7 夢〈水口沙都子〉
そうして、しんとしたエレベーターの中ではただ、微かなモーター音が小さく響いた。
大谷は下を向いたまま。
隼人と猛は、どうしていいのかわからないといった表情で、目を泳がせている。
仕方のないことだ。
他人の複雑な家庭事情なんて、子どもには荷が重すぎる。
それなのに、もう一人の大人である沙都子はフォローもできずに、ただ大谷が発した一言にぼぉっとしていた。
夢を追いかけちゃったから。
その言葉が、沙都子の頭にやたらこびりついて離れなかった。
(夢、か)
沙都子は思う。
家族を捨ててまで追いかけたかった夢とは、どんな夢だろうと。
ぼんやりと想像すればそれはまるで、日差しにきらめく大海のような、虹の橋がかかる地平線のような、そんな輝かしさと壮大さを、沙都子に見せてくれた。
変な羨望めいた感情が、沙都子に言葉を紡がせる。
「素敵じゃない」
その言葉に「え」と、大谷の顔が上がった。
「夢のために家族を捨てられるなんて、なかなかできないよ」
それは決して、揶揄めいた物言いではない。
しかし大谷は、苦虫を噛み潰したような表情を作る。
「それは嫌味かな?」
「まさか。私、嘘なんて言わない」
きっぱりと沙都子は言う。
そう、彼女はいつだって自分に正直であり、真面目に生きてきた。
だからだろう。
歩んできた道はいつだって、安全なものであり平凡だった。
それは決して悪いことではないはずなのに、なぜかいつだって沙都子に、後ろめたさを抱かせる。
「私には、夢ややりたいことなんて特になかったから。だからちょっと……羨ましいって思ったの。大人になっても追いかけたくなる夢って、どんなものかなって」
そんな沙都子の言葉に、三人は無言になる。
大谷にいたっては豆鉄砲を食ったかのような表情だ。
沙都子自身だって、変なことを言い出してしまったとは思っている。
こんなこと誰にも、沙都子は話したことがなかった。
夢を持てないコンプレックス。
単調な生活に満足して、成長を望まない自分が沙都子には、幼くてみっともないものだと感じていた。
だから大谷のような、夢を持ち実際に行動する人間は、沙都子にとっては羨ましい存在に見える。
そんなに熱くなれるものに出会えるのは、きっと幸福なことだ。
自分の薄っぺらい人生とは、きっと違うのだろうと沙都子には思えた。
しかし大谷は、息を吐きつつ呟いた。
「そんな立派なもんじゃないよ、夢なんて」
エレベーターの壁に背中を預けて、ゆっくりと語る。
「俺たちは現実で生きている。必ずしも、夢を持つ必要なんてないんだ。
むしろ、本当に夢を持っている人なんて少ないもんだよ。多くの人は必要に迫られて、その仕事や立場にいるんだから。
でもそれが、間違っているなんて思わない。現実でしっかり足をつけて生きていこうって、覚悟をしているんだから」
そこで大谷は言葉を切って、優しく笑った。
「夢追う人も、現実を歩いている人も……どっちも偉くて、しんどいんだ」
その言葉は、大谷にとっては自らにも言い聞かせているものなのかもしれない。
夢を追いかけてしまった大谷と、現実を生きていくため大谷を捨てた妻。
どちらも間違ってなんていないし、どちらも楽ではない道だったのだ。
そんな彼を見て、沙都子もぐっと息を飲む。
「……そうだね」
当たり前のことが長年わかっていなかったと、視線を伏せた。
沙都子の毎日はきっと、恵まれている。
就職した会社に慣れてきてお金を稼ぎ、休日には合コンに誘われ、家族とも問題なく暮らせている。
どうしてそれを、後ろめたいだなんて思っていたのだろう。
他人と自分を勝手に比較して、ないものを羨んで、自分が持っているものに気づいていないなんてもったいない。
コンプレックスを持つ必要なんてないのだと言われたような気がして、沙都子の心が少しだけ軽くなる。
すると人間というものは現金なもので、ずっと黙っていた隼人や猛に気づき、沙都子は急に申し訳なさを感じた。
「ごめん。なんか暗くなっちゃって」
「え? ……いや、べつに」
猛はいつもの口癖を口にして、しかし少しだけ険しそうに眉をひそめた。
それを見て沙都子は、やっぱり少し雰囲気を悪くしちゃったか、と反省する。
対して隼人は、ただまばたきをしてこう言ったのだ。
「大人も、大変なんだねぇ」
どこかのんびりとした言い方に、沙都子は大谷と顔を見合わせた。
大谷も面白く感じたのだろう。目尻を下げてしわを増やす。
そうして微笑み合って沙都子は、心の中で静かに願った。
このランドセルを背負っている少年も、学ランを着た中学生も。
いずれ大人になるのだろう。
それならばその時は迷わないで、と。
夢と現実で揺れ動くだろう己の心を、しっかりとつかまえておいて、と。
小さく願った。




