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第一話:超大国が死んだ日、僕は糞尿を混ぜていた 

かつて栄華を極めた国がそこに在った。


矮小な人の身で誰があの国に反抗しようか、誰が対等に渡り合おうか。いや、そんなことを考える輩はほぼいないに等しいであろう。


時は人類大戦から150年と少し。


栄華を極めた彼の国、ブリザンテ神聖帝国の名宰相エルゼは大火に包まれた王の間でがっくりと背を落とし、跪いていた。


かつて聖君と謳われ人間界をまとめあげた大帝の亡骸の前で。


「ああ、我が主君よ。私達愚臣をお許しください、こんなはずではなかったのです。

こんなはずでは、、、」


彼の後ろには甲冑を身につけた魔族の将が佇んでいる。


人間より冴えたその目と頭は何を見て何を思っているのだろうか。


「ああ、、悪夢だ」

と彼はいう。


剣の境地に至り、人生負けなし。勇者という噂までされ、政治手腕も見事なものだった。

そんな長きにわたり大帝を支え続けてきた忠義の男エルゼ•アマデウス•ベレーは絶望の淵で嘆くことしかできない。


刹那、鈍い音とともにあっけなく彼の人生の幕は閉じられた。


この日、帝国は死んだ。







首都が陥落した一週間後、僕は肥料を作っている。


正確には、豚の糞と落ち葉と、冬まで放置されていた雑草を混ぜ合わせている。


陥落の報せは、作業を始める前に届いていた。名宰相エルゼ・アマデウス・ベレーは戦死。大帝も討たれ、首都は魔王軍の手に落ちた。


報告書を読み終えた先輩は、しばらく何も言わなかった。それから、僕の手元に目を落とす。


「……ユーリ。お前、今の話を聞いていたか?」

「聞いていましたよ」

「なら、どうして肥料なんか作ってる?」

「聞いていたからです」


先輩が額を押さえた。説明が足りなかったらしい。

僕はスコップを土に突き立てて、空を見上げた。


南西の空は、見事なまでに青い。建物が少ないと空が広くていいなあ、なんて呑気なことを考えられるのも、あとわずかだろう。その青の向こうに、鉛色の雲が滲み始めているからだ。


風に混じって、灰が舞っている。

手袋に落ちた一片を、じっと見つめる。嫌な予感がする。これは、ただの灰じゃない。


「先輩。この庭、しばらく僕に任せてもらえませんか」

「……何をするつもりだ」

「冬を越す準備です」


先輩は、とうとう黙り込んだ。無理もない。帝国は崩れ、難民が街道を埋め、空からは正体不明の灰が降り始めている。そんな中で庭師が冬支度を始めるなんて、正気を疑われて当然だ。


でも、僕には他にできることがない。剣は振れない。軍を動かす権力もない。魔王を倒す勇者でもない。あるのは、植物を育てる技術と、神様がくれたスキルだけ。


だったら、それで勝負するしかない。


「まずは、土からです」

前世で造園に携わっていた頃の知識と、スキル『至高の庭師』の目で、灰を鑑定する。結果を見て、思わず乾いた笑いが出た。


大気魔術汚染、というところか。魔王軍が北西で撒き散らした『死の兵器』の燃えカスが、偏西風に乗って、この広い国土の隅々まで届き始めているらしい。


じわじわと、確実に、生態系を殺すために。

実際、庭の繊細な花々は、灰を浴びて見る間に黒ずみ、どろどろに溶けて枯れた。


「逃げるか? ……いや、無理だな」


難民で溢れた街道の方角を見やる。周辺国への関所はとっくに閉鎖されているし、モンゴル帝国級のこの国土を徒歩で抜けるなんて、生存確率が低すぎる。


かといって、ここに留まっても、魔気に豊かな土壌を奪われて餓死するだけかもしれない。先輩の前で冬を越すと豪語したのは、いくらなんでも早まったか。


……いや、弱気になるな。今世では、できるところまでやる。そう決めたんだ。


だったら、ここに『シェルター』を作って、神様と魔族を見返してやろうじゃないか。向こうは多分、眼中にもないけど。


「あ、先輩。生垣の補強、終わりましたよ。ちょっと『手違い』で、触れると三日は腫れが引かない猛毒の茨になっちゃいましたけど、泥棒除けにはちょうどいいですよね」

「お前、さらっと何作ってんだよ!?」


引きつった顔の先輩を笑顔でスルーして、僕は『菜園(シェルター)計画』の材料を取りに、領主の館の裏手にある巨大な肥え溜めへ向かった。

 

先輩は、その週のうちに故郷の家族のもとへ帰っていった。「死ぬなよ」と言われたので「冬を越すまでは頑張ります」と返したら、盛大なため息をもらった。

首都が陥落して、一ヶ月。フロックス領の城下町は、地獄の一歩手前まで来ていた。


押し寄せた難民は数万。物価は十倍に跳ね上がり、パンひとかけらのために殺し合いが起きる。領主は館の門を固く閉ざして、「私兵を出せ! 難民を追い払え!」と喚くばかりだ。


バカ殿め、と思う。……いや、残り少ない備蓄を身内に回して、奪われないよう守るだけで精一杯なのかもしれない。


そんな中で、僕は薬草を詰めた布を防毒マスク代わりに口へ巻いて、領主の広大な裏庭を黙々と耕している。畑と庭園が一体になった、無駄に広い庭だ。


「おい、そこのお前。何をしている」

背後から、低くかすれた声。


振り返ると、ボロボロの鎧を纏った男が立っていた。胸には帝国正規軍の紋章。右腕は包帯で吊られ、目の光は消えている。いわゆる、敗残兵だ。


「見ての通り、畑を耕してるんですよ。そろそろ冬の足音が聞こえそうですからね」

「狂っているのか。首都は落ち、世界は終わるのだぞ。今さら土を弄って何になる」


男は力なく笑う。彼の言うことは、この世界の人間としては至極まっとうな正論だ。みんな、絶望して座り込み、明日が自分の番ではありませんようにと祈るか、暴徒になるか。その二択しか残されていない。


「終わるからこそ、飯を食わなきゃいけないんですよ。腹が減ってちゃ、絶望する元気も湧かないでしょう?」


スコップを止めないまま、男を観察する。体格がいい。怪我をしていても、体幹はぶれていない。


元は、それなりの階級の騎士だろう。背後には、慕って付いてきたらしい部下や家族が十数人、飢えた目でこちらの庭を見つめていた。


若い兵士の一人が、庭の青々とした葉から目を離せずにいる。

男は無言で、懐から小さな硬いパンを取り出し、その兵士に押しつけた。


「食え」

「ですが、隊長の分が……」

「俺はいい。怪我人に倒れられたら、運ぶ荷物が増えるだけだ」


言った端から、男の腹がぐう、と鳴る。だが本人は何事もなかったように咳払いをした。


……不器用な人だな。


とはいえ、僕は彼らを哀れむ聖人君子じゃない。無償で面倒を見られる立場でもない。ただ、これから作ろうとしている『環境浄化の庭』には、とにかく人手が足りなかった。


「ねえ、そこの騎士様。お名前にベレーとかアマデウスとか付かない、普通に腕の立つ人ですよね?」

「……下級騎士のクルトだ。宰相閣下のような高貴な血筋ではない」

「素晴らしい。クルトさん、取引をしましょう。僕の指示通りにこの庭で働いてくれるなら、皆さん全員分の『今日の飯』と『灰の降らない安全な寝床』を出します」


クルトが目を見開く。


「正気か。この領地の畑は、あの呪いの灰で全滅したはずだ。飯など、どこにある」

「普通の畑ならね」


僕は笑って、足元の土を指さした。


この一ヶ月で仕込んだ土壌。前世でいう『チェルノブイリのひまわり』、つまり毒を吸い上げる植物の仕組みを、魔術植物に応用したものだ。


僕のスキルで品種改良した特製の『魔導アブラナ』が、魔王軍の毒素を急速に吸い上げ、実った果実は無毒化される。


「信じるかどうかは、あなた次第です。ただし、働かざる者食うべからず。僕の庭では、絶望して泣く暇があったら、肥え溜めを担いでもらいますからね」


こうして僕の庭に、初めての労働者が加わった。


その夜、小屋の隅に積んだ食料を数え直す。……思ったより、減りが早い。


これだけの人数を養いながら、本当に冬まで持つのか。受け入れたのは正解だったのか。考えが頭をよぎるけれど、昼間に見た兵士たちの疲れ切った顔が、それを押し返した。


「……今さら追い出せないしな」

帳簿を閉じる。食い扶持が増えたぶん、きっちり働いてもらうとしよう。千里の道も一歩から。大きな一歩と、同じくらい大きな不安を抱えて、その夜は眠りについた。

 

クルトたちを雇って、もうじき一ヶ月。僕の菜園計画は、遅々として進まない。


「おい、ユーリ! こんなことして何になる! 俺たちはブリザンテの騎士だぞ! なんで毎日毎日、豚の糞と腐った生ゴミを混ぜなきゃならねえんだ!」


作業小屋の前に、泥まみれのクワを地面へ叩きつけて怒鳴り込んできたのは、クルトの部下の若い兵士。確かハンスといったか。


背後では、他の兵士や家族たちも、不満と疲労で目をぎらつかせて僕を睨んでいる。


いやいや、怖いですって皆さん。僕はただのひ弱な庭師なんだから、そんな血走った目はやめよう?


前世の造園会社にもいたな。現場の泥臭い作業を舐めて、綺麗事ばかり言うやつ。まさにあの手合いだ。心の中で盛大にため息をついて、愛用の鋼鉄スコップに体重を預ける。


「静かにしろ、ハンス!」


間に割って入ったのは、右腕を吊ったクルトだった。

ありがとうクルトさん。やっぱり頼れる上司は、現場に一人いてくれないと。


けれど安堵も束の間、振り返った彼の瞳の奥にも、拭いきれない焦りと疑問が揺れているのが見えた。


「……ユーリ。ハンスの言い方は無礼だが、俺も聞きたい。お前が毎日やらせているこの作業に、本当に意味はあるのか」


クルトは懐から、表紙の破れた古い本を取り出した。エドモンド・サガルマータ著『世界基礎』。この世界の知識人が必ず読む、バイブルだ。


「ここにはこうある。魔王軍がもたらす大気魔術汚染、すなわち『魔気の灰』は、地形や物理法則の一時的な改変すら引き起こす。灰の降った土地は、神の奇跡、つまりスキルでもない限り、二度と作物が育たない。ただの庭師が泥を捏ねたところで、世界の法則には逆らえん」


あー、出ちゃったよ、サガルマータ先生。


この世界の人間は、神様と魔術を絶対だと信じている。だから、その法則を魔王に書き換えられた今、僕の地道な農作業が『無駄な悪あがき』にしか見えないんだろう。


さて、どうしたものか。「いや、実は科学的にはですね」なんて言っても、中世マインドの彼らには通じない。ここは、彼らの大好きな『魔術の理屈』に寄せて説明しよう。


「なるほど、サガルマータ先生の説ですか。素晴らしい本ですよね」

クルトの手から本を強引に受け取り、パラパラとめくる。


「でもね、クルトさん。この人、肝心なところを見落としてる。魔術は『物理法則の一時的な改変』でしょう? だったら、一時的なんですよ。永続じゃない。魔王の魔力が無限じゃない限り、土に定着した毒素は、適切な『分解プロセス』を踏めば中和できる。神様のスキルなんか持ち出さなくても、自然のサイクルを味方につければね」


「何をバカな……。魔王の呪詛を、平民の知恵で覆せるわけが——」


「覆せますよ。現に、あなた達が毎日文句を言いながら運んだ糞尿のおかげで、ここの土の魔気濃度は、昨日より三%下がってます」


足元の土をすくって、クルトの目の前に突き出す。黒く変色していたはずの土が、僕の『生活魔術による酸度調整』と排泄物の有機分解で、わずかに本来の泥の色を取り戻しつつあった。


「まあ、あくまで対症療法ですし、魔気が強力すぎて、このまま単純作業で解決する話でもありません。ただ、この庭の中なら、大事には至らないでしょう」


僕のスキル『至高の庭師』は、攻撃魔法を撃てない。その代わり、土に含まれる魔力や毒素の『正確なパーセンテージ』を視覚化して、地中の根まで、数字を見ながら指揮するように動かせる。


それを職人の技術でコントロールするのが、僕のやり方だ。神様がなぜこんなスキルをくれたのかは知らないが、意外とマニアックな趣味をしているらしい。


とにかく、今の僕の相棒はこれだ。ただし先は長い。


相手は強大な魔族で、こんなもので片が付くなら、首都は陥落していない。やはり千里の道であった。


「世界が滅びるってのに、神様は沈黙したまま、新しいスキル保持者もくれない。だったらさ、見捨てられた僕たち泥臭い平民は、泥臭く土に縋りついて生き残るしかないじゃないですか。……さあ、納得したらハンス君、そのクワを拾って。今日のノルマが終わらないと、夜のスープの具が減りますよ」


ハンスは悔しそうに歯を食いしばり、言い返せないまま、のろのろとクワを拾い上げた。


お、意外と素直だ。こういうところは嫌いじゃないよ。


クルトは、僕の顔と足元の土を何度か見比べて、ぽつりと呟く。


「……お前は、本当にただの庭師なのか」


いやあ、実は前世の記憶とスキル持ちです、なんて言ったら驚くだろうなあ、これ。

心の中でにやにやしながら、僕はスコップを泥へ突き立てた。

 

それから数日。僕たちの土壌改良は、少しずつ、確実に成果を上げ始めていた。


領主の館の裏手、僕が管理する一角だけは、降ってくる灰が土に触れた瞬間に中和される。

周囲の畑が灰色に枯れていく中で、そこだけが不自然なほど鮮やかな緑を保っていた。


世界の終わりに抗う、小さな孤島のように。


その日の夕方、作業を終えたみんなが夕食の支度に向かったあと、僕は一人で庭の境界に、防風林代わりの針葉樹の苗を植えていた。


「……あ」


すぐ近くで、小さな声がした。

振り返ると、生垣の向こうの灰色の荒野に、少女が一人立っている。


少女、というには少し大人びているか。年は僕と同じか、少し上。十六、七歳くらい。


白に近い淡い亜麻色の短い髪に、元は上質だったと分かる、ボロボロの旅装。


何より目を引くのは、瞳だった。前世で読んだ漫画のヒロインを思わせる、怯えていて、それでいて透き通るように優しい、大きな緑色の目。


ただし、ご都合主義の美少女イベントとはいかない。足元は泥まみれで、白い肌には無数の擦り傷。


呼吸は浅く、今にも倒れそうだ。背後の街道には、同じように死にそうな顔の難民が続いている。


その群れからふらりと逸れて、彼女は僕の庭の『緑』に引き寄せられてきたらしい。


「あの……ここは、呪われて、いないのですか……?」


絞り出すような声。


彼女は、足元に広がる青々としたクローバーの絨毯を、信じられないものを見る目で見つめている。


「呪われてないですよ。僕が毎日、豚の糞とかもろもろを混ぜて作った、最高の土ですからね」


ぶっきらぼうに答えると、少女は一瞬きょとんとして、それから、春の陽だまりのような小さな笑みを浮かべた。


「そう、ですか……。糞、ですか……。でも、すごく、綺麗です……」


それが限界だったらしい。少女の膝が折れる。


「っと、危ない」


とっさにスコップを放り出して、身体を受け止める。軽い。驚くほど軽い。


まともに食べていなかったんだろう。触れた肌から、嫌な熱が伝わってくる。灰を吸い込みすぎて、体内の魔力のサイクルが狂い始めている証拠だ。


この世界では、不治の病に近い。

ここで「可哀想だから助けよう!」となるのが、普通の主人公だ。


でも、僕の前世は冷徹なシゴデキだったはずだ。見ず知らずの人間を一人養うのに、麦と真水がどれだけ要るか、瞬時に計算してしまう。


しかも彼女は、明らかに訳ありの身なりをしている。下手に抱え込めば、面倒事に巻き込まれる可能性は大だ。


置いていくか? ……いや、待てよ。

泥に汚れた彼女の手に、目が留まる。指先が、緑色に変色していた。


微弱な植物魔術を、無意識に使い続けている証拠だ。自分が生き延びるためじゃない。


道中で誰かを守るために、何かを育てるために、魔力を使い果たしたんだろう。


植物魔術の適性がある、平民か没落貴族。しかも、このひねくれた僕の『糞の庭』を、綺麗だと言って笑った。


……うん、雇用決定。

我が園芸チームに、ようやく待望の『実務経験者』が来てくれるかもしれない。


「クルトさん! ハンス君! ちょっと手貸して!」

大声で呼ぶと、遠くからハンスの「変なものでも拾ってきたのかよ!」という呆れ声が返ってくる。


腕の中の、白い綿毛みたいに儚い少女を抱え直して、ゆっくり歩き出した。


世界がどれだけ灰に塗れようと、僕の庭に植えたものは、絶対に枯らさせない。


……あんなことやこんなことを期待しているとか、そういうことはありませんよ。断じて。

 

少女が目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎ。

場所は作業小屋の、お世辞にも上質とは言えない固いベッドの上。


「う、あ……」


白に近い短い髪を揺らして、少女がのろのろと身を起こす。緑の瞳が、見慣れない天井と、その横で黙々と薬草をすり潰している僕を捉えた。


お約束の「ここはどこ? あなたは誰?」という顔だ。


「あ、動かない方がいいですよ。まだ魔力のサイクルが狂ってますから」


すり鉢を置いて、温かいスープの木椀を差し出す。庭で採れた魔力中和作用のある薬草と、干し肉を煮込んだものだ。もちろん、コスト計算の範囲内で。


「これを飲んでください。少しは楽になりますよ」

「あ……ありがとう、ございます……」


少女は両手を震わせながら椀を受け取り、一口ずつ、愛おしそうに口へ運ぶ。……その健気な姿は、なんとも愛くるしい。


「落ち着きましたか?」

「はい、少しは……」

「じゃあ、まずお名前を」

「……フィオナ、です。フィオナ・エルゼルト」


エルゼルト。聞いたことのない姓だ。身なりからして、首都方面の陥落エリアから逃げてきた下級貴族か、裕福な商人の娘といったところか。


まあ、過去はどうでもいい。重要なのは『今、何ができるか』だ。


「フィオナさんね。君の指先、緑色に変色してるでしょう。植物魔術を無茶な使い方した証拠です。道中、誰かを助けるために、無理に作物を実らせようとしたんじゃないですか?」


フィオナがびくりと肩を揺らし、気まずそうに目を伏せる。


「……はい。小さな子供たちが、お腹を空かせていたので……。でも、私の未熟な魔術では、灰の呪いに勝てなくて。実った麦は、すぐに黒く腐ってしまいました。それでも子供たちは、お腹が空いていて、食べてしまって……。私は、止められませんでした」


ぽろぽろと、大粒の涙が頬を伝う。……絵に描いたような善人だな、この子は。


「それは育て方が悪かったんです。灰の降る中で普通の麦を無理に急成長させたら、毒を濃縮してるようなものですから。大事なのは、土そのものを変えること。君のその才能、僕の庭で使いませんか?」


「……でも、私の魔術では、何も救えませんでした。育てた麦も、結局は毒に侵されて……」


彼女は自分の細く白い指先を見つめ、唇を噛んだ。


「それでも、私にできることが、あるのでしょうか」

「ありますよ。少なくとも、僕はそう思っています」


彼女は少しだけ迷って、それから窓の外の、庭の土へ目を向けた。


「でしたら……その土を、私にも見せてください。今度こそ、何が違うのか、自分で確かめたいんです」


瞳には、まだ不安が残っている。けれど、さっきまでの諦めは、もうなかった。


「わかりました。あとで見せましょう。僕はユーリ・フロックス。この庭の責任者です。……これからの仕事に、ついてきてくれますか?」


世界が滅びかけているこの状況で、見ず知らずの自分を『雇う』と言い出す、おかしな少年。フィオナが呆然とするのも当然だろう。


けれど、彼女が答えるより先に、小屋の扉が乱暴に蹴り開けられた。


「ユーリ! 大変だ! 出たぞ!!」


飛び込んできたのは、息を切らせたハンスだ。顔は真っ青で、目は恐怖に泳いでいる。


「城下の井戸水が、真っ黒に変色した! 水を飲んだ領民が次々に倒れてる! 門の外には、暴徒になった数千人の難民が『水をよこせ』って押し寄せて、今にも門が破られそうなんだ!」


来たか。——というのが、正直な感想だ。


北西から流れてくる灰の濃度から見て、今週中には地下水脈が汚染されると踏んでいた。ぴったり、予想通り。サガルマータ先生の言う通り、魔王軍の呪詛は、人間の生存基盤を容赦なく壊しにくる。


「クルトさんは?」

「門の前で、私兵たちと防壁を支えてる! でも、もう限界だ! なあユーリ、どうする!? 俺たちも荷物をまとめて、南へ逃げるか!?」


ハンスに肩を掴まれて、がくがく揺さぶられる。

逃げる、ねえ。……だから、関所は閉まってるし、南の国だって数ヶ月もすれば同じ状態になるんだってば。


逃げ場なんて、ない。


なら、ここで迎え撃つしかない。

「逃げませんよ。せっかく耕した畑を放棄するなんて、職人のプライドが許さない」


ベッドから立ち上がり、壁に立てかけておいた鋼鉄スコップを肩に担ぐ。


「フィオナさん、初仕事です。君の植物魔術、僕の指示どおりに使ってもらいます」


……急すぎて、何が何だか分からない顔をしている。急に雇うなんて言って、引かれてないといいんだけど。


「えっと、待ってください……。私は、あなたがどんな人かも何も知らないんです。さっき言ったように、役に立たないかもしれませんし……」


「大丈夫。それは、これから分かりますから。僕たちが信用できないなら、逃げてもらっても構いません」

フィオナは少し黙って、首を横に振った。


「いえ。私は、命を助けられた身です。……お試しですが、精一杯、やってみます」


健気な子だ。


数千人の暴徒に、魔王軍の呪詛。過酷な現実路線は、本当に退屈させてくれない。


それでも、僕の庭を荒らすやつは、神様だろうが魔王だろうが、徹底的に、泥臭くお仕置きしてやる。

……さて。まずは、あの門からだ。

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いい出だしですね! 帝国滅亡→肥料 の時点で、どういうストーリーなのかが伝わってきます!
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