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6 償い〈大谷恭司〉

 大谷は歌った。

 とりあえず歌った。

 なるべく途切れないようにと歌うので、歌自体はそうとうに酷いものだ。

 しかしなぜか、子どもたちにとっては面白いらしく、エレベーターの隅で猛と隼人はクスクスと笑う。

 隼人は今、猛の背後に隠れていた。

 エレベーターの壁に体を向けて、ペットボトルへと用を足している。

 狭いエレベーターの中、沙都子は隼人に配慮し、反対の壁に顔を向けて見ないようにしているが、耳にはどうしても大谷の変な歌が入ってしまう。その肩は、小刻みに震えていた。

 それに気づいていながらも、大谷は隼人が安心して用を足せるように、歌声をさらに響かせるのだ。


「ラララー♪ セミにおしっこひっかけれたあの夏〜♪ ズボンにかけられた俺におもらしの疑惑〜♪」


 あんまりな歌詞に、猛はまた「ぶはっ」と堪えきれずに吹いてしまう。


「おっさん、わざとやってんのかよ!」

「いやこれ、実話なんだけど」

「まじか……」


 なんてことを話していたら、猛の背後から隼人がひょっこりと顔を出した。


「ありがとうおじさん、もう終わったよ!」

「お、そうか」


 隼人が見せてくれた笑顔に、大谷の気持ちがホッと和らぐ。

 それと同時に思い出してしまったのは、さっき自ら歌った歌詞の内容で思い出してしまった、息子との過去の出来事。

 あれは息子の圭介が、まだ幼稚園児の頃だ。


 夏なのに涼やかな風吹くその日に、近所の大きな公園へ、家族三人でピクニックへと出かけた。

 圭介にいいところを見せようとミンミンゼミを狙ったが、逃げられついでにおしっこを引っかけられてしまう。

 幼い圭介は「きゃはは」と笑っていた。

 その背後では、セミの声と夏の日差しに包まれて、日傘を持った妻が穏やかに笑っている。

 太陽を背負って、にっこりと──……。

 いつからだろうか。その微笑みに、影が差すようになったのは。

 そのことに、鈍感で無神経な大谷は気づけなかった。

 気づいた時にはもう、取り返しのつかないことになっていたのだ。

 今、こうして隼人に親切にしているのも、大谷にとってはせめてもの償い。

 妻子の笑顔を曇らせてしまった自分には、こんなことくらいしかできないと、大谷の心は締めつけられる。


「これで手を拭いてね。あと、これにペットボトル入れて」


 大谷の横で、沙都子がてきぱきと動いた。

 ウェットティッシュを差し出し、コンビニ袋にペットボトルを入れ処理をする。

 これでは一体、どちらが頼れる大人なのかわからない。

 きっと沙都子のような子が、立派な社会を作っていくのだろう。

 そんな半ば、羨望にも似た思いで大谷が沙都子を見つめていたら、目が合った。


「見ないでよ」

「え。……ああ、ごめん」


 そうだよな、こんなおっさんに見つめられたら気持ち悪いよな、と大谷は落ち込む。

 しかし、縛ったコンビニ袋をエレベーターの片隅の床に置いた沙都子は、くすりと笑ったのだった。


「ふふ。笑っちゃうからさ。あんまり見ないで」

「へ?」


 大谷が顔を上げると、沙都子は震わせた肩を抱えるようにしてそっぽを向いている。


(えっと、もしかしなくても……笑いをこらえてる?)


 目をパチパチさせる大谷へ、三人はそれぞれ歌の感想を述べ始めた。


「あんな変な歌、聴いたことない」と沙都子。

「だよな、しかもメロディもおかしいしさ!」

 猛も口角を上げて笑っている。

「でもぼく、あのメロディ何だか頭に残っちゃった!」

 最後に隼人がそう言い、三人はまるで示し合わせたかのように爆笑した。


 狭いエレベーターでこだまする、若い者たちの笑い声。

 それはまるで、先ほど思い出していた夏の日のセミのような、うるさくも心地良いやかましさで──大谷の心をまた、ぎゅっと苦しくさせた。

 ついと目頭が熱くなる。

 自分はこんなにも涙もろかっただろうか、と慌てて大谷は顔を上にあげた。

 ばれないようにと必死にそうした動作を、沙都子が目ざとく見ていた。


「もしかしておじさん、泣いてる?」

「……ははは」


 やっぱりキモいおっさん決定かな、なんて覚悟する。

 しかし存外に、沙都子は引くこともなくただ小さく微笑んでくれた。

 それがふいに、大谷に安心感を与える。

 まるで、情けない自分でもいいのだと言われたような安堵感を得て、ついと言葉をもらしてしまう。


「ちょっと……家族を思い出してね」


 笑っていた三人が大谷に目を向ける。言葉を続けた。


「逃げられたんだ、妻と子どもに。それをなんだか思い出してしまって。……はは、情けないね」


 語尾は気弱になってしまったのか、小さくなって掻き消えた。

 その言葉を三人は黙って聞いて、そして何も言わなくなった。

 どうしてこんな話をしてしまったのだろうかと、大谷は心の中で苦笑する。

 見知らぬ女子どもに、する話題じゃない。

 わかっているのに、先ほどこのエレベーターで響いたみんなの笑い声が、大谷の心境をおかしくさせてしまった。

 もう戻れないあの日々を、笑い声が思い出させた。


 まるで忘れないでと、訴えるかのように。


「……なんで、捨てられたの?」


 そう呟いたのは隼人だった。

 幼い声に、大谷の視線がそちらに向く。


「おじさん、かわいそう……」


 子どもらしい素直な感想に、大谷の目は細くなる。優しい子だ。

 大谷は困ったように笑い、そして答えた。


「夢を、追いかけちゃったから」


 大谷は、エレベーターの床を見つめ言葉を続けた。

「だから、先に捨ててしまったのは、俺だったのかもしれないな」


 先ほどの笑い声が嘘のような静寂が、エレベーター内に満たされる。

 大谷の言葉にしばらく、誰も何も、言葉を発することができなくなった。

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