9 闇、そして〈小池隼人〉
真っ暗闇となった、エレベーターの中。
隼人の耳には、他の三人の戸惑う声が届いていた。
「て、停電?」
「やだ……! 待って、今スマホ出すから」
「まじかよ、シャレになんねーし」
声やその言い方から、誰がどのセリフを言ったのかはわかる。
響き始めたごそごそという音。沙都子がカバンを漁っているのだろう。
けれど、それよりも隼人に聞こえていたのは、自身の心臓の音。
ドックドックと、嫌な音が内側から鳴り響いている。
真っ暗闇の中、隼人が思い出すのは、今よりもっと幼かった頃の遠い記憶。
あれは、幼稚園に通っていた頃だ。
来訪者のために、母親が見たことのないカップとソーサーを、リビングテーブルに並べていた。
淡いピンクやグリーンでバラが描かれた、優雅に見える白い陶器。
珍しさもあって、幼い隼人がつい手を伸ばしてしまったのは、仕方ないことだったろう。
強く触れてしまったそれを床に落とし、割ってしまったことも。
しかし母親は、それを許さなかった。
お仕置きとして、ウォークインクローゼットに閉じ込められたのだ。
その時間なんて、三分かそこらだったはず。
けれど幼い隼人にとって、その閉塞感と暗闇は、十分すぎるほどの恐怖を与えた。
光の届かない箱の中。
ぽっかりと口を開けている暗闇。
大きなクジラが飲み込もうとしているようにも、闇の途中が泥となって隼人を取り込もうとしているようにも思えた。
幼いがゆえ、闇への想像力はかき立てられ、必要以上の恐怖をもたらす。
隼人はすっかり、暗所恐怖症になっていたのだ。
「これでどう?」
沙都子がようやく、スマホを探り当ててライトをつけると、ある程度の闇が払いのけられた。
しかしそれは、エレベーター内すべてを照らすには弱い光。
「ん、ありがとう」
礼を大谷が述べた。
現れた三人の顔が、さっきよりも怖く見えて隼人はさらに心臓がぎゅっとなる。
闇は怖い。
でも、中途半端に暗いのも怖い。
沙都子が眩しくないように、ライトの光を床に向けて反射させてくれた。
その光により生み出された壁の大きな影が、悪魔のように隼人には見える。
「停電とは、まいったなぁ」
大谷が小さく呟いた。
その後にまだ、おふざけ気分が抜けていない猛が意地悪そうに笑う。
「このあと落下、なんてことはねーよな」
「もう、きみはすぐそうやって、ビビらせるようなことを言う!」
憤慨した沙都子が、そんな猛を叱った。
「だってそう思っても、仕方ねーじゃん」
「ほんっと生意気ね」
口論しだした二人に「まあまあ」と大谷が割って入る。
三人とも口数が多くなったのは、無意識に闇を怖く思っているからだろう。
それに対して、隼人の声はますます出なくなっていた。
下にうつむき、痛いくらいに唇は結ばれる。
怖い。それだけが、隼人の小さな心を支配していた。
「……やだ、ちょっと大丈夫?」
ようやく隼人の異変に気づいた沙都子が、声をかける。
隼人は小さく顔をあげて「え?」と声をもらした。
「怖い顔してる。もしかして、暗いところ怖い?」
ライトを持ったまま沙都子は、隼人の顔をのぞき込んだ。
その指摘は間違っておらず、というかそのとおりだったが、自分の心臓の音に気を取られていた隼人はわけもわからず必死にかぶりを振る。
「だ、いじょうぶ」
なぜか、素直に怖いと言えなかった。
「そう?」
沙都子はそんな隼人を訝しむ。
隼人は「うん」と小さく笑った。
その口の端っこは引きつり、心臓を抑える手元は震えていたが、薄暗闇の中ではそれも見えづらい。
「なあ、本当に大丈夫か?」
大谷も、さすがに隼人の反応はおかしいと思ったらしく声をかけた。
しかし隼人はロボットのように、同じ言葉を繰り返すだけ。
「うん、大丈夫だよ。大丈夫。……大丈夫。だいじょうぶ」
細くなっていく声が、闇と光に落ちる。
突然それは、鋭く響いた猛の声で遮断された。
「嘘ついてんじゃねーよ!」
あまりの大声に、隼人の体が大きくはねた。
狭いエレベーター内に、ビリリッと電気が走ったように響いた猛の怒声。
眼光鋭く隼人を見下ろしている。
「お前ビビってんじゃん。震えてんじゃん」
「び、ビビってなんか……」
「ビビってんだよ!」
言い返そうとした隼人の声は、すぐにかき消えた。
今日一番険しいだろう表情を、猛は顔に貼り付けて隼人を睨みつける。
「怖いんだろ。暗いの、こえーんだろ」
何も言い返せない隼人に、猛は容赦無く言葉を叩きつけた。
「嘘なんかついたってなぁ、結局つらいのは、自分なんだよ!」
その言葉は隼人に向けられたもので、隼人の心を鋭く刺す。
しかし、言った本人の猛があまりにも苦しそうな表情をしたものだから、隼人は戸惑うばかりだった。
(どうして……そんなに怒るの?)
隼人には、わからないのだ。
この言葉が本当は、誰に向けて言われたのかなんて。
「まあまあ」
沙都子が間に入る。
スマホを床に置き、隼人の手をそっと自身の両手で包み込んだ。
その時沙都子は、初めて隼人が震えていたことに気づいて胸が締めつけられる。
母性というのも変かもしれないが、幼い目の前の少年を抱きしめたくなった。
そっと腕で包み込んで、胸に抱く。
隼人はその中で、グッと我慢しているようだった。
「大きな声出さないの。よけいビビるでしょ」
しゃがんで隼人を抱いたまま、沙都子は猛に訴える。
猛はただ口癖の「ふん」を吐き出しただけで、そっぽを向いた。
沙都子は隼人の頭を撫でて、なるべく優しい声を意識する。
「怖くなるのは仕方ないよ。私だって怖いもん」
その言葉は、隼人の緊張していた心を優しく溶かす。
小さい嗚咽が、小さな口からもれ始めた。
「……うぇ、……ぇぇ」
「よしよし」
隼人の泣き方は下手くそだった。
ひきつる声を、どう出していいのかわからないようだ。
喉からせり上がってくるような空気もどう吐いていいのかわからず、穴の開いた風船のように静かにもれていく。
しかし。
「やっぱり怖いんじゃん」
猛がまた悪態を呟き。
「そこ、うっさい!」
自分を守るかのように言ってくれた沙都子の声を聞いて、ついに隼人は大きな声をあげて泣いた。
「うわーん!」
漫画のようにベタな泣き声を、思いきり出した。
まるで幼稚園児のように泣くその姿を、クラスメイトに見られたのならば、隼人は恥ずかしさで死んでしまう自信がある。
しかし、要領を得たようにあふれ出した涙をどう止めていいのかわからず、ポロポロ流れる温かい涙を拭いながらも、それを流す気持ち良さを感じていた。
きっと、自分はこうして泣きたかったのだろう、と隼人は思った。
ずっとこうして、泣きたかったのだ。
こうやって大きな声で、幼子のように。
一体、いつから泣いてなかったのだろう。
大きな声で泣くことを我慢するようになったのは、いつからだったのだろう。
それを考えてもわからない。
ただ隼人は、あふれ出す気持ちのいい悲しみに寄り添った。




