第十二話:総力戦は、肥溜めから始まった
館の裏手にある巨大な肥え溜めは、僕が出ていったときより、さらに巨大になっていた。
縁までなみなみと満ちて、表面がかすかに波打っている。ちょっとした湖だ。しかも、ほかほかしている。
「……育ったな」「お前が毎日足せって言ったんだろうが」
ハンスが鼻をつまんだまま、胸を張った。
「今朝の時点で、溢れる寸前だった。館の使用人が三人、泣いた」「それは泣くよ」
夕日が館の屋根を赤く染めている。その下に、見慣れた顔が集まっていた。ハンス、クルト、カシアン、ケース、年配の女性。
オズは子供たちを預けてきたらしく、肩を回しながら立っている。領主様まで、泥だらけの外套のまま混ざっていた。
そして隣には、フィオナがいる。
僕は懐から石板の欠片を取り出して、手短に切り出す。
「明日の夕方、灰が来る。今のやり方じゃ、庭が持たない」
誰も茶化さなかった。
「数字で言うよ。この庭が中和できる魔気濃度の限界は、二十五%。明日の灰は、ピークで七十%を超える。三倍近い」「三倍……」「だから、庭を変える。この欠片と同じ理屈の陣を、地面に掘る。石に刻むんじゃない。溝を掘って、堆肥を詰めて、根を張らせる。庭師の仕事だ」
ハンスが天を仰いだ。
「……また掘るのかよ」「得意でしょう」「得意になっちまったよ、ちくしょう!」
くすくすと笑い声が起きた。クルトまで、口の端が動いている。
「材料は、あれだ」
僕は肥え溜めを指さした。
「全部使う」
領主様が、おそるおそる手を挙げた。
「……ユーリ君。あれは先代の頃から溜めてある、我が家の、その、歴史なのだが」「歴史は臭います、領主様」「……そうか」「そうです」「…………許可する」
がっくりと肩を落とした領主様の背を、年配の女性がぽんと叩く。
「立派なご判断ですよ」「慰めに聞こえん」
……この館の人間関係は、僕のいない間に、ずいぶん進んだらしい。
窪みは、夕闇に沈んでいた。
あの日「土が妙に湿っている」と呟いた場所に、今は石を組んだ井戸が一つ、ぽつんと立っている。
そのまわりの土に手を当てると、視界に数字が浮かんだ。
魔気濃度、一・二%。含水率、三十八%。……綺麗だ。灰の降る国の土とは思えない。
「含水率、三十八くらい?」
隣にしゃがんだフィオナが言った。
「……合ってる」「やった」「なんで分かるの」「水を含むと、流れが重くなるの。川の重さを、ユーリの言葉に翻訳しただけ」
得意げに口の端を上げる彼女に、素直に感心した。
「覚えが早いな。教え甲斐がある」「先生、次は?」「次は、地縄張りだ」「じなわ、ばり」
僕は杭と縄と、石灰の袋を取り出した。造園の第一歩。庭を造る前に、設計を地面に描く作業だ。
中心に杭を打って、縄を張る。縄の先から石灰を撒きながら、ぐるりと円を描いていく。
前世で何百回もやった作業だ。まさか、世界を救う陣の下書きに使う日が来るとは思わなかったけれど。
「元の陣は、直径五メートル。小さな畑を守るので精一杯だった。僕たちが守りたいのは、庭全部だ」「だから、陣は心臓にするのね」「そう。庭中に張った根を、血管にする。陣で吸い上げて、分解して、根を通して庭全体に流す」「できるの? それ」「……分からない。でも、できるって決めて動いたほうが、たぶん早い」
フィオナは石板の欠片を地面に置いて、目を閉じた。指先が、淡く緑にともる。魔力はまだ戻りきっていないはずなのに、その指は迷いなく溝をなぞっていく。
「流れが、ここで途切れてる」
欠片の割れ目で、彼女の指が止まった。
「でも、川は途切れたら海に出るでしょう? この先も辿れる気がするの。……ただ、細すぎて、はっきりとは見えなくて」「僕の数字なら、土の勾配は出せる。でも、流れの向きは君にしか見えない」「うん」「……二人でやるしかない、ってことか」
フィオナは少しだけ迷うように指を握って、それから顔を上げた。
「ユーリ。手を、貸して」「手?」「私が見てる川を、あなたに流してみる。……嫌だったら、やめるけど」「嫌じゃない」
即答してしまった。恥ずかしいくらいの即答だった。
フィオナの耳が、暗がりでも分かるくらい赤くなった。
「……じゃあ、目を閉じて」
重ねられた手のひらは、思っていたより冷たくて、小さかった。指先から、細い何かが流れ込んでくる。くすぐったいような、温かいような感覚。
……来た。
視界の数字の隣に、青い筋が走り出した。
帳簿の上に、地図が広がった。
土の中を、川が流れている。井戸の下には水脈が糸のように通っていて、窪みの縁へ枝分かれしながら広がっていく。
魔力が澱む場所は濁った灰色に、流れの強い場所は澄んだ青に。
世界の見え方が、一つ増えた。
「……こんなふうに、見えてたのか」「うん。ずっと」
声がかすれた。
これが、彼女の見ていた世界。僕の知らなかった、同じ土のもう一つの姿。
……ところで、僕のスキルが心拍数を数字で出さなくて、本当によかった。出ていたら、たぶん三桁を超えている。
「ユーリ、集中」「してる」「顔、ゆるんでる」
「ゆるんでない」「いーや?ユーリはわかりやすいな」
くすりと笑った気配が、重ねた指先から直接伝わってきた。
「ほら、ここ。見て」
彼女が示した先で、青い筋が欠片の割れ目を越えて、円の中心へ集まっていくのが見えた。渦を巻きながら、一点へ。そこで、ふっと流れが消えている。
「行き止まりじゃない。落ちてるんだ。受け皿の底に」「受け皿……使い切る場所」「ここに堆肥を詰める。槽を掘って」
視界の数字が勝手に計算を始める。流入量、分解速度、必要な容積。出た答えは、荷車三十台分。
「……肥え溜め、ほぼ全部だな」「領主様の歴史、なくなるね」「歴史は、世界を救う」
僕たちは顔を見合わせて、同時に吹き出した。笑いながら、手は離さなかった。
そこから先の夜は、記憶が一続きの音になっている。
シャク、シャク、シャク。土を掘る音。
その合間を縫って、遠くの小屋から槌の音が響いていた。カン、カン、カン。オズが炉に火を入れたのだ。
「門の外の連中が、来てる」
いつの間にか隣にいたハンスが言った。
「手伝わせてくれ、だとさ。鍬もバケツも、自分で持ってきてる。……どうする」「七人まで、って話はどうしたって言いたそうな顔だね」「言わねえよ。聞いてるだけだ」「全員、入れて」
僕は迷わなかった。
「今夜だけは、雇用じゃない。総力戦だ」
ハンスは一瞬だけ目を見開いて、それからにやりと笑った。
「……言うと思った」
門が開く。
泥まみれの人々が、列になって入ってきた。あの日、門を叩いていた人たちだ。
空の水筒を逆さに振っていた老人も、列の中にいた。今はその手に、スコップを握っている。
……ああ。
あの日、僕は門を閉める計算をしていた。今は、門を開ける計算をしている。同じ僕が、同じ数字を見て。
答えを変えたのは、数字じゃない。
「そこ! 腰を使いなさい、腰を! 手首で打つんじゃありません!」
闇の中から、年配の女性の怒声が飛んだ。
「は、はい!」「領主様、そこです。やり直し」「……やり直し」
あの領主様が、泥の中で素直にスコップを握り直していた。
ケースは馬たちを従えて、荷車を引かせている。
無口に、淡々と、一台、また一台。堆肥を積んだ荷車が、ひっきりなしに窪みへ向かっていく。馬の扱いが、驚くほど上手い。……あの人は、待つだけじゃなくて、運ぶ人でもあったのか。
カシアンは、バケツを担ぎながら歌うように文句を言っている。
「世界を救う仕事が、糞運びとはな。冒険者ギルドの依頼書にも載らないぞ」「載せればいいじゃないか。報酬は高めで」「危険手当、臭い付き」「臭い手当だな」
クルトは無言で、両手に堆肥のバケツを下げて黙々と往復している。僕と目が合うと、短く言った。
「……剣より重い」「似合ってますよ」「褒めているのか」「多少は?」
ティムとリーナは、年配の女性の足元で、小さなバケツから魔導アブラナの種を一粒ずつ撒いていた。
ティムは父親の認識票を首から下げたまま、真剣な顔で数を数えている。
世界が滅びる前の夜に、百人を超える人間が土を掘っている。数日前まで顔も知らなかった人たちが、同じリズムで、同じ穴を掘っている。
槌の音と、スコップの音が、いつの間にか重なっていた。
午前三時。
陣の輪郭は、ほぼ出来上がっていた。巨大な根の形をした溝が、窪みいっぱいに広がっている。
ユーリは庭を眺めながら佇んでいた。
そんな彼だが、寝不足で死にそうである。誰か助けて……
残りは、槽の仕上げと、庭中の根の接続。
「……ユーリ」
呼ばれて振り向くと、フィオナが木椀を手に立っていた。
「座って」「僕は、まだ——」「座って」
二度目だ。……逆らえた試しがない。魔族より手強いんだけど。
……まあいい。
井戸の縁に腰を下ろす。フィオナは隣に座って、匙で椀の中身をすくった。
「はい」「……自分で食べられる」「手、震えてる」
指摘されて、気づいた。膝の上で握っていた拳が、確かに小刻みに震えている。
……仕方ない。
「あーん、はやらないからね」「やらないで」「冗談です」
一口。温かい。薬草の青い匂いと、肉の出汁の匂い。あの日、僕が彼女に出したスープと、ほとんど同じ味がした。
「一口ずつ、ゆっくりね」「それ、僕が言ったやつ」「うん。お返し」
そうか。あの日、彼女は、こういう気持ちで僕を見ていたのか。……いや、違う。あの日の僕は、コスト計算の範囲内で出しただけだ。反省している。
「ねえ、ユーリ」「うん」「さっき『かなり疲れてる』って言ったでしょう」「……言ったね」「『少し』じゃなかった」
ほんの少し、誇らしげな声だった。
「嬉しかった」「何が?」「ユーリが、ちゃんと言ってくれたこと」
……僕の口癖を直すのは、庭の雑草を全部抜くより時間がかかりそうだ。でも、この調子なら、いつかは。
しばらく、二人とも黙っていた。井戸の底から水の音が聞こえる。遠くで、槌の音が続いている。
「私ね」
先に口を開いたのは、フィオナだった。
「ここに来てから、ずっと怖かったの。役に立てなかったらどうしようって。あの麦のことが、ずっと頭にあって」「うん」「でも、今は思えるの。少しは、役に立ててるって」「少しじゃない」
反射的に出た言葉だった。
「君がいなかったら、陣は始まってもいない。ここまで来られてもいない。少し、じゃない。……全部、だよ」
彼女の肩が、小さく揺れた。
「……ずるい」「またそんなこと言っちゃって」
「だって、本当にずるいんだもの」
そう言って、彼女は僕の肩に頭を預けた。
心臓が跳ねた。スキルに数字が出ないのが、本当にありがたい。
「全部、終わったら」
眠そうな声で、フィオナが言った。
「聞いてほしい話が、あるの。……大した話じゃ、ないかもしれないけど」
……前世の知識に照らして、かなり危険なフラグだ。
でも、茶化す気にはならなかった。
「いいよ。何でも聞く」「約束ね」「約束だ」
それきり、返事は寝息に変わった。
動けない。動いたら起こしてしまう。かといって、このまま朝まで、というわけにもいかない。
……詰んでる?
魔族からも生き残ったというのに、ここで?
だが、この詰みの盤面が僕の疲れを癒してくれていた。
少しして、年配の女性が毛布を持ってきて、無言で二人の肩にかけた。
「動くんじゃありませんよ」「……はい」
やはり詰みである。彼女にも逆らえないだろうな。
夜明けの少し前、槌の音が止んだ。
オズが、布に包んだ長いものを抱えて窪みへ降りてきた。目の下に、くっきりと隈が出ている。
「約束だ」
布が解かれる。
出てきたのは、一本のスコップだ。
柄はまっすぐな樫の木。刃は、鈍く光る黒鋼。無骨で飾り気がなくて、なのに、持ち上げた瞬間に分かった。
重さが、ちょうどいい。
重心が、手のひらの真ん中にすとんと落ちる。前の愛用品より、ほんの少し重い。でも不思議と、体が覚えている感覚に近かった。
「一晩で、よく……」「お前の手を見て、重心を決めた。マメの位置で握り方が分かる。職人は、手で仕事を覚えるもんだ」
オズが、少し照れくさそうに鼻を鳴らす。
「柄の端を見てみろ」
言われて、柄尻に目を落とした。
小さな葉の彫り込みがある。三つ葉の、クローバー。
「そいつは俺じゃない。そっちの嬢ちゃんの注文だ」「え」
隣で、フィオナがぱちりと目を開けた。いつの間に起きていたのか。
「……だって」
彼女はそっぽを向いた。
「ユーリが、また手放しても見つけられるように。……前科があるでしょう」「僕が失くす前提なの?」「前科、あるもの」
ぐうの音も出ない。
「ありがとう」
柄尻の小さな三つ葉を、親指でなぞる。
「大事にする」「ちゃんと、持って帰ってきてね」
……それは、今までで一番重い約束かもしれない。
朝から昼まで、僕は庭を歩いた。
一歩進むごとに、地面に手を置く。
魔導アブラナの根と根、薬草の根と根、防風林の針葉樹の根。バラバラに生きていたものを、地中で一本ずつ繋いでいく。
隣には、いつもフィオナがいた。
彼女の指先が僕の手の甲に触れているあいだだけ、青い川が視界に流れ込む。帳簿と地図を重ねながら、根の向きと魔力の通り道を、一つずつ揃えていく。
「右の列、澱んでる。もう少し深いところで繋いで」「了解」「そこ、通り道が細い。……そう、いい」
手を繋いで庭を歩く二人を見かけたカシアンが、口笛を吹いた。
「デートか?」「仕事です」「仕事、です」
揃って否定して、揃って顔を背けた。カシアンの笑い声が、庭中に響いた。うるさいなあいつ。
昼過ぎ、最後の根を繋いだ。
庭全体が、一枚の網になった。足元の下で、無数の根が静かに脈打っている。
「……繋がった」「繋がったね」
膝が、がくりと折れた。
「ユーリ!」「大丈夫。少し……いや、かなり疲れただけ」「よし」
支えてくれる彼女の声が、満足そうだった。言い直したのを、褒められた気分だ。
夕方。
空の色が変わった。
オレンジ色の夕焼けの端から、灰色の布を引くように雲が広がっていく。風が止まって、鳥の声が消えた。
南西の空が、世界の終わりのように暗くなっていく。
窪みの陣のまわりに、人が集まっていた。
百人を超える人々が輪になって、土の上に膝をついている。年配の女性。領主様。ハンスとクルト。カシアンと冒険者たち。ケース。オズ。そして、ティムとリーナ。門の外から来た人々も、同じ輪の中にいた。
陣の中心には、石板の欠片が埋まっている。そのまわりの槽には、荷車三十台分の堆肥が湯気を立てていた。
僕は輪の真ん中に立って、みんなを見渡した。
「手を、土に置いてください」
声は、思ったより震えていなかった。
「力は要りません。魔力を、ほんの少し流すだけでいい。一人じゃ全然足りない。でも、みんなでなら」
誰も笑わなかった。誰も聞き返さなかった。
百を超える手が、土に触れた。
最初に淡い緑の光が灯ったのは、ティムの小さな手の下だった。それがリーナに、年配の女性に、ケースに、広がっていく。手の下から溝へ、溝から中心へ。光の筋が、根の形を描きながら走っていく。
石板の欠片が、白く輝いた。
「来る」
フィオナが、僕の手を握った。
その瞬間、世界が一つになった。
帳簿と地図が、完全に重なっている。魔気濃度、含水率、根の位置。それに、魔力の流れ、澱み、渦。何もかもが、一枚の絵として視界に広がった。
灰は、すでに降り始めている。
雪のように、音もなく空から舞い落ちてくる。魔気濃度、四%。九%。十八%。庭の端で、灰が土に触れた瞬間、黒い粉がほろりと崩れて、土に変わっていく。
いける。
「右の列、流れが弱い! ハンス、もう少し!」「お、おう!」「左、澱んでる! おばさん、そこ!」「はいはい!」
フィオナの声が、夜の窪みに凛と響く。彼女は陣の中心に立って、百人を超える魔力の流れを、一人で指揮していた。
魔力はほとんど残っていないのに。見えているというだけで、これほど強い。
僕は足元で、庭中の根を操る。彼女の声に合わせて、根の太さを、向きを、深さを調整する。言葉はいらなかった。数字と川が、同時に同じことを教えてくれる。
二十五%。
限界を超えた。庭の外縁で、黒い粉が土に還りきらずに積もり始めている。
三十%。三十五%。
「ユーリ!」「……分解が、追いつかない!」
数字が、赤く染まっていく。
陣に流れ込む魔力は足りている。足りないのは、中心の槽だ。吸い上げた灰を作り変える速度が、降ってくる量に負けている。
四十%
手のひらに、嫌な汗が滲んだ。
槽は満杯だ。堆肥の量は、計算通りのはずだ。なのに、なぜ。
……量だ。僕は、量しか見ていなかった。
シゴデキが聞いて呆れる。必要なのは、量じゃない。分解する力——
「ハンス!」「なんだ!」「肥え溜めの底だ! 先代の頃から寝かせてある、一番古い層! あそこに、分解する連中が、桁違いにいる!」
ハンスが、目を見開いた。
「……歴史の層じゃねえか!」「そうだ! 歴史だ! バケツリレー! 今すぐ!」
領主様が、バケツを握りしめたまま、固まっていた。
「我が家の、歴史が……」「世界を救うんです、領主様!」
一瞬の沈黙のあと、領主様は、がばっと顔を上げた。
「……使え!! 一滴残らずだ!!」
その声が、号令になった。
「聞こえたな! バケツ持て!!」
クルトが真っ先に走り出した。カシアンが続き、冒険者たちが続き、領主様が先頭でバケツを抱えて駆けていく。ケースが荷車を引く。
オズが、あの巨体で一度に四つのバケツを運ぶ。年配の女性が、列の先頭で指示を飛ばした。
「そこ、こぼさない! 次!」
世界が滅びかけている。空は灰で覆われて、昼が夜に変わりかけている。
その下で、百人を超える人間が一列になって、糞尿の入ったバケツを手から手へ渡していた。
……歴史に残るんじゃないだろうか。世界史上、最も臭い総力戦として。
最初のバケツが、槽に傾けられる。黒く熟した古い堆肥が流れ込む。陣の中心が、ごぼり、と音を立てた。
視界の数字が、動いた。
四十。三十八。三十二。
「落ちてる!」「まだ! もっと!」
二十五。二十。十五。
灰は降っている。けれど、庭に触れる端から、黒い土に変わっていく。ほろり、ほろりと崩れて、足元に、ふかふかの黒い土が積もっていく。
九。五。三。
一・二%。
僕の庭の、普段の数字だ。
灰の降る空の下で、庭の緑は、一枚の葉も枯れていなかった。
しん、と静まり返った。
誰かが膝をついた。誰かが泣いた。領主様が、空になったバケツを抱えたまま、天を仰いでいた。
「……土に、なってる」
ティムが、掌に降った灰を見つめて呟いた。
「灰が、土に、なってる」
世界の終わりが、肥料になった。
その声が歓声に変わるまで、そう時間はかからなかった。
ハンスがクルトに抱きつき、クルトが「離せ」と呻きながら、それでも離さなかった。
カシアンは腹を抱えて笑い、ケースは無言で拳を握り、オズが、がはは、と笑っていた。年配の女性が、服の端で目元を拭っていた。
僕の膝が、がくりと折れた。
「ユーリ!」
フィオナが、倒れかけた僕を支えた。背中に回された腕は、震えていた。
「……やったな」「やった、ね」「間に合った」「みんなで、ね」「うん。みんなで」
彼女が顔を伏せた。肩口に、温かいものが落ちた。
「私、ちゃんと、役に立てた?」「ちゃんと、じゃない」
僕は、彼女の頭にそっと手を置いた。
「君がいたから、できたんだよ」
そのときだった。
視界の端で、数字がひとつ、跳ねた。
庭の外縁、南西。魔気濃度が、ほぼ百%の点が一つ。
灰の中を、ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。
「……フィオナ」「うん。見えてる」
彼女の手が、僕の手を強く握り直した。
歓声が、一人ずつ消えていく。
灰の帳の向こうから、黒い影が歩み出た。
黒い甲冑。人間より長い手足。左手の手首から先には、黒い靄が揺れていた。脇腹には、まだ癒えきっていない傷。
それでも足取りは、少しも乱れていなかった。
見覚えのある顔が、そこにあった。
「……見事なものだ」
魔族は庭の縁で足を止めて、静かに言った。
「灰を土に変えるとはな。小都市で壊し損ねた陣の欠片を、糞で完成させるとは。人間は、面白いことを考える」
声が出なかった。
あれだけ頭の中で考えていたのに、喉の奥がからからだ。
魔族の足が、庭の土に触れた。
その瞬間、足元から黒い魔力が、じわりと土に吸われていった。灰が黒い土に変わり、魔族の靴の下でほろほろと崩れる。
魔族は足元を見下ろした。
「……ほう」
初めて、その顔から笑みが消えた。
「私の魔気まで、土に還すのか」
数秒の沈黙のあと、魔族はゆっくりと足を引いて、庭の外の灰の地面へ戻った。
「今宵は、挨拶だけにしておこう」
黒い魔力が、彼の周囲で渦を巻いた。
「夜明けに、また来る。それまでに、せいぜい庭を育てておくといい。——育ったものを刈るのが、いちばん面白い。……それと、敵が私一人だとはゆめゆめ考えぬことだな」
灰の帳が揺れて、影が消えた。
後には、降り続ける灰と、土に変わっていく黒い粉と、凍りついた百人余りの人々が残った。
誰も動けなかった。
僕は、まだ震えている右手を見下ろした。そこには、新しいスコップがある。柄尻の小さな三つ葉が、親指に触れていた。
「……ユーリ」「うん」「少しじゃなく、怖かった」
フィオナが、小さく言った。
「私もだよ」
僕は笑った。引きつった、情けない笑いだった。でも、確かに笑えた。
夜明けまで、あと八時間。
育ったものを刈るのがいちばん面白い、と魔族は言った。
ならば、育てるだけだ。
刈り取れないほどに。
僕は、新しいスコップを地面に突き立てた。
——ここは、僕の庭だ。




