさい、手首で打つんじゃありません」と叱られながら畝を作っていた。


僕は地面に手を置いて、根の向きを整える。隣には、起きたばかりのフィオナがいた。


彼女の指が手の甲に触れて、数字の隣に青い川が走り出す。帳簿の上に、地図が重なった。


その川の一本が、北西へ細く伸びていた。昨日の黒い糸だ。フィオナの視線が、一瞬だけそちらへ逸れる。


「まだ見える?」

「うん。細くなってる。でも、切れてない」

「……話は、ちゃんと聞くから」

「うん。分かってる」


境目に立つケースの足元へ、ティムとリーナが昼のスープを運んできた。


「ケース、お弁当」

「……ああ」

「お腹、貸してくれる?」

「貸さねえ」

「けち」

「仕事中だ」


即答だった。それでも、リーナの頭に載せた手は、びっくりするほど優しかった。


そこへ、背負子のように大盾を担いだオズが、息を切らして駆けてきた。


「間に合った! 持ってみろ」


ケースが盾に腕を通す。凹みは消えて、裏には黒鋼の板が十字に走っていた。表面の隅に、小さな彫り込みがひとつ。三つ葉。


「……これは」

「ガキどもの注文だ」


リーナが得意そうに胸を張る。ケースは何度か構えを変えて、短く言った。


「いい盾だ」

「当たり前だ。誰が打ったと思ってる」


……それが、僕が聞いた、ケースの最後の軽口だった。


数字が跳ねる。

九十二%の灰色の帯の、ずっと向こうの縁。ほぼ百%の点がひとつ。


「……来た」

言うより早く、ケースが動いていた。数字より先に気づいていたような、迷いのない動き。作業班の前へ出て、盾を構える。


「全員、下がって! 伏せろ!」


黒い光が、灰の帯を一直線に走った。

ガン、と腹に響く音。黒い魔力の矢が、盾の表面に突き刺さって止まっていた。黒鋼が、悲鳴みたいな高い音を引く。


「止めた……俺の盾が、止めたぞ!」


オズが叫ぶ。

灰の向こうに、人影が立っていた。細身の体に、灰色の外套。手には、黒い魔力でできた長い弓。昨日の魔族とはまるで違う。鎧もなく、剣もなく、ただ静かに。


「測っただけだ」

感情のない、薄い声が風に乗って届く。

「一射目は、いつも測るためにある」


二射目が、つがえられた。さっきよりずっと太い。数字が、赤を通り越して白くなる。


狙いは盾じゃない。僕だ。

……ああ、これは避けられない。


距離、二十メートル。矢の速度。僕の足。計算は、一瞬で終わった。答えは「死ぬ」。


前世のシゴデキが最後に出してくれた、無駄に有能な答えだ。


「どけ、庭師」

横から巨体が、僕を突き飛ばした。


視界が回って、地面に転がる。起き上がって見えたのは、僕の前に立つ背中と、その盾を中心から貫いた黒い矢。


黒鋼の板が割れる。矢は盾を抜けて、ケースの胸に深く刺さっていた。


「ケース!」

彼は倒れなかった。膝をつき、割れた盾を地面に突いて、立ったまま僕を見る。


「……ほら。立ってただろ」

「喋るな、今——」

「フィオナ!」


彼女は、もう駆け寄っていた。両手を胸に当てる。指先の緑が灯って、すぐ黒く染まって、消えた。


「だめ……流れが、止まらない……!」

矢の根元から、黒い筋が血管をなぞるように広がっていく。魔気が、体の中で直接、毒になっている。

「止められない……リーナのときは、止められたのに……!」


フィオナの声が壊れかけていた。ケースが、不思議なほど穏やかな顔で言う。


「ユーリ」

「うん」

「俺は、いたか。……今度は」


一瞬、何を聞かれているのか分からなかった。それから思い出した。「いないのと一緒だった」と俯いていた、あの日の声。


「いた」

声が震えなかったのは、奇跡だと思う。

「ずっといた。誰より先に気づいて、僕を突き飛ばした」

「……そうか。なら、いい」


彼は口の端を、ほんの少し上げた。


「ガキどもに、悪いな、と。……腹を貸す約束は、してねえけどな」


盾が手から滑り落ちて、ガシャン、と音がした。それきり、彼は動かなくなった。

灰の向こうで、魔族が弓を下ろす。


「先の者は土になったか。最期に見た庭は、こちらによく届いた」


誰も答えなかった。駆けつけたハンスが立ち尽くしている。


クルトの手が、剣の柄で白くなっている。オズの口から、声にならない音が漏れていた。


魔族の視線が、ケースの胸から手を離せないフィオナで止まった。


「……その目か」

それだけ言って、魔族は踵を返す。灰の帳が揺れて、影が薄れていった。

「庭師。切り離した二十メートルは、よい見晴らし台だ。大切に使うといい」


その夜、境目のそばにケースを埋めた。

場所を選んだのは、オズだった。貫かれた盾を黙って抱えて、「こいつが、いちばん長く立ってた場所だ」とだけ言った。


年配の女性は、長い言葉を言わなかった。土を一握り胸の上にかけて、「お疲れさまでした」とだけ言った。ハンスは声を殺して泣いていた。


カシアンは軽口ひとつ出ないまま、天を仰いでいた。クルトは、ケースの肩を叩いたときの重い手を、自分の手のひらで、静かに握りしめていた。


ティムは父の認識票を握ったまま動かない。リーナがその袖を引いて、小さな声で聞いた。


「ケース、お腹、もう貸してくれない?」

誰も、答えられなかった。


オズが、割れた盾の黒鋼を一枚、墓標の代わりに土へ立てた。三つ葉の彫りが、月明かりに浮かんでいる。


「貫かれるまでは、通さなかった」

鍛冶屋は、ぽつりと言った。

「俺の盾は、そこまではやったんだ」


夜が更けて、僕は井戸の縁に座っていた。

頭の中で、数字だけが回っている。


外縁二十メートル。剪定。見晴らし台。あの矢は、庭の中には入れなかった。


あの帯がなければ、魔族はあの距離まで近づけなかった。

僕が切った二十メートルだ。


「また、一人で計算してる」

隣に、フィオナが腰を下ろした。木椀は持っていない。

「……顔に書いてあった?」

「四度目」

「そうか」

「ユーリが背負う話じゃない、って言っても聞かないでしょう。だから言わない」


彼女は膝の上で指を組んだ。


「その代わり、話を聞いてほしいの」

「……今? 『全部終わってから』じゃ」

「うん。やめた」


静かな声だった。でも、指先がかすかに震えている。


「全部終わってからなんて待ってたら、言い損ねる人が出るかもしれないでしょう。……ケースさんみたいに」


胸の奥が、きゅっと鳴った。

「私ね、止められなかった。いつもそう。もっとできたんじゃないかって思うの。私の目が、本当の意味で使えていたら、って」

「本当の、意味」


フィオナは少しだけ息を吸った。


「エルゼルトはね、ベレー家の分家の名前なの」

一拍、意味が入ってこなかった。

「……ベレー。宰相の?」

「エルゼ・アマデウス・ベレー閣下は、祖父の兄。祖父は若い頃に本家から分かれて、『エルゼに連なる者』という意味でエルゼルトを名乗ったの。私から見れば、大叔父」


大火の中で膝をついた、あの名宰相。帝国が死んだ日の、象徴。


「ベレーの家にはね、代々、魔力の流れが見える目を持つ人が生まれるの」


彼女は、自分の目元に指を添えた。


「本家は、それを剣に使った。相手の魔力の流れを読んで、振り出す前に斬る。大叔父様が『剣の境地』と言われたのは、そういうこと。分家は剣より、植物や水の流れを読むほうに寄った。……私の魔術、年の割に出来すぎてると思わなかった?」

「思ってた。ずっと」

「種を明かすと、それだけなの。川を見るか、斬る相手を見るか。同じ目の、使い方の違い」


ああ、そうか。

欠片の割れ目の先を辿れた理由。魔族の渦の核を見つけた理由。残穢まで読める、突出した才能。全部が、一本の線で繋がった。


「どうして、黙ってたの」


聞いてから、答えは分かっていた。それでも、聞いた。


「首都が落ちたとき、エルゼの名前は『帝国を守れなかった家』の名前になったわ」


フィオナは笑おうとして、失敗した。


「街道で、大叔父様を呪う声をたくさん聞いた。名乗っていたら、一緒にいた子供たちまで石を投げられたと思う。……でも、それだけじゃない」


彼女が、僕のほうを向く。緑の瞳が月明かりに揺れていた。


「ここに来てから、ずっと怖かったの。役に立てなかったらどうしようって。でも、もっと怖かったのは、言った瞬間に『ベレーの人』としてしか見てもらえなくなること。『大した話じゃないかも』なんて言ったけど、あれ、嘘。私には、いちばん大きな話だった」


しばらく、井戸の底の水の音だけがしていた。

何を言うべきか考えて、そして、考えるのをやめた。


「あのさ」

「うん」

「僕、君を雇うって決めたの、名前を聞く前だったんだ」

「え?」

「君が気を失ってる間に。決め手は、指先が緑だったことと、僕の糞の庭を『綺麗』って言ってくれたこと。それだけ。家柄は、雇用条件に書いてない」

「……書いてないの?」

「書いてない。ちなみに僕の前世の履歴書は、もうちょっと寂しかった」


フィオナの口の端が、ぴくりと動いた。


「ベレーでも何でもいいよ。ファイアボールを迷わず撃ったのは、フィオナの指だった。隣で川を見てるのも、ベレーの目じゃなくて、フィオナの目だ」


言い終えてから、顔が熱くなった。スキルに心拍数が出ないのは、本当にありがたい。


「……ずるい」

「それ、もう何回目だよ」

「ずるいんだもの」


彼女は顔を伏せた。肩が小さく震えている。泣いているのか、笑っているのか、今度は分かった。たぶん、両方だ。


それから顔を上げて、言った。


「あの人、私を見て『その目か』って言ったでしょう。魔族は、ベレーの目を知っているのかもしれない。もし狙われるのが私なら——」

「却下」

「まだ言い終わってない」

「却下。一人で抱え込まないって約束しただろ。お互い様だったよな」


彼女は目を丸くして、それからふわりと笑った。


「そうだね」


だけどやっぱりその顔は泣きそうだ。僕は思わず手を伸ばして———


今日重ねたのは、手のひらだけではなかった。


やわらかい感触が、少しだけ唇に残っていた。




夜明け前、僕はケースの墓の隣に、針葉樹の苗を一本植えた。


あの日、一人で植えた苗は、昨日の剪定で朽ちた。これは、残っていた最後の予備の一本だ。


柄尻の三つ葉に、親指を当てる。


「待つのが手柄だって、言いましたよね」

返事はない。分かっている。

「だったら、今度は僕が待つ番です。二十メートル、必ず取り戻します」


数字は、まだ九十二%のまま動かない。三日。いや、二日で。


灰色の帯の向こうで、何かが静かに、こちらを見ている気がした。


見晴らし台は、くれてやらない。

刈られたものは、植え直す。今度は、刈り取れないほどに。

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