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第十一話:庭師は、滅びの先に種を蒔く

「じゃあ、最初の授業ね」


夜の街道を走る馬の背で、フィオナが言った。


「……今から?」「眠れないんでしょう。なら、約束の続き」「僕、眠れないって言ったっけ」「顔に書いてあった」


三度目だ。僕の顔は、いつからこんなに読みやすい掲示板になったんだよ。


「質問です。ユーリは、土をどうやって見てるの?」「どうやってって……」


手綱を握ったまま考える。説明しろと言われると、これが意外と難しい。呼吸の仕方を教えてくれ、と頼まれているようなものだ。


「数字が出るんだ。魔気の濃度、含水率、根の位置。視界の端に、帳簿みたいに並ぶ」「帳簿」「そう。土が全部、帳簿になる。ちなみに前世の僕は、帳簿が好きだった」「……それは、なんとなく想像できます」


背中で、くすりと笑う気配がした。


「私のは川。魔力は流れていて、澱んだり、ぶつかったり、渦を巻いたりするの。地図を眺めてる感じかな」「僕は帳簿で、君は地図か」「同じ土を、別の言葉で見てるのね」


言われて、はっとした。

同じものを見ているのに、僕たちは互いの言葉を知らなかった。それでも魔族との戦いで噛み合ったのは、運が良かっただけかもしれない。


……運頼みの計画は、シゴデキとしては落第だ。


「じゃあ、翻訳しよう。君の川と、僕の帳簿を」「うん。まず、帳簿の読み方から」「いきなり難関だな。第一課は『含水率』から」「がんすい、りつ」「水がどれだけ含まれてるか、ってこと」「それなら、川のほうが得意かも」


そこから先は、夜明けまで、土の話ばかりしていた。世界が滅びかけているというのに、僕たちは含水率の話で盛り上がっている。たぶん、どこかが壊れている。悪くない壊れ方だ。


空が白み始める頃、馬の息が荒くなってきた。涸れた小川の跡で、少し休ませることにする。


カシアンは鞍にもたれて目を閉じ、ケースは黙々と馬の脚を確かめている。二人の冒険者は、座った瞬間に寝た。早い。


クルトだけが、剣に手を置いたまま周囲を見張っていた。

僕は懐から、石板の欠片を出した。


「ねえ、ユーリ。その溝」

隣に座ったフィオナが、指先を伸ばす。まだ、かすかに震えていた。

「どこかで見たことない?」「どこかって……」


夜明けの薄い光に、欠片をかざす。細い溝が、枝分かれしながら一点へ集まっていく。太い溝から細い溝へ、さらに細い溝へ。下へ、下へ。


「……根だ」


声が、勝手に出ていた。


「主根から側根、側根から根毛。吸い上げるための形だよ。これは、根の張り方そのものだ」「下から魔力を吸い上げて、円の中に閉じ込める作り……根と、同じ」「うん。吸い上げる部分は完璧だ。でも、根は吸い上げて終わりじゃない」「終わりじゃない?」「吸い上げたものを葉や実に運んで、別のものに作り変えて、使い切る。この陣には、その先がない。欠けてる三分の一は、たぶんそこだ」「使い切る、場所……」


フィオナが呟いたところで、馬が嘶いた。休憩は終わりらしい。


あと少しで掴めそうなのに。喉まで出かかったくしゃみが、引っ込んでいくような気分だった。


足跡の主に追いついたのは、その日の午後だ。

クルトが馬を止め、地面を見下ろす。


「歩幅が詰まってきている。相当、疲れているな」「ここ、荷を下ろしてる」


ケースが、道の脇を指した。


「四角い跡だ。箱か、何かの台だな」「それに、小さな足跡が混じり始めた」


カシアンの声から、いつもの軽さが消えていた。


「……子供だ。二人分」


魔族の足跡じゃなかった。ほっとするより先に、胃のあたりが冷えた。灰の降る街道を、子供を連れて、馬に追いつかれるほどの速さで歩く人間。理由は、一つしか思いつかない。

道の先に、枯れ木が一本立っていた。


その根元に、大きな影がうずくまっている。人の背丈ほどもある背負子を背負ったままの、大柄な男だ。荷の上には、毛布にくるまれた小さな塊が二つ、載っていた。


クルトが、魔族の剣を抜きかけた。


「クルトさん、それ抜かないでください。子供が見てたら泣きます」「……分かっている」

男は僕たちに気づくと、地面に手をついて立ち上がろうとして、できなかった。

「……殺すなら、俺だけにしてくれ」


掠れた声だった。


「ガキは、関係ねえ。鉄は置いていく。だから……」「俺たちは魔族じゃない」


クルトが剣から手を離すと、男は糸が切れたように崩れ落ちた。


「死にかけでも、まず子供の心配をする人は嫌いじゃないな」

カシアンが小さく息を吐く。そのとき、毛布の中から、ひゅう、と細い音が聞こえた。


小さな女の子が、荒い息をしている。唇が、灰色だった。

灰を吸っている。


「リーナ!」

別の毛布から、男の子が顔を出して叫んだ。七つくらいだろうか。涙で顔がぐしゃぐしゃだ。


僕が馬を止めるより先に、フィオナが飛び降りていた。


「ユーリ、水と火、お願い。ケース、お肉を少し分けて」「……分かった」


フィオナは女の子の手を握った。指先に、淡い緑がともる。

けれど、一瞬だった。灯りは、吹き消されたように消えた。


「……っ」

唇を噛んだ横顔を見て、思い出した。灰の呪いに勝てなくて、黒く腐った麦を食べさせてしまった。止められなかった、と泣いていた彼女を。


「魔力は、使えない」


フィオナは顔を上げて、静かに言った。


「でも、使えなくてもできることは、あるはず」


窪地に小さな火をおこして、鍋をかけた。

魔物の肉を煮る。その横で、フィオナが岩の割れ目で摘んだ薬草を石で潰していく。


「止血と鎮痛の草に、一種類だけ、庭の薬草と同じ系統のものが混ざってたの。効きは弱いけど、魔力の乱れを鎮める作用はあるはず」


作り方は、僕が最初に彼女へ出したスープと、ほとんど同じだった。

フィオナは木椀を、女の子の口元へ運ぶ。


「一口ずつ。ゆっくりね」


小さな喉が動く。もう一口。もう一口。

その様子を見ながら、僕の頭は、勝手に計算を始めていた。


大人一人と、子供二人。庭の備蓄、これからの収穫、残り日数。分母が増えて、分子は減る。


出た答えは、赤字だった。

……前世の僕なら、ここで電卓を置いて、「余力がない」と書いて終わりにしているだろう。


だが僕は、計算結果をそっと裏返した。

赤字? 知っている。そんなもの、庭を始めた日から赤字だ。


三十分後、リーナの唇に、血の色が戻った。ふう、と大きな息を吐いて、目を開ける。


「……おなか、すいた」


フィオナが、ほっとしたように笑った。肩が、小さく震えていた。


「うん。いっぱい食べよう」

僕にだけ聞こえる声で、彼女は言った。

「今度は、止められたよ」「うん。見てた」


それ以上は、何も言わなかった。言えば、泣かせてしまう気がした。


男の名は、オズといった。ちびっ子二人はティムとリーナというらしい。


「騎士団付きの鍛冶屋だ。ハーゲンってやつの子供を預かっててな」


聞き取れた名前に、クルトが、ほんのわずかに動きを止める。

オズは、炉の下の穴に子供を隠した。父親のハーゲンは、「頼む」とだけ言って剣を取り、外へ出ていった。三日間、穴の中で、足音が消えるのを待ったという。


「あの黒い鎧は、何も言わなかった。一太刀ずつ、淡々と……。他の連中には、手を出さなかったがな」


淡々、という言葉が、背筋に残った。

ケースが、オズの背負子を持ち上げて、うなった。


「……重いな。馬一頭分あるぞ。何だこれは」「鉄床と槌だ」


全員が、固まった。


「なぜ、捨てなかった」

クルトが尋ねる。オズは、情けなさそうに、でも少しだけ誇らしそうに笑った。


「捨てたら、俺はただの飯食いだ。槌さえ振れりゃ、どこでも役に立てる」


つくづく職人なのだろう。

深い足跡の正体は、鉄床だった。子供二人と、それを背負って、六日。


「あの、オズさん」「ああ」「スコップって、打てますか」「は?」「戦いの最中に、失くしちゃって」

オズは目をぱちくりさせて、それから、豪快に吹き出した。

「命の礼がスコップか。変わったやつだな。……お安い御用だ。着いたら、一番いいやつを打ってやる」


借りが、また増えた。でも、これは嬉しい借りだ。

その日の夕方、ティムとリーナは、なぜかケースの腹の上で眠っていた。


ケースは、石像になった。

「……動くなって言うのか」「動いたら起きるよ」「俺は魔物より、こっちの方が緊張する」


大男が、冷や汗を流している。カシアンが、腹を抱えて笑った。


出発のとき、ケースがオズを木の枝と外套で作った引き橇に載せ、ティムはカシアンの前に収まった。残ったリーナは、僕とフィオナの間に、すとんと座った。


サンドイッチだ。

クルトの視線が、一瞬、僕たちの間を往復した。「守り役ができたな」という顔だった。余計なお世話だ。……少しだけ、助かったけども。


その夜、子供たちが眠ったあと。

クルトは火のそばで、一人、認識票の束を広げていた。指で一枚ずつ、名前を確かめている。何も言わない。僕も、何も言わなかった。


僕は、火の反対側に座るフィオナの隣へ移った。


「リーナ、スープを飲んだら楽になった。毒を消した、というより……体が毒を分解するのを、助けてくれた感じ」


ぽつりと、フィオナが言った。


「庭の土も同じなのよね。毒を消してるんじゃなくて、糞や落ち葉の中の小さな生き物が毒を食べて、別のものに変えてる」「……分解」


胸の奥で、何かがかちりと鳴った。


「使い切る場所だ」「え?」「根は、吸い上げたものを、どこかで作り変える。それが、この陣の欠けた三分の一だ」


懐から石板を取り出す。溝は、下から吸い上げる。でも、その先がない。


「吸い上げた魔力を、そのままにしておくと、澱む。澱みを、作り変える場所がいる。……分解する場所が」「分解する場所って……堆肥?」


フィオナが、ぽかんとして言った。

僕は、笑ってしまった。


「ユーリ?」「いや、ごめん。……世界を救う最後のピースが、肥え溜めかもしれない」「……本気?」「仮説だよ。実物で確かめないと」「聞かなかったことにしておく」


火の向こうから、クルトの声が飛んできた。起きてたのか。


夜明け前、クルトが、無言で子供たちのそばへ歩いていった。

手の中には、一枚の認識票。


「ハーゲンの子か」


ティムがこくりと頷いた。クルトは、膝をついて、それを小さな手に握らせる。


「傷は、全部前にあった。……逃げなかった男だ」


ティムは、何も言わなかった。ただ、認識票を、強く握りしめた。

ケースが、鼻を鳴らして、そっぽを向いた。


そして、五日目の昼過ぎ。

予定より半日遅れて、僕たちは、庭へ着いた。


灰色の荒野の向こうに、緑の線が見えた。

その線は、ゆっくり、太くなった。あの日、一人で植えた針葉樹の苗が、確かに育っているのがわかる。


世界の終わりに抗う小さな孤島は、僕が出ていったときより、確かに、大きくなっていた。


「……見て」

フィオナが、リーナを抱いたまま囁く。

門のあたりでは、見知った人たちが畑にいた。クワを振る人。水を運ぶ人。笑い声まで、聞こえる。


「遅えよ! このバカ庭師ども!!」


城壁の上から、声が降ってきた。ハンスが、ぶんぶん手を振っている。


「見ろ! お前がいなくても、ちゃんと育ってるだろうが!」「……ほんとだ」


馬を降りた僕の前に、年配の女性が仁王立ちになった。


「ユーリさん、ひどい顔ですよ。さっさと手を洗って、食べなさい」「ただいま戻りました」「返事は、それだけですか」「……ごめんなさい」「はい」

それから彼女は、ケースの腹から降りられないでいるティムとリーナを見つけて、目を細めた。


「あらあら、小さなお客さん。こっち、おいで」


すっかり、おばあちゃんの顔だった。

ティムが、おずおずと、足元の緑のクローバーを見つめる。


「……ここは、呪われて、ないの?」


僕は、思わず、フィオナを見た。

彼女は、リーナを降ろして、ティムの前にしゃがんだ。春の陽だまりみたいに、笑っている。


「呪われてないよ。ユーリが毎日、豚の糞とかを混ぜて作った、最高の土だから」


ティムは、土の匂いを嗅いで、顔をしかめた。


「……くさい」

それから、ほんの少しだけ、笑った。

「でも、きれい」


フィオナの肩が、ふるえた。笑っているのか、泣いているのか、僕には、よく分からなかった。


「帳簿、見ていくか?」

ハンスが、僕の肩を小突いた。


「雇用は十二人に増やした。収穫が見込みより出たからな。それと、お前が『湿ってる』って言ってた窪み、掘ってみたら、古い水脈の枝が出た。魔気もほとんど入ってねえ。井戸が一本、生き返ったぞ」


窪み。ずっと、頭の隅に引っかかっていた場所だ。


「……水脈が、あそこに」「ああ。年寄りの勘が、当たりやがった」「勘じゃありません。経験です」


遠くから、鋭い声が飛んだ。

僕は、帳簿を受け取る。人数、食料、収穫、備蓄。丁寧な字が、丁寧に並んでいた。


「……完璧だ。僕より上手いんじゃないか」「だろ?」


ハンスが、得意げに鼻の下をこする。

その背後で、遠くの畑に、見覚えのある人影が見えた。泥だらけの外套を着て、クワを持って、誰かに怒られている。


「……領主様、だよな」「見なかったことにしとけ」

そうしておこう。


「ところで、ユーリ」

ハンスが、急に声を落とした。笑いが、ふっと消える。

「悪い知らせだ」


彼は、南西の空を指した。


「あの雲が、お前たちの出発から、少しずつ速くなってる。今の速度なら、明日の夕方には、ここに届く」

息が止まった。


予定より、まるまる一日、早い。

足元の土の下で、根が、小さく震えた気がした。

けれど。


僕は、懐の石板を、握りしめた。

分母は減った。分子は足りない。……でも、昨日までは、「分解」の意味すら知らなかった。今夜には、仮説がある。


「ハンス君」「あ?」「肥え溜め、まだある?」「は?」


いや、違くて、気が狂ったわけじゃなくて。

ハンスは、変な顔をして、それから、答えた。


「あるどころか、館の裏の巨大なやつは、溢れそうだ。お前が毎日足せって言うからだろうが」「最高だ」


フィオナが、横で肩を震わせて笑っている。クルトは、無言で空を仰いだ。


超大国が死んだ日、僕は糞尿を混ぜていた。

世界が滅びるかもしれない前の日、僕はまた、糞尿を混ぜるらしい。

——ただし今度は、世界を救うために。


僕は、スコップのない手を握りしめて、館の裏手へ向かった。


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