第二話:暴動
正門前は、地獄絵図だ。
数千人の難民が丸太を抱え、門へ突っ込んでいる。ドン、と鈍い音が響くたびに、門を支える私兵たちの肩がびくりと跳ねた。
盾を構えてはいるが、膝が笑っている。無理もない。彼らが相手にしているのは魔族ではなく、ほんの一ヶ月前まで同じ国の空の下で暮らしていた、普通の人間なのだから。
門板の隙間から、外が見えた。
泥にまみれた顔。ひび割れた唇。空の水筒を逆さにして振り続ける老人。
母親の腕の中で、泣く力さえ残っていない小さな子供。
……見なければよかった。
「水をよこせ!」
「子供が死んじまうんだ、開けてくれ!」
怒号の底に、悲鳴が混じっている。
あれは暴徒の声じゃない。助けを求める声だ。
最前線では、右腕を吊ったクルトが、片手で盾を押さえながら声を枯らしていた。
「丸太を当てさせるな! 門を守れ! 次を食らったら保たんぞ!」
その門が、さっきから嫌な音で軋んでいる。ハンスは顔を引きつらせながら、クルトの隣で盾に肩を押しつけていた。文句を言う余裕すらないらしい。
門が破られれば、次に荒らされるのは裏手の庭だ。せっかく魔気から守り抜いてきた土と、そこで育った作物。それを失えば、僕たちも終わる。
僕は肩に担いだスコップの柄を握りしめたまま、頭の中で計算を回した。
この庭の備蓄と収穫を全部掻き集めても、門の外の人々が一日に必要とする量の半分にもならない。
受け入れれば、飢えるのは僕たちの番になる。館の古井戸だけは深い層から水を引いているおかげでまだ濁っていないが、数千人が群がれば、それもいつまで持つか分からない。
答えは、数字が出している。
門と城壁を補強して、籠城する。「至高の庭師」なら、それができる。外の声は、聞かなかったことにすればいい。
よし、そうしよう。
それが一番楽で、一番確実で、一番正しいやり方だ。
前世の僕なら、迷わずそうしていた。
だから僕は、隣に立つ少女の返事も待たずに口を開いてしまった。
「フィオナさん、今から城内の植物を一気に活性化させて、門と城壁を補強します。増幅をお願いします。あなたの魔術なら——」
「外にいる人たちは、見殺しにするのですか?」
静かな声だった。責める調子でも、縋る調子でもない。ただ、まっすぐな問いだった。
手に集めかけていた魔力が、霧散した。
……ああ。考えないようにしていたことを、真正面から言われちゃったよ。
前世の僕は、人間を数字で見ていた。工期、人員、予算。足りない分は「許容範囲」と書いて切り捨てる。
それができる人間が、優秀と呼ばれた。
前世の現場で後輩が倒れたとき、本当は人手が足りないことも、無理をさせていることも、僕は分かっていた。
それでも「計算のうちだ」と自分に言い聞かせて、見なかったことにした。
後輩は、そのまま現場に戻ってこなかった。
あのとき舌の奥に残った苦味を、僕は今でも忘れていない。今世ではできるとこまでやる。そう決めたはずだ。
それなのに、僕はまた「計算のうち」で、扉を閉めようとしていた。
……情けないな
「……フィオナさん、すみません」
僕はスコップを地面に突き、息を吐いた。
「僕は、外の人を見殺しにできるほど、心が強くなかったみたいです」
フィオナは一瞬だけ目を丸くして、それから、ふわりと笑った。
「ユーリさんが、そういう人で安心しました」
その笑顔に、胸の奥で固まっていたものが少しほどける。ただ、状況は何も変わっていない。門は軋み続けている。
「ですが、門が破られては元も子もありません」
フィオナは門の向こうへ視線を向けたまま言った。
「今は守りを固めて、時間を作りましょう。考えるのは、そのあとです。……お願いできますか?」
「もちろん。——クルトさん、下がってください! 門の内側、一歩分空けて!」
僕は門の内側の土へ、両手を押し当てた。
スキルが、視界に数字を浮かび上がらせる。
魔気濃度、含水率、地中の根の位置。城内の庭木、石垣に絡んだ古い蔦。生きている根は、思っていたより多い。
「根を門の裏に集めます。フィオナさん、増幅を」
「はい」
彼女の指先の緑が、淡く灯った。昨日、倒れたばかりの人間のものとは思えないほど、澄んだ魔力の流れだった。僕の根がその魔力に押されて、一気に太さを増す。
メキメキと音を立てて、門の裏側を蔦と根が這い上がった。門を抱き込み、扉板を締め上げ、石垣の継ぎ目へ潜り込んでいく。丸太の音が、止んだ。
外の怒号が、どよめきに変わる。門の隙間から、緑が覗いているのが見えたのだろう。
「……助かった。これでしばらくは保つ」
クルトが額の汗を拭った。僕も頷く。だが、根が門を締め続けられるのは、せいぜい数日だ。応急処置にすぎない。
ふらついたフィオナの肩を、慌てて支えた。
「大丈夫です。少し、立ちくらみがしただけで」
「全然大丈夫じゃない顔をしてますよ」
「……ユーリさんもです」
それは指摘してはいけないよ。
数時間後。
僕たちは、庭の一角にある円形テーブルを囲んでいた。例の庭、と言っても、東京の一軒家にあるような可愛い庭ではない。畑と庭園が一体になった、無駄に広い庭である。
席にいるのは、僕、フィオナ、クルトと彼の部下たち、それにこの一帯を治める領主と、その側近二人。
「まずは、この混乱の中、お集まりくださった領主様に感謝を」
クルトの言葉に、一同が礼をする。
「よい。前置きも礼儀も、今は要らぬ。本題に入ろう」
領主は低い声で言った。目の下には濃い隈が刻まれている。袖口から覗く手首は、一ヶ月前に見たときより、はっきり細くなっていた。
……バカ殿という呼び名は、心の中で撤回しておこう。備蓄を抱え込んで必死なだけの人、と分かったつもりでいたけれど、違った。
この人は、全員を守れないと分かった上で、誰かを選ぶしかなかったのだ。その選択を、今も一人で背負っている。
「城下の井戸は、すべて黒く濁った。倒れた領民は百を超える。門の外には水と食料を求める者が数千。私の声も、私兵の槍も、もう届かぬ」
「領主様。そのことですが、門と城壁の守りなら、僕のスキルとフィオナさんの魔術で、数日は保たせられます」
「おお、本当か」
領主の疲れ切った顔に、わずかに血の気が戻った。
「ただ、あくまで時間稼ぎです。そして、領主様」
僕は息を吸った。
「このまま門を閉ざし続ければ、外の人たちは飢えて死にます。ただ死ぬのではありません。長く苦しんだ末に、理性が先に壊れていきます」
「……私は、見ました」
フィオナが、静かに口を開いた。
「魔気に侵された麦を、お腹を空かせた子供たちが食べました。止められませんでした。人は、限界を越えると、ああなってしまうんです」
誰も、何も言わなかった。彼女が淡々と話すほど、その重さが伝わってくる。
「では、どうすればよいと思うかね」
領主が問う。
そう。そこだ。そこだけが、数時間前から、まるで分からない。
「それについて、皆さんの知恵をいただきたくて、お集まりいただきました」
僕より頭の回る人間なんて、きっとこの場にいくらでもいる。僕は土と植物の扱い以外、そこまで万能でも優秀でもない。だから、遠慮なく知恵を借りることにした。
「遠くの地へ逃がすのは、どうだろうか……」
クルトの部下の一人が、おずおずと言った。
「関所は閉まっています。逃げ場が、ありません」
フィオナが首を振る。
「それに、遠くへ逃げても、魔気はどんどん広がります。飢え死にするまでの時間が、少し延びるだけです。……それに、門の中に食料と水があることは、あの人たちも分かっています。だから、引き下がらないんです」
自分や、大切な人の命がかかっているのだから、当たり前だ。
逃がせない。受け入れられない。門を守るだけでは、いずれ限界が来る。
堂々巡りだ。何かを見落としている気がするのに、それが何か分からない。
「……みんなに、ユーリさんのようなスキルがあれば、こんなことには……あ」
フィオナが、ぱっと顔を上げた。何かを思いついたらしく、顎に手を当てて考え込む。
僕のようなスキルがあれば。そうしたら、みんな救われる。でも、そんな都合のいい話は——
「あーあ、まだ足りねえのかよ」
テーブルの端で、ハンスが吐き捨てた。
「俺たちゃ一ヶ月、毎日毎日、糞担いで、手が臭くて飯が不味いってのによ。それでも足りねえってんなら、あとは何を担ぎゃいいんだ」
「ハンス、口を慎め」
クルトがたしなめる。
……糞を、担いだ。
僕の中で、何かが、かちりと噛み合った。
僕のスキルは、土の中の魔気や毒素の割合を「見る」ことができる。
でも、その割合を実際に動かしたのは、誰だ?
クルトたちだ。毎日文句を垂れながら、豚の糞と落ち葉と雑草を担いで、混ぜて、土に鋤き込んでくれた人たちだ。
あの泥臭い作業のおかげで、土の魔気濃度は昨日より三%下がった。僕一人では、絶対に出せなかった数字だ。
僕は、いつから「一人で解決する」ことしか考えなくなっていたんだろう。
門を強くする。城壁を固める。庭を守る。どれも、今あるものを失わないための策だ。守るだけの庭は、いつか食い潰される。
食料が足りないなら、増やせばいい。庭を広げて、みんなに耕してもらえばいい。
人の手は、足りないんじゃない。外に、数千人も余っているじゃないか。
「フィオナさん。多分、僕も、同じことに気づきました」
フィオナは、嬉しそうに微笑んだ。
「みんなが、僕の庭を一緒に育てればいいんです」
僕のスキルを、誰もが使えるようになるわけじゃない。そうじゃなくて、僕が土地を整え、植物を育てる。みんなが耕し、混ぜ、水を運び、収穫を支える。
ハンスが担いでくれた糞のように、一人ひとりの手が、少しずつ土を変えていく。
すぐに数千人分の食料が採れるわけじゃない。庭を広げるには、人手も時間もかかる。
それでも、何もしなければ、待っているのは破滅だけだ。ならば、やるしかない。
「領主様」
僕は領主の目をまっすぐ見た。
「門の上から、外の人たちと話をさせてください。提案があります」
「彼らは、話を聞くような状態ではないぞ」
「分かっています。それでも、話さなければ始まりません」
領主は長い沈黙のあと、小さく頷いた。
糞尿を混ぜていた庭師が、数千人の飢えた群衆に向かって「働け」と言いに行く。
後から振り返れば、この世界の歴史上、これほど臭い提案もなかったと思う。
まあそれは良しとしよう。とりあえず説得だな。
こうしてユーリ一行は城門へ向かう——




