第十三話:夜明けの黒い糸
魔族が灰の向こうへ消えてから、一時間。
僕たちは窪みの縁に集まって、作戦会議を開いていた。会議と言っても、半分は「生き残るための悪あがき会議」だ。
残っているのは、動ける面々だけ。クルト、カシアン、ケース、オズ。
ハンスは槽へ堆肥を足す係を買って出て、百人を超える人々は、年配の女性の号令で館へ引き上げていった。
領主様は「私も戦う」とクワを握って粘ったらしいが、彼女の一喝で即終了だそうだ。賢明な判断だと思う。
「整理するよ。あいつの手札は四枚だ」
指を折る。
「一、速い。二、地面の魔力の変化から、根の動きを読む。三、魔気で根を枯らす。四、一度見せた手は二度と食わない」
「多すぎるだろう」
カシアンが肩をすくめた。
「こっちの手札は、根と剣と気合だけだぜ」
「気合は数に入れません」
「入れろよ。一番在庫が余ってる」
笑い声が起きかけて、すぐに萎んだ。笑っていい状況じゃないことくらい、全員が分かっている。
「ただ、こっちにも向こうにない札が一枚ある」
僕は足元の土を指さした。
「この庭だ。さっき、あいつが一歩踏み込んだだけで、魔気の数字が落ちた。庭は、あいつの魔気まで土に還す」
「流れも、そこで止まったの」
隣のフィオナが、小さく頷く。
「吸われるとき、足元でつっかえるみたいに。一瞬だけだけど、隙になると思う」
「庭の中で戦わせる、ということか」
クルトが腕を組んだ。
「そう。でも、あいつも分かってる。分かった上で、さっきは引いたんだ」
「なら、入ってくる理由を作ってやるしかないな」
ケースがぼそりと言った。話が早くて助かるなあ。
「理由は、陣だよ」
窪みの底、石板の欠片が白く埋まった中心を見下ろす。
「小都市で壊し損ねた陣を、あいつは覚えてる。完成したものが目の前にあれば、壊しに来る。壊すには、ここまで入ってくるしかない」
「入ってきたとして、だ。根で絡める手は、もう通じんぞ」
「通じなかった理由は、枯らされたからでしょう? で、枯らすには魔気がいる」
フィオナが、はっと僕を見た。
「庭の中で枯らし続けたら……?」
「そういうこと。庭の中で根を枯らせば、あいつの魔気は普通よりずっと速く吸われる。……はず」
「はず、か」
「仮説だよ。実物で確かめないと」
「聞き覚えのある台詞だな、それは」
クルトの口の端が、わずかに上がる。そういえば、起きてたんだっけ、あの夜。
彼は腰の剣に目を落とした。
魔族から拾った、黒い柄に白刃の剣だ。
「こいつはどうだ」
「あいつの黒い魔力も、斬れるはずよ」とフィオナ。
「同じ素材だから、斬り口が澱まないの」
「奴の剣で、奴を斬るのか。悪くない」
舟を漕いでいたオズが、がばっと顔を上げた。
「で、俺のスコップは役に立つのか」
「立ちます。たぶん、一回だけ」
「一回かよ」
「盾にもなるぞ」
オズがにやりと笑う。
「そのために黒鋼にした。お前の細腕でも、一度くらいは止めてくれる」
「細腕は余計です」
「あとは場所だ」
窪みのすぐ脇を指さす。
「あそこに土を盛る。高さは三メートル。僕が上から根を操る」
「高所を取るのか」とクルト。
「お前の理屈なら、そうなるな」
「そう思わせるのが狙い。あいつは僕の弱点を知ってる。高い場所にいる庭師を、まず落としに来るはずだ。だから、盛り土は一番太い根の真上に作る」
「庭の心臓の、すぐ上か」
「吸い口の真上に立たせるようなものさ。吸われ方が、他とは比べものにならない」
「で、私は隣ね」
フィオナが、当然のように言った。
「うん。あいつの核を狙えるのは、魔力の川が見える君だけだ。渦の中心を、見失わないで」
「……うん。絶対に、見失わない」
沈黙が降りた。作戦と呼ぶには、あまりに綱渡りだ。分かっている。分かっていても、これしか手がない。
「寝て」
フィオナが、ぴしゃりと言った。
「二時間でいいから。一番頭を使うのは、あなたでしょう」
「でも、数字を——」
「槽の見張りは、ハンスとオズが交代でやるって。ほら、寝て」
……だめだ。魔族より手強いのは、やっぱり本当だった。
盛り土は、スキルで根ごと持ち上げて、一時間ほどで形にした。
真下には、庭で一番太い主根が通っている。僕はその天辺に毛布を敷き、手を土に置いたまま横になった。
夢の中でも、数字が増えたり減ったりしていた。職業病もここまで来ると、立派なものだと思う。
「ユーリ」
肩を揺すられて、目が覚めた。
空が白んでいる。灰の雲の裾が、うっすら紫に染まっていた。
降る灰は、夜半よりだいぶ薄い。中心の数字は六十一%。槽も、どうにか持ちこたえたらしい。
「来た」
フィオナが声を潜める。彼女の指は、もう僕の手の甲に触れていた。数字の隣に、青い川が流れ出す。
庭の外縁、南西。ほぼ百%の点が、灰の中にひとつ。
……ちゃんと夜明けに来るんだなあ。律儀な敵だ。
黒い甲冑。人間より長い手足。左手首から先では、黒い靄が揺れている。脇腹の傷は夜より少し塞がっているけれど、まだ生々しい。
魔族は、生垣の手前で足を止めた。猛毒の茨の向こう側。さっきと同じで、踏み込んでこない。
「約束どおり、来てやったぞ、庭師」
「ご丁寧にどうも。お茶は出ませんけど」
「要らん」
魔族が、右手を上げた。
空気が、ずしりと重くなる。耳の奥で、きん、と音が鳴った。
黒い霧が、掌から溢れる。
津波だった。音もなく庭の外縁を舐めて、茨に触れる。
触れると三日は腫れが引かないはずの猛毒の茨が、ひと呼吸で黒く崩れ落ちた。
泥棒除けには最高だったのに、魔族相手では役者不足だったらしい。
数字が跳ねる。六十六、七十三、八十一。外縁の畑が、端から黒ずんでいく。土の匂いが、焦げた鉄の匂いに変わった。
「踏み込む前に、土を殺しておく。……そう来たか」
「昨夜学んださ、あまり私を舐めない事だな。お前の庭が飲み込める量には、限りがあることくらい、すぐ看破できる」
バレてる。さすがだ。四十%のあたりで僕が青ざめたのを、この魔族はしっかり見ていたらしい。
「ユーリ!」
「分かってる!」
八十五。八十九。数字が赤い。槽はまだ持つ。でも、外縁から魔気が流れ込み続ければ、心臓まで届いてしまう。
悩んでいる時間は、ほとんどなかった。守るだけの庭は、食い潰される。それなら——
「剪定する!」
盛り土の上で、両手を地面に叩きつけた。
「外縁二十メートルの根を、切り離す! フィオナ、血管を締めて!」
「うん!」
指先から、手応えが逃げていく。外縁と中心を結んでいた根の網が、ぷつん、ぷつんと切れていく感触。
くそ……
育てた作物。植えたばかりの針葉樹。あの日、一人で植えた苗も、その中にある。
ごめん。必ず、植え直すから。
黒い霧が、切り離された外縁をまるごと呑み込んだ。外縁の数字は九十二で止まる。中心側は、六十四%のまま。持ちこたえた。
「……剪定、か」
魔族が、口の端を上げる。
「いい判断だ。だがその分、庭は小さくなったな」
「小さい方が、数字は読みやすいんですよ」
強がりだ。でも、口に出すと、少しだけ本当になる気がした。
魔族が、枯れた茨の跡を悠然と踏み越えた。
その視線が、一瞬だけ、北西の灰空へ流れる。急いでいるのか、何かを待っているのか。
……いや、考えるのは後だ。
右手に、黒い魔力が剣の形を結んだ。数字が動く。九十九、九十七、九十四。足元から、黒い魔力が土に吸われていく。
「前衛、迎え撃て!」
クルトの号令で、カシアンとケースが左右から飛び出した。
ケースの大盾が、魔族の剣を受ける。
ガン、と腹に響く音。盾が見る間に凹み、巨体が三歩ぶん押し戻された。
「……っ、重ぇな!」
「受けないで、流して!」
自分でも驚くほど、声が裏返った。
魔族は、あの廃墟のときと同じ速さだった。カシアンの刃が、空を切る。返す二の太刀も、見えていたみたいに流された。次の瞬間には、軍靴が彼の腹にめり込んでいる。
「ぐえっ」
カシアンが、土煙を上げて転がっていった。
「生きてるな!?」
「生きてる……たぶん……!」
軽口が返ってくるうちは、大丈夫だ。大丈夫なはずだ。
そこへ、クルトの剣が走った。黒い剣と噛み合って、ぎぃん、と歯が浮く音が鳴る。火花は散らない。かわりに、黒い粉が雪みたいに舞った。
「……ほう。私の剣か」
魔族の目が、愉快そうにも不快そうにも細められる。
「返してもらうとしよう」
「断る」
クルトが、押し返した。あの廃墟では一撃で弾かれたのに、今日は半歩、踏みとどまっている。
魔気に近い剣は、魔気を斬る。フィオナの読みは当たっていた。
……あとは騎士様の腕に、全部の賭けがかかっている。頼むよ、本当に。
魔族の周囲で、黒い魔力が渦を巻いた。
走らせていた三本の根が、まとめて黒ずんで、崩れる。
数字が落ちた。九十から、七十八へ。たった三本で、十二%。
仮説、的中。……なんて、浮かれている暇はない。
「まだだ! もっと出す!」
左、右、後ろ、前。囮の根を、片っ端から地面に走らせた。見えやすく、読まれやすく。枯らされる前提の、安い根ばかりだ。
一本、枯らされる。七十二。
もう一本。六十九。
魔族が、自分の掌を見た。黒い靄が、さっきより薄い。
「……なるほど。枯らすたびに、持っていかれる量が増えるのか。面白い設計だ」
「気づくの、早すぎません?」
「ならば、枯らさぬまでだ」
次の瞬間、魔族が消えた。
——いや、走り出したのだ。囮の根には一本も触れず、一直線に窪みへ。陣へ。
速い。速すぎる。クルトが振り返ったときには、背中がもう三メートル先だ。
「止めろ!」
誰かが叫ぶ。止まらない。六十二、五十九。数字は削れていくのに、足だけが鈍らない。胃が、冷たくなる。僕の読みが外れていたら——陣は——
違う。
窪みの縁で、魔族の足が止まった。石板の欠片が白く光る中心を、一瞬だけ見る。そして、その視線がすぐ脇の盛り土へ、僕へ、移った。
「庭師。お前を先に落とそう」
……来た。読みどおりだ。心臓が口から出そうだけど。
隣で、フィオナが息を呑む気配がした。
魔族が、跳んだ。
世界が、遅くなる。
灰が、ゆっくりと裂けていく。軍靴の底の泥が、一粒ずつ見えた。三メートルの高さが、こんなにも長い。
着地。
数字が、落ちた。
五十八。四十四。三十六。
吸い口に刺さったみたいに、魔気が一息で抜けていく。
「……なに?」
魔族の動きが、止まった。ほんの、一瞬だけ。
その一瞬の後で、黒い剣が、僕の首へ走った。
考える余裕なんてなかった。スコップを横にして、掲げる。
——ガキン!
衝撃が、骨まで突き抜けた。奥歯が痺れて、視界が白く弾ける。
黒い剣は、僕の目の前で止まっていた。黒鋼の刃が、悲鳴みたいな高い音を長く引いている。
腕が千切れそうだ。膝が笑う。
それでも、折れない。重心が、手のひらの真ん中にすとんと落ちている。
……オズさん、あなたは本当に天才です。
「一回だけって、言いましたよね」
「……庭師が、私の剣を止めるとは」
「止めたのは僕じゃなくて、スコップです」
三十六%。魔族の剣の輪郭が、陽炎みたいに揺らいだ。黒い魔力でできた剣は、魔力が減れば形を保てない。
左手首の靄が、鞭みたいにしなって、僕の脇腹を狙った。
——が、盛り土が先に動いた。根が靄を絡め取る。靄は、土に吸い込まれて消えた。
「枯らせ——」
魔族が足元へ魔気を放つ。けれど、盛り土の根は、黒ずまなかった。枯らせない。魔気が、足りないのだ。
「……なぜだ」
「枯らすぶんの余りが、もう残ってないんですよ」
盛り土の中から、太い根が噴き上がった。魔族の足首へ、膝へ、腰へ。あの廃墟ではあっさり斬り払われた根が、今日は一本も断たれない。
「フィオナ!」
「脇腹の傷! そこから、渦が漏れてる!」
彼女の目には、見えている。黒い魔力が渦を巻く、その核が。
フィオナの両手が、魔族へ向く。至近距離。二メートルもない。
「——ファイアボール!」
あのときと同じ、野球ボールほどの火球。でも、あのときと違って、撃つ瞬間に迷いがなかった。もう、指は固まらなかった。
熱が、頬を撫でた。焦げた匂い。火球は、魔族の脇腹の傷へ、まっすぐ吸い込まれていく。
「ぐ……っ!」
初めて、魔族が呻いた。黒い血が噴いて、胸の渦がぐらりと乱れ、核が剥き出しになる。
「クルトさん、胸の真ん中!」
足音が、斜面を駆け上がってくる。三歩。二歩。
「分かっている!」
白刃が、魔族の胸の中心を貫いた。魔族自身の剣で。
静寂。
風だけが、灰を巻いて通り過ぎた。
魔族は、倒れなかった。白刃を胸に生やしたまま、右手が伸びて、僕の襟首を掴む。
息がかかる距離。意外にも、人間みたいな目をしていた。
「見事な、庭だ」
かすれた声。
「……だが、言ったはずだ。私一人では、ない、と」
黒い瞳が、僕の肩越しに、北西を見た。
「灰の向こうには、まだ——」
指から、力が抜けた。
黒い甲冑が、ほろりと崩れる。黒い粉が舞って、盛り土の上に降り積もった。
静かだった。
さっきまでの金属音も、地鳴りも、嘘みたいに消えていた。自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえる。耳鳴りの向こうで、風が灰を巻いていく。
盛り土の天辺には、黒い粉が降り積もっていた。ふかふかの、黒い土になって。
手を伸ばして、ひと掬いしてみる。……温かい。庭のどの土より、柔らかかった。
「……土に、還った」
カシアンが、呆然と呟いた。
誰も、すぐには動けなかった。勝ったのだと体が理解するまで、数十秒はかかったと思う。
育ったものを刈るのが一番面白い、と彼は言った。刈られる側の気持ちは、少しは分かってもらえたかな。
最初に動いたのは、クルトだ。
剣を引き抜いて、盛り土の斜面にどさりと腰を落とす。白刃を見つめる手が、小刻みに震えていた。
「……重かった」
ぽつり、と言う。
「団の皆の傷は、この剣の幅だった。……やっと、返せた」
誰も、何も言わなかった。言えなかった。カシアンが、そっと彼の肩に手を置く。軽口ひとつ叩かないのが、あの男なりの敬意なのだろう。
朝日が、灰の雲の裾を薄く染めた。
最初に歓声を上げたのは、ハンスだった。
「やりやがった! ユーリ、お前ら、やりやがった!」
空のバケツを抱えたまま、泥だらけの顔で駆けてくる。途中で転んで、起き上がって、また走って、最後は声が裏返っていた。
その後ろから、鉄槌を担いだオズが、がははと笑いながら歩いてくる。
ケースは凹みきった大盾を掲げて「直してくれ」と押しつけ、「任せろ」と請け合うオズの声が、やけに弾んでいた。
カシアンは大の字に寝転がって「疲れた。腹が減った。酒が飲みたい」と、順番に不満を並べている。
生きている。全員、生きている。
館の窓には、小さな頭がふたつ並んでいた。ティムとリーナだ。ちぎれそうなほど、手を振っている。
……あとで、思い切り褒めてあげよう。
「間に合わなかったか!」
息を切らして走ってきたのは、クワを握りしめた領主様だった。
「領主様、そのクワは、土を耕すためのものですよ」
続いて現れた年配の女性が、有無を言わせぬ声で言う。
「怪我人が先です。感傷は、そのあとです」
一言で、全員が背筋を伸ばした。歴戦の猛者も、領主様も、形なしだ。
僕は、盛り土の上に座り込んだ。膝が、まだ笑っている。スコップは、右手に握ったまま。いや——握ったまま、離れない。指が柄に貼りついたみたいに、開かなかった。
「ユーリ」
斜面を登ってきたフィオナが、僕の前にしゃがむ。
灰で汚れた頬。ほどけかけた髪。唇を、きつく噛んだまま。目の縁が赤かった。泣いてなんかいません、と言い張りそうな顔だ。
「……指、開いて」
「開かない」
「でしょうね」
彼女は、柄を握りしめた僕の指を、一本ずつ、そっと剥がしていった。冷たい指先。
小さく震えているのは、僕の手か、彼女の手か。分からない。
最後の一本が外れたとき、フィオナの肩から、すとんと力が抜けた。
「……怖かった」
消え入りそうな声だった。それから、無理に笑ってみせる。口の端だけが上がって、目は笑えていない。
「怪我してない?」
「なんとか。……かなり疲れたけど」
「よかった」
僕はスコップを、軽く掲げてみせた。
「ちゃんと持って帰ってきたよ。スコップも、僕も」
フィオナの睫毛が、ふるりと揺れた。ふっと目を細めて、それから、小さく言う。
「……おかえりなさい」
胸の奥が、じんと温かくなった。心拍数が数字で出なくて、本当によかったと思う。
彼女の頬に、灰が一筋ついている。気づいたら、手が伸びていた。親指で拭うと、くすぐったそうに、フィオナが首をすくめる。
フィオナの顔から灰色が取り除かれ、代わりに赤くなった。
「……なに」
「灰、ついてた」
「……ありがと」
目が合う。逸らされる。また合う。この沈黙を、どう扱えばいいのか分からない。魔族のほうが、まだ扱いやすかったよ。
「あのね、ユーリ」
彼女が、僕の手の上に自分の手を重ねる。
「井戸の縁で言ったでしょう。聞いてほしい話があるって——」
言いかけて、フィオナの瞳が、すっと僕の肩越しへ逸れた。
北西の空。その一点に、吸い寄せられるみたいに。重なった手が、びくりと跳ねる。顔から、血の気が引いていった。
「……糸」
「糸?」
「あの人の胸から、黒い糸が出てたの。死ぬ瞬間に。細くて、長くて、北西のほうへ……すうっと」
唇が、白い。
「切れてない。いまも、繋がったままなの。向こうの端を、誰かが握ってる」
数字に目を走らせる。帳簿には、何も映っていない。数字の届かない場所から、何かが、こちらを見ている。そういうことか。
そういえば魔族は特殊な連絡、伝達手段を持つって世界基礎でも……
足の裏に、ずん、と低い振動が来た。
一度だけ。遠雷にしては、短くて重い。
「……いま、引かれた」
フィオナの声が、かすれた。
「返事、みたいに」
風が止んだ。降りしきる灰が、空中で一瞬、静止したように見えた。
「あの人、最後に庭を見てたでしょう。……あの目を通して、向こうも、この庭を見たのかもしれない」
「……見られた、か」
「うん」
沈黙。重ねられた手が、冷たい。
フィオナは、唇を噛んでから、ふう、と細く息を吐いた。それから、顔を上げる。覚悟を決めるときの、あの目だ。
「やっぱり、全部終わってからにする」
「いいの?」
「『大した話じゃないかも』なんて言ったけど、あれ、嘘なの」
苦笑い。でも、今度は目も一緒に笑っていた。
「だから、ちゃんと全部終わってから話したい。途中でまた誰かが傷つくのは、嫌だから」
「……分かった」
重ねられた手を、握り返す。細い指が、ぎゅっと握り返してきた。
「何でも聞く。だから、一緒に終わらせよう」
「うん。約束ね」
「約束だ」
朝日が、盛り土を照らしている。
僕は、黒鋼のスコップをゆっくりと持ち上げて、魔族だった土に突き立てた。刈られるはずだった場所に、一本。
刈り手は、まだ来る。それなら、来るまでの間に、ここに何を植えるか、決めておくくらいの時間はあるだろう。
「……とりあえず、寝る」
「それが先よ」
肩に、こつん、と彼女の頭が預けられる。重みが、あたたかい。
灰の向こうで、何かが目を覚ましたとしても。




