10 脱出?〈大谷恭司〉
ただ、エレベーター内に隼人の泣き声が響く。
その声は次第に弱くなり、すすり泣くような静かなものに変化する。
すんすんと鼻をすする音が聞こえてくる頃には、四人の視界も薄暗さにだいぶ慣れてきたようだった。
「酸素、なくならない……? 落ちちゃったりしない?」
不安を口にし始めた隼人は、先ほどよりも安心したように沙都子に甘え、腕の中で見上げている。
「しないよ。平気平気」
沙都子は苦笑しながら、隼人の背中をさすった。
その横では猛が、少しだけ居心地悪そうにして立っている。
でもこの少年も、何かしらを抱えているのだろう。隼人に放ったあの言葉。それを吐き出した彼の表情はとても苦しそうだったと、大谷は感じていた。
大谷はただ、立っていた。
突っ立ったまま、ただ胸からこみ上げる何かに耐えている。
目の前にいるこの三人。
口も悪けりゃ、敬語も使えない。
腹が減っただの、おしっこしたいだの、万引きしただの、嘘だの……可愛いとも言えないこの年下ばかりの三人が、なぜか大谷に熱い感情を抱かせる。
守りたい──簡単に言えばそうなのだろう。
そういった思いが、大谷の口から大声を吐かせた。
「大丈夫だ!」
われるようにエレベーター内に響いた、大谷の声。
それに三人はびっくりして、飛び跳ねるようにして視線を向ける。
大谷はかまわず、まるで変身前のヒーローのように、ビシッと右腕を上げて天井を指さした。
「大丈夫だ、俺が助ける! ここから脱出しよう!」
その大谷の言葉に「へ?」と沙都子がまぬけに応えた。
天井にある、パネルのような四角い枠。
排気口か点検口かは大谷にはわからなかったが、ここから脱出するのが、エレベーターに閉じ込められた際のセオリーというやつではなかろうか、と考えたわけだ。
アクションものやモンスターパニック映画で、主人公が敵から逃れるためにここから抜け出す……なんていうのを、大谷は何度か観たことがある。
しかしピンときていない猛は、そんな大谷に向け呆れた声を出す。
「おっさん、何言ってんだよ」
その声も聞かずに大谷は手を伸ばす。
しかし長身大谷でも、天井のパネルに少しだけ届かなかった。
「く、届かない……こうなったらジャンプで!」
が、しかし、そのジャンプがいけなかった。
突然箱の中で弾んだ大谷の体重により、エレベーターが大きく揺れたのだ。
「うわあ! マジやめろって!」
猛は壁に背をあて慌てて。
「きゃ、何してんのよー!」
沙都子は慰めていた隼人に、すがるように逆に抱きつく。
「うわーん! 落ちるのやだー!」
そんな腕の中で、隼人は恐怖を思い出したかのようにまた泣いた。
しかし必死な大谷に、その声は届かない。
二度三度と性懲りもなく飛び上がる。
その度にエレベーターが揺れ、その度に三人の悲鳴は響いた。
その声は紛れもなく大谷を止めるためのものだったのに、しかし大谷には、自分に助けを求めている声にしか聞こえていない。
彼の頭の中にはただ、年下のこいつらを助けねばという責任感が満ちている。
(そうだ……年長者のこの俺がこいつらを救えなくて、何が大人の男だってんだ!)
強く思う。
しかし、エレベーターの隅で隼人が泣き叫んでいるのが、自身が作り出している振動の恐怖からだということには気づいていない。
「大丈夫! もうすぐ届くから!」
そうしてジャンプして、また揺らす。
「だめだおっさん、聞いてねぇ!」
暴走し始めた大谷に呆れた猛の横で、ゆらりと立ち上がる者がいた。
怒りを覚えた、沙都子である。
「……あんた、マジで」
そう沙都子はつぶやき。
「いい加減にしなさい!」
と言ったと同時に、大谷が着地する瞬間を見計らって、彼のズボン腰部分を掴んで一気に下へ引っ張った。
その勢いのまま、大谷はエレベーターの床に思いきり尻もちをつくはめになる。
「あだっ!」
大谷の変な声と、叩きつけられた音が響き、エレベーターは揺れを徐々に弱めてようやく静かになった。
呆然とする大谷の背後から、沙都子は鬼の形相で見下ろし、スマホのライトを彼に向ける。
隼人と猛は、壁の隅っこにへばりついていた。
「とりあえず、落ちつけ」
沙都子の冷ややかな声が響く。
「は……はい」
しゅるる、とまるで空気の抜けた風船のように、大谷はしぼんだ。
沙都子は仁王立ちのまま、そんな大谷をじっと見て、はぁと深くため息をついた。
「どうしたっていうのよ、急に」
「え、あ、はい」
大谷は尻もちついたまま見上げる。
「俺のジョークより、タチ悪いぜ」
と横から投げられた猛の悪態にも、
「はい、すんません……」
なんて、自分が敬語を使い始めたことに気がついていない。
若者たちの言葉がぐさぐさと突き刺さっていたが、しかしまだ胸の奥には何かがくすぶっている。
沙都子のそばに近づいた隼人。
彼女を守ろうとしたのか自分が不安だったからなのかはわからないが、その横にひっつき大谷に恨みのような視線を向けてくる。
それは空回りをしまくっていた大谷への、無言の抗議である。
けれどその視線は、大谷にまた熱い感情を思い出させた。
そう。大谷はこういった、子どもの視線に弱いのだ。
「……って、思ったんだ」
ぽつりと吐かれた大谷の言葉は、三人の耳には届かず、首をかしげさせる。
それを見て大谷は、少しだけ泣きそうになり、またつぶやいた。
「お前たちを、助けたいんだ」
その言葉は、三人の目を見開かせた。
何を言っているんだこのおっさんは、とも思えるセリフではあったが、その裏の意味を三人はそれぞれに理解することはできた。
どうして、天井に向けてジャンプしていたのか。
その目的はなんだったのか。
どうしてそうしたのか。
そこから導き出される答えは、あまりにも成人男性にしては幼くて、でもとても純粋なものだと……沙都子は思った。
「ありがとう。でも、救助はちゃんと来るから」
「わかってる……わかってるよ!」
大谷はかぶりを振り「でも」と三人を見上げて、言葉を止めた。
尻もちをつけたままの大谷には、他の立っている三人の顔が、スマホの頼りない光で浮かび上がってよく見えた。
不思議なものだと大谷は思う。
この目の前にいる三人なんて、大谷にとっては縁もゆかりもないただの他人。
ただ偶然、同じ日同じ時間同じ場所に、閉じ込められただけの他人だ。
なのにそれを守りたいだなんて、バカじゃないのかと思う。
そうだ、バカだ。
この三人をまるで家族みたいに守りたいだなんて……──バカだと。
でも。
(……でも。家族だって、他人からのスタートなんだよ)
大谷は思い出す。
そうだ、大谷は他人だった嫁と作り上げたかったのだ。
最高の家族を。
偶然、大谷と嫁の間に生まれてくれた圭介と三人で。
そうしてそんな家族を、大谷は、ただ。
「……守りたいって思ったんだよ。……お前らを」
目を閉じれば思い出す妻子も。
目の前にいる赤の他人の三人も。
大谷にとっては、守りたいと思える存在。
偶然居合わせた四人を閉じ込めたエレベーターが、いたずらに大谷に思い出させた。
家族なんて所詮、他人なのだと。
このエレベーター事故のように、偶然居合わせた他人同士のようなものなのだと。
偶然嫁と出会って、偶然結婚にまでいたって、偶然生まれたのが今の息子で。
でも家族なんてきっと全部──偶然から、生まれている。
「……居ても立ってもいられなくて。すまない」
熱くなる心とはうらはらに、冷静さを取り戻した頭で、大谷は静かに謝罪をした。
三人はただ、黙ってそんな大谷を見下ろし戸惑う。
そんな視線を受けて、大谷は苦笑した。
(なんだこのおっさん、キモいって思われてるんだろうなぁ。そりゃあ、妻子にも逃げられますよ)
自嘲する。
しかしその苦笑も、長くは続かなかった。
あんなに沈黙を守っていたエレベーターが突然、ガタン! と大きく揺れ動き、光が戻ったからだ。




