11 そして
エレベーターは、ゆっくりと下降する。
その中に、さまざまな思いを乗せて。
大切なことに気づいた男が一人。
自信を取り戻した女が一人。
嘘に疲れた少年が一人。
泣き方を知った男の子が一人。
光が戻り動き出した箱の中、互いに動けず、顔を見合す。
ゆっくり下降し着いたのは、一階のエントランスホール。
開いた扉の向こうで、作業着姿の男が出迎えた。
「ああ、お待たせしました。大丈夫でしたか?」
そうして四人は、ようやくエレベーターから救出された。
・ ・ ・ ・ ・
閉じ込められていたのは、約四十分ほどだったらしい。
しかし閉じ込められていた本人たちにとっては、もっと長い時間のように感じていた。
早急に対処してくれた業者の男性は、四人に平謝りして、体調を気遣った。
「ええ、大丈夫です」
頭を下げる業者に対して、沙都子は答える。
大人である大谷と沙都子に業者の男はエレベーターの不良原因を説明しようとするが、機械に鈍い沙都子にはよくわからない。
そんな沙都子の背後で、スッと動く影があった。
それは、学生カバンを乱雑に肩にかけて、立ち去ろうとする猛。
あ、と沙都子は思ったが、声をかける暇もなく猛はビルから出て行く。
その姿は、すぐに消えた。
(何か、言ってくれてもいいのに)
少しだけの寂しさを感じてエントランスの自動ドアを見つめていたら、次は「あ、英会話!」と隼人の大きな声が響いた。
もう涙は引っ込んでいるらしく、慌ててエレベーター横の階段に駆け寄る。
そしてその前で振り返り、ぺこりと頭を下げた。
「おじさんお姉さん、ありがとう!」
お辞儀した反動で、ランドセルがガクンと背中から落ちそうになる。
それをまたよいしょ、と背負い直して上げたその表情は、明るかった。
「おう、気ぃつけてな!」
大谷はそんな隼人を微笑ましく思ったのか、明るく返事を返す。
その隣で沙都子も笑って、手を振り隼人を見送った。
子ども二人はあっという間に去りゆく。
残された大人二人は、気まずそうに視線を合わせた。
業者の男は「ちょっと今から点検しますね。あと管理人さんに今後の話もしておきます」と平身低頭にしながら点検を始めたのだが、それを見守る必要も特になく。
「……帰りますね」
と沙都子は言い、
「……ですね」
と、大谷は返事をした。
最後の最後に敬語を言い合い、二人は解散する。
沙都子は自宅へ帰るためにエントランスを出て、大谷は隼人と同じ階段を上り始めた。
その背中を見送りながら沙都子は、大谷はこのビルで何をしている人なのだろう、とぼんやりと思った。
あの中学生も小学生も。
何のためにあのエレベーターに乗っていたのか、沙都子にはわからない。
その理由を知ることは、今後きっとないだろう。
「なんか……変な体験しちゃったな」
外に出れば、もう夕方と夜の狭間。
赤と青のグラデーションが、空を彩っている。
振り返れば三日月を背景に、沙都子たちを閉じ込めたビルがただ建っていた。
大谷が三階の職場に戻ると、アシスタントである山田くんが悲鳴を上げていた。
L字にくっつけられた二つのデスク。
奥にあるのが大谷の席であり、その隣に横向きにひっつけているデスク山田くん。
彼は原稿にペンを当てたまま、悲壮な表情をしている。
「先生、やっと戻ってきた! もう逃げたかと思いましたよ〜!」
眼鏡の奥から恨めしげに見てくる山田くんの視線を流し、大谷は自分のデスクに近寄った。
「やあ、すまないすまない」
お尻のポケットに突っ込んでいた煙草とライターをデスクに置く。
煙草の箱がぺしゃんこになっているのは、先ほど年下女性に思いきり尻もちをつかされた結果である。
デスクの上には、休憩に行く前と変わらない原稿が、ペンを入れられるために待ち構えていた。
「一時間のタバコ休憩って、あんまりっすよ。俺に原稿預けられても、先生がペン入れしてくれなきゃ、進むもんも進まないんですからね!」
これまた年下に怒られて、本日の大谷の威厳と貫禄は無に帰した。
大谷のモットーで人物のペン入れまでは、すべて自分ですることにしている。
ベタ入れや背景、トーン貼りなんかはアシスタントの山田くんに手伝ってもらっていたが、今回ばかりは仕方ないのだと苦笑する。
「じつはちょっと、エレベーターに閉じ込められてね」
すると山田くんの鋭い目が、くるっと丸くなった。
「え、何すか。そのちょっと面白い話」
「はは。貴重な体験をしたよ」
笑いながら大谷が腰かけると、オフィス用チェアがギッと鳴った。
乱雑にされたデスクの端に置いてある、写真立てに手を伸ばす。
「でもなんか……大切なことを、思い出せた気がする」
その中には、大谷の笑っている妻子の写真があった。
小学生入学式の写真には、かしこまった圭介と微笑む妻の笑顔が写っている。
大谷は昔、普通のサラリーマンだった。
しかしそのかたわら、幼かった頃からの夢も捨てきれずに、細々と漫画を描き続けて投稿を繰り返していた。
その長年の努力のおかげか、青年漫画雑誌の新人賞を受賞し念願のデビューを果たす。
妻も最初は喜びついてきてくれたが、ある日突然、息子の圭介を連れて姿を消した。
当たり前だろう。
まだまだこれから子育てに金がかかるというのに、肝心の夫は夢を追いかけ、不安定収入となってしまったのだから。
でも──それでも。
大谷は写真をじっと見つめる。
デスクに置いてけぼりにされたスマホを手に取った。
「山田くん、ちょっと電話してくるよ」
「また出てくんすか?」
「大丈夫。今度は廊下で電話するだけだから」
「もー、早く帰ってきてくださいよ?」
ぶつくさと文句を言う山田くんに申し訳ないと思いつつも、大谷は焦る気持ちを落ちつかせるよう深呼吸して、また部屋を出た。
隼人は遅刻してしまったことに少しだけビクビクしながら、英会話教室の扉を開けた。
驚いた小花先生に、エレベーターに閉じ込められていた事情を説明すると、彼はすぐに隼人の母親に連絡を入れる。
先ほど、遅刻している隼人のことで連絡を入れていたそうだ。
「連絡を受けたママンがとても心配していたから、報告しなくちゃ」
とつぶやいた小花先生に、やっぱりこの人の英語はなんかおかしいなと隼人は思う。
そんな小花先生が耳に当てた電話の子機から、小さく母親の声が聞こえた。
『隼人、無事だったんですね!』
大声のせいで小花先生は慌てて耳から遠ざける。
「はい。何でも、エレベーターが止まって閉じ込められていたそうで」
『何ですって! け、怪我とかしてはいませんか? 大丈夫ですか?』
「え、ええ。あの、隼人くんに代わりますね」
どんどん大きくなる母親の声に、耐えられなかったのだろう。
小花先生は早々に隼人へ子機を手渡した。
隼人も少しだけ耳から子機を遠ざけて、声をかける。
「ママ」とつぶやくと『隼人!』と、母親の悲痛な声が届く。
隼人は一瞬怒られるかもと身構えたが、途端に小さく
『よかった……』
と、伝えてくれた子機を耳に当てた。
『怪我、してない?』
「うん」
『体調は悪くない?』
「……うん」
『そう……よかった!』
母親の声が、優しく響く。
それは、先ほどエレベーターの中で、沙都子に抱きしめられた時のことを隼人に思い出させた。
きっと母親がそばにいたのなら、隼人はまたぎゅっと抱きしめられていたに違いない。
さっきまで泣いていた隼人の涙腺は今、少し弱い。
「……ママ」
ちょっと震えそうになる声を抑えてそう呼べば、母親の『ん?』という柔らかい声が聞こえた。
隼人は思う。
大好きなママはいつも隼人を守ってくれて、心配してくれて、有害だと思われるものすべてを遠ざけようとしてくれる。
大切にしてくれる。
(でもねママ。ぼくきっともう……大丈夫なんだよ)
心は今、とても穏やかだ。
隼人はポツリとつぶやいた。
「ぼく、英会話嫌いなんだ」
『え?』
「へ?」
母親の驚きに重なって、小花先生も変な声を出した。
しかしそれよりも隼人は、母親の反応の方が気になる。
ずっと抱えていた気持ちを伝えた。
「ぼくね、サッカーがしたい」
『そんなサッカーなんて……危険じゃないの』
そう言われることはわかっていた。
わかっていたから、言えなかった。
でも、今は。
「友達がクラブしているの見たんだ。楽しそうでいいなって。友達もやろうって言ってくれて。だから、ぼく」
そこでひと呼吸置いて、
「サッカーがしたい」
と隼人は強く言う。
しばしの沈黙の後、子機の向こうから、柔らかい吐息の音が聞こえた。
それが隼人には、母親が笑ったように思えた。
『そっか』
そして母親は、言葉を続けてくれる。
『じゃあ、その友達のところに、見学行かなきゃね』
「……うん!」
隼人は笑った。
嬉しくて、たまらなかったから。
そうして細めた瞳からは、やはり恥ずかしいけれど涙がこぼれ落ちそうになる。
でも隼人は知っているのだ。
この涙は流してもいい涙なのだと。
だから隼人は、笑ったまま泣くという変な顔を、小花先生に披露する羽目になった。
帰宅した猛に「おかえり」を言ってくれる人は、誰もいない。
無駄に広いリビングは、エレベーターよりも静かに感じる。
猛は紙パックのジュースを飲み干すと、早々に二階の自室へと駆け込んだ。
夕食を買ってくるのを忘れた、と思い出すがもう遅い。
(今日は夕日、見られなかったな)
制服のままダイブしたベッドの上で、猛は今日のことを思い返していた。
あのビルの屋上へと続く扉の鍵は、壊れている。
それを知っていた猛はよく、あそこの屋上へと足を運び、沈みゆく夕日を眺めていた。
万引きをした日は、決まって屋上へと行く。
屋上から見下ろす街は小さいのに広くて、猛が犯した小さな罪なんて、そのオレンジ色に溶かして無くしてくれるかのように感じていた。
でもそんなのは、まやかしだ。
猛の罪は、溶けて無くなってなんかいない。
いつでもそこにあるのだ。
そう、そこに。
のっそりと起き上がると、猛にとっては禁断の扉であるクローゼットを開いた。
上部にある棚に乗せられた紙袋を、両手を伸ばしたぐり寄せる。
「……よっと」
引きずり下ろした紙袋を受け止め、そのまましゃがみこんで中をのぞいた。
その中身を見つめる猛の眉間に、しわが寄る。
ガムにミントタブレット。
少し前に流行したキャンディ。
使う宛のない便箋セットに消しゴム。
女子に人気のあった三色ペン。
それらはすべて、あのビル近くのスーパーで、猛が今まで万引きしたものだった。
使われることもなく放り込まれたそれらは、どこか寂しそうに紙袋で潰されている。
猛の手に渡らなければきっと、本来の役目を終え消費されていたであろう物たち。
心臓がまた、ぎゅっと痛い。
「結局つらいのは自分、か」
隼人に投げつけた言葉が、今さらながらに猛の心に突き刺さっている。
どの口がそれを言うんだと自嘲する。
「……っくそ」
ぼんやりと見え始めた紙袋の中身。
猛はまた、小さく舌打ちをした。




