第十話:灰の向こうへ
南には、何もなかった。
灰を被った草地が、なだらかに続いているだけだ。蹄の跡も、折れた枝も、馬の糞一つ見当たらない。
歩くたびに、左足の傷が脈を打つ。頬の傷は乾いて、笑おうとすると引きつった。
二の腕は、簡易甲冑の下で熱を持っている。薬草を使って痛みを止ませたいところだが、薬草関係は構造が複雑でスキルが使えないからな。
視界の端で、数値が揺れていた。足元の土の、魔気の濃度。
癖のようなものだ。歩きながら、つい見てしまう。都市に近いほど高く、離れるほど低い。
当たり前の傾きだが、その傾きが思っていたより緩やかなことに気づいて、僕は立ち止まった。
……灰は、思っているより遠くまで届いている。
残りは七日。馬で五日。歩けば、倍はかかる。
何度も繰り返した計算を、もう一度なぞる。答えは変わらない。
腰のあたりを、右手が探った。
そこにあるはずのスコップがない。瓦礫の斜面で手放したきり、取りに戻る余裕はなかった。慣れた重みがないだけで、体の半分を置いてきたような心許なさがある。
「……探しに来たのは、馬なんだけどな」
誰に言うでもなく呟く。風が灰を巻き上げて、返事の代わりに頬を撫でていった。
これ以上歩いても、見つかるのは疲れだけだ。日が傾く前に、僕は踵を返した。
集合地点には、焚き火の準備ができていた。
組まれた薪。吊るされた水袋。
そして少し離れた場所に、三体の魔物が角を揃えて並べられている。皮は剥がれ、血抜きまで済んでいた。
あまりにも、きちんとしている。
「ケース?」
返事はない。荷物は置かれたまま、本人の姿だけがなかった。
争った跡を探す。土は乱れていない。血の匂いも、魔物のものだけだ。それでも、胸の底が冷えた。
……魔族と鉢合わせたのなら、こんなにきれいに残っているはずがない。
そう言い聞かせる。言い聞かせている時点で、半分は信じていない。
背後で、小石が転がった。
「ユーリ」
「ああ、フィオナか」
外套の裾は泥だらけで、両手に束ねた草を抱えている。
「西は岩場ばかりで、馬は入れそうになかった。その代わり」
彼女は草の束を持ち上げて見せた。
「岩の割れ目に、灰を被っていない薬草が生えていたの。止血と鎮痛に効くものだから、ちょうどいいと思って」
「馬を探しに行って、摘んできたのか」
「馬もちゃんと探しました。いなかっただけです」
少しむっとした声が返ってきて、僕は口を閉じた。
「ケースがいない」
「え?」
フィオナは並べられた魔物と焚き火を見て、周囲を見回した。
「……荷物はあるのね」
「ああ。置いたままだ」
「戻ってくると思う。あの人は、そういう人だから」
根拠はないはずなのに、その言い方に迷いはなかった。
「それより、座って」
「僕は平気——」
「座って」
結局、僕は平たい岩に腰を下ろした。
フィオナは水袋の水で布を濡らし、僕の頬に当てた。
「しみるよ」
「っ……」
「言ったでしょう」
血と灰で固まった傷が、少しずつ洗われていく。彼女の指先が、ときどきかすかに震えていた。魔力が底をつくと、体は寒さを訴えるものらしい。
気づかなかったふりをするべきだろうか。迷っているうちに、彼女のほうが先に言った。
「気づいても、言わないでくれたら嬉しいんだけど」
「……何も言ってない」
「顔に書いてあったもの」
彼女は薬草を石の上で潰し、緑の汁を傷に塗り込んだ。青い匂いが鼻を抜ける。灰と血の匂いの中で、そこだけが生きている匂いがした。
「ねえ、ユーリ」
「うん」
「さっき『少し魔力を使いすぎただけ』って言ったでしょう」
手が止まった。
「前にも言ってた。『少し、怒ってた』って。ユーリが『少し』って言う時は、だいたい少しじゃない」
……見抜かれている。それも、二度目だ。なんで?
フィオナといるとどうにも上手くいかないことがある。だがこれもなんでかわからないけれど、悪い気はしない。
「魔力が尽きないのは、本当なんだ」
観念して、僕は言った。
「スキルを行使するとき、魔術と違って魔力をほぼ使わないんだ。魔気として放出する技とかも無いし」
「魔力が尽きないって、魔力効率がいいってことだったのね」
「ただ、あの根を一本ずつ繋ぐのは、数字を睨みながら糸を撚るようなものでね。魔力より先に、頭と体がもたなくなる。戦いの最中に倒れるわけにいかなかったから、意地で動かしてた」
「うん」
「それだけだよ」
「それだけじゃないでしょう」
静かな声だった。責めるでも、急かすでもない。ただそこに置かれただけの声。
僕は、あの約束を思い出していた。
僕の台詞じゃないかな、と返したら、お互い様です、と言われたやつだ。
「……あの約束、お互い様だったよな」
「覚えてたの?」
「忘れてたら、今ここで怒られてるよ」
フィオナがふっと笑った。それから、僕の言葉を待つように、手当ての手を緩めた。
言葉は、なかなか出てこなかった。土の状態なら一目で言い当てられるのに。
「……怖かった」
やっと出てきたのは、それだけだ。
「首に手を伸ばされた時じゃない。あとで考えたんだ。ここへ行こうと決めたのは僕だ。みんなを選んで、連れてきた。一歩間違えたら、全員の死に方を、僕が決めたことになってた」
焚き火のない夜営地に、風だけが鳴る。
「魔族が強いのは、仕方ないんだ。仕方なくないのは、読みが甘かったことで」
「ユーリ」
名前を呼ばれて、顔を上げた。
フィオナは手を止めて、まっすぐ僕を見ていた。
「私ファイアボール、もっと早く撃てたの」
声は落ち着いていた。落ち着いているだけに、続きがつらかった。
「ユーリが追い詰められているのは見えてた。撃つ場面だって分かってた。でも、手が動かなかったの。外したら、って考えたら、指が固まって」
「フィオナ」
「だから、あなたが全部を背負うのは、違うと思う。怖かったのは、私も同じだから」
……そうか。
逃げる途中の「ごめん」は、ファイアボールの使い所の話ではなかった。本当は、こっちだったんだ。
「撃ったよ」
気づけば、声が出ていた。
「撃ったから、僕たちは今ここにいる。遅かったかどうかは、僕には分からない。ただ、あの一発がなかったら、僕は今、ここで手当てなんてされてない」
フィオナは目を見開いて、それから顔を背けた。
「……ずるい」
「何がだよ」
「そういう言い方」
少し間があって、彼女は残りの草を布に載せた。僕は甲冑の留め具を外す。二の腕の布は、赤黒く固まっていた。それを解いて、新しい布を巻いていく彼女の手つきは、さっきより落ち着いていた。
そういえば彼女に頼みたいことがあったな
「一つ、頼みがあるんだ」
「うん」
「攻撃魔術を教えてほしい。僕のスキルは、土がなければ役に立たない。足元を崩されたら、それで終わりだ。土に頼らない手が、何か一つほしい」
「……いいけど」
彼女は布の端を結び、きゅっと締めた。
「その代わり、私にも教えて。土のこと」
「土?」
「あなたがいつも数字で見てるもの。私には、魔力の流れしか見えないから。……ユーリが見てる世界を、私も見たいの」
さらりと言われて、反応が遅れた。
「それは、構わないけど」
「約束ね」
「……約束だ」
結び目を確かめるように、彼女の指が、僕の腕を一度だけ軽く叩いた。包帯越しの体温が、じわりと残る。
気づけば、顔がずいぶん近かった。薬草の匂いと、彼女の髪の匂いが混ざっている。
沈黙が落ちた。
目をそらしたのは、たぶん同時だった。
……手当てをしてもらっていただけだ。誰に言い訳しているのか、自分でも分からない。
ちょうどその時、北の方角から、重い足音が近づいてきた。
クルトが戻ってきたのは、日が沈む直前だった。
何も言わず、僕たちの前に荷を下ろす。
布に包まれていたのは、鈍く光る小さな金属片の束だった。認識票だ。数え切れないほどある。
「北の外れに、駐屯地があった」
クルトの声が低い。
「騎士団の陣だ。……全員、死んでいた」
誰も、何も言わなかった。
「逃げた者はいない。傷はどれも前からだ。しかも全員、一太刀。鎧は剥がされていない。食料と、陣の中身だけが綺麗に持っていかれていた」
クルトは腰の剣に手をやった。逃げる途中で拾った、あの魔族の剣だ。
「傷口の幅が、この剣と合う」
「……あの魔族が、やったってことか」
「同じ剣筋というだけだ。同じ者かどうかは、俺には断言できん。ただ」
言葉を切って、彼は荷の底から石の欠片を取り出した。
「陣の真ん中に、これが割られて転がっていた。持てるだけ拾ってきた」
手のひらほどの石板の破片だった。表面に、細い溝が走っている。
魔法陣。
「小都市の騎士団が使っていた、あの?」
「ああ。壊されたと聞いていたが、残っていた」
フィオナが無言で欠片を受け取り、目を細めた。魔力が尽きていても、彼女の目に映る流れは変わらない。
少しの残穢も見れるほどに彼女の目と魔力に関する才能というのは、突出している。
「……待って」
溝の上を、指先がなぞっていく。
「これ、下から吸い上げてる。地下の、魔気に侵されていない層から魔力を引っ張り上げて、円の中に閉じ込める作り。……ユーリ、これ」
顔を上げた彼女と、目が合った。
「あなたの庭と、同じ理屈よ」
胸の奥で、何かがかちりと鳴った。
直径五メートルほどの結界。魔力さえ流せば、技術がなくても誰でも使える。たった一つしかなかった魔法陣が、地下の土を生かして小麦を実らせた。
あれは気休めなんかじゃない。方向が、正しかったんだ。
「全部は読めない。三分の一くらい、欠けてるみたい。でも」
「手がかりには、なるな」
僕は欠片を、落とさないように両手で受け取った。冷たい石が、不思議と手に馴染む。
灰への対策を探る。それが、ここへ来た目的だった。剣だけじゃない。僕たちは、本物の収穫を持ち帰れるかもしれない。
「戻れれば、の話だけどな」
「……おい」
東から、カシアンたちが走ってきた。息が切れている。二人の冒険者も、顔色が悪い。
「馬は見つからなかった。でも、もっと悪いものを見つけた」
カシアンは膝に手をついて息を整えた。
「街道に出たところに、足跡があった。一人分だ。庭のほうへ向かってる。まだ新しい、灰が薄い」
「……人か?」
「歩幅が、人の一歩半はある。それにやたら深い。普通の人間が歩いたにしては、重すぎる」
魔族だ。そう言いかけて、彼は首を振った。
「と言いたいところだが、断言はできん。歩幅が乱れてる。重い荷を背負って走った人間の跡にも見える」
「難民、か」
「かもしれない。そうじゃないかもしれない。足跡だけじゃ、これ以上は何も分からん」
……庭ごと、刈り取ってやろう。
あの魔族の言葉が、頭をよぎった。
あれは、根の網のことだ。そのはずだ。
それにあいつは僕たちよりも酷い怪我を負っている。
そのはずなのに、背筋を冷たいものが這った。
庭には、ハンスがいる。文句を言いながら土をこねていた街の人たちも。僕が育ててきた冬の、全部が。
沈黙の中で、僕は数えていた。
残り七日。馬で五日。余裕は二日。足跡の主が魔族なら、人の足でも僕たちより先に着く。あの速さで走れる相手なら、馬でも——
「……馬が、ない」
口に出して、初めて実感した。
夕日が地平に沈みきる。空が灰色から藍色に変わっていく。徒歩では、間に合わない。
誰かが、小さく息を吐いた。
その時だった。
蹄の音がした。
一つではない。複数。重なって、近づいてくる。
「全員、構えろ!」
クルトの声で、皆が武器を取った。僕も反射的に腰へ手をやって、スコップのない空虚を掴んだ。……こういう時に限って。
岩陰から、大きな影が現れた。
六つの馬影を、従えて。
「……すまん。遅くなった」
ケースだった。
泥まみれで、片手に縄を握っている。その縄の先に、六頭の馬が疲れ切った顔で繋がれていた。
誰も、何も言えなかった。
「あの窪地にいた」
ケースは、後ろの岩場を顎で指した。ほんの数百メートル先だ。
「逃げたはいいが、遠くまで行く馬はいないんだ。怖いものから離れたら、立ち止まって、水と餌のあるところを探す。ここは、あいつらが最後に水を飲んだ場所だろう。夕方には戻ってくると思って、待ってた」
淡々と言う。
「ただ、窪地で固まって動かなくなってた。塩と、残りの麦で、少しずつ寄せた。持ち場を離れるわけにもいかねえから、見える範囲を行ったり来たりして、半日がかりだ」
「半日……」
「魔物の処理は、その合間にやった」
並べられた三体の魔物。あれも、馬を寄せている間の片手間だったのか。
やはり相手が悪すぎただけで本当は人類でも上位の実力者なのだ。
カシアンがぽかんとして、それから腹を抱えて笑い出した。
「俺たち、今日一日、何を探してたんだ。遠くばっかり見て、足元の数百メートルを——」
「笑うな」
ケースは憮然とした顔のまま、けれど口の端がわずかに上がっていた。
「ケース」
僕は立ち上がった。傷が痛んだが、構うものか。
「ありがとう。君がいなかったら、僕たちは全員、間に合わなかった」
「……何もしてねえよ。待ってただけだ」
「待ってたんだ」
僕は、はっきり言った。
「それが、今日一番の手柄だ」
ケースが、言葉を失ったように僕を見た。
土作りと同じだ。目立たない仕事ほど、全部の土台になる。肥料を担いだ人たちも、水を運んだ人たちも、誰かが最初に地味な役目を引き受けたから、庭は動いた。
「昼間は、舐めた口を利いて悪かった。あんたのことも、あいつらのことも」
「もう済んだことだ」
「……そうか」
ケースはぎこちなく頭を掻いた。クルトが無言で、その肩を叩く。重い手だった。
「六頭か。一頭足りないな」
「一頭は戻らなかった。谷に落ちたか、魔物に食われたか」
「なら、一頭は二人乗りだ」
クルトの視線が、僕とフィオナの間を往復した。
「ユーリは足が動く。フィオナは魔力がほとんど残っていない。落馬されたら面倒だ。同乗しろ」
「え」
「え」
声が重なった。
カシアンが肩を震わせている。
「……分かった」
「……分かりました」
ケースが、不思議そうに首をかしげた。
夜の街道を、東へ走った。
馬を潰さない速さで、けれど止まらずに。
月明かりが、灰を被った街道を白く浮かび上がらせている。
背中に、フィオナの体温があった。腕は、落ちないようにと僕の腰に回されている。最初はぎこちなかった力が、いつの間にか少しだけ抜けていた。
「……眠いなら、寝てもいいよ」
「寝ません」
「落ちる」
「落ちないように、掴まってます」
背中越しに、くぐもった声が返ってくる。
「それに、一人で抱え込まないって約束したでしょう。眠れないのは、あなたも一緒のはず」
「それは、寝る話じゃない」
「同じことです」
……一本取られた、二度目だ。
前方の闇に、街道は細く伸びている。その先のどこかに、足跡の主がいて、そして、庭がある。
あの足跡が何だったのかは、分からない。魔族かもしれない。難民かもしれない。
でも、一つだけ決まっている。
世界がどれだけ灰に塗れようと、僕の庭に植えたものは、絶対に枯らさせない。
あの庭には、全部がある。ハンスの文句も、叱りつけてきた年配の女性の声も、土をこねた騎士たちの泥だらけの手も。
僕は手綱を握り直した。
馬が夜を切り裂くように、速度を上げる。
「……間に合うよ。みんなで、帰るの」
背後で、フィオナが小さく囁いた。
「ああ」
答えて、僕は前を見た。
街道の灰の上には、あの足跡が一本の線になって、月明かりの届かない闇の向こうまで続いていた。
庭の方角、灰の向こうへと。




