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5 緊急事態〈小池隼人〉

 その時隼人は、突然訪れた試練に必死だった。

 両手でしっかりランドセルの紐を掴みつつも、足を内股にしてモジモジと、迫りくる尿意に耐えている。

 先ほど女性からもらった、あのお茶のせいだ。


(ぼくのバカ! 何であんなに、お茶を飲んじゃったんだろう)


 もしここに母親がいたのなら、叱られていたに違いない。

 しかもここはエレベーターの中。もちろんトイレなどないのだ。


(どうしよう。救出されるまで、我慢できるかなぁ)


 女性の話では、一時間くらいはかかると言っていた。

 しかし、まだ現状は十分ほどしか経っていないし、そもそも一時間以上かかる可能性もあるのだ。

 そう考えるほどに、トイレへ行けることを絶望的に感じて、ますます隼人の尿意は切迫する。

 我慢しなくては……と、ぎゅっと目を閉じる隼人。

 そんな彼に、猛が声をかけた。


「おい。お前もしかして、トイレ行きたいのか」

「うっ」


 猛からの指摘に、隼人はビクッと体を揺らす。

 それにつられて他の二人も、隼人へと注目した。

「そうなのか坊主!」と叫んだのは大谷だ。

 大谷と沙都子の視線に恥ずかしく思いながらも、隼人は小さくうなずいた。

 しかし今は、気づいてもらえた安堵の方が強い。

 涙目の隼人を見ながら、沙都子は頬に手を当てうなる。


「トイレかぁ。どうしよう」

「どうしようも何も、閉じ込められているしなぁ」


 大谷も困ったように腕を組む。

 隼人のピンチが伝わったとはいえ、それで尿意が解消されることはない。

 大人を困らせていることに罪悪感を覚えて、隼人はまたうつむいた。

 母親には、他の人に迷惑をかけないように、と強く言われていたのに。


(どうしよう。こんなの迷惑だよね)


 うつむいた隼人の視線。

 しかしその先に突然、にゅっとペットボトルが現れた。差し出したのは、猛だった。


「これ使え」 

「えっ」


 それは、先ほどまで隼人が飲んでいたお茶のペットボトル。

 すべて飲みきられて、今は空っぽのそれを差し出された意味。

 そんなのは、小学四年生の隼人にだってわかる。


「ああ、それがあったな」


 大谷はホッとしたように笑ったが、隼人の顔は引きつった。


「やだよ、そんなのにするなんて!」


 小学生だって羞恥心はある。

 こんな密閉した空間で、他人もいるのに排泄行為をすることは、大変に恥ずかしいことだ。

 学校の個室トイレに入るのだって「ウンチをしていると思われちゃう」なんて、躊躇する年代なのだ。他人の目には敏感である。

 そんなのは、最近まで小学生だった猛にだって十分わかっている。

 けれど現状の解決策はこれしかないのだ。わがままなど聞いていられない。


「うるせえ。漏らしてぇのか」


 自分よりも遥か高い視線から見下ろされる威圧感に、隼人は「うぅ」と小さく縮こまった。

 じわりと、その目尻が濡れそうになる。


(何だよ、このお兄ちゃん……チョコくれた時は優しいって思ったのに。まるで不良みたいじゃん!)


 差し出されたペットボトルを受け取れずに、隼人はグッと唇を噛みしめる。

 こんなエレベーターに閉じ込められて尿意を感じ、あまつさえペットボトルを差し出された隼人の心境は、ただただ情けなくて悔しいという感情だ。

 今にもその目尻から、光る涙がこぼれそうになる──その時だった。


「ラララー♪ おじさんは聞いてないー♪ 何にも聞いてないー♪」


 変な歌が、エレベーター内に響き渡った。

 隼人と沙都子と猛は、その歌声の主に目を向ける。

 大谷だった。


「大声で歌っているから音は聞こえな〜い♪ だからー気にしなくてーいいんだよー♪」


 口を開けて、聞いたこともないテンポの曲を歌っている。


「気にせずトイレにー、いっトイレー♪」


 最後に「レ〜」を響かせる大谷。

 その声は、三人の視線が突き刺さるにつれ徐々に「レ〜……」と弱まっていく。

 歌の後に小さな声で、


「……なーんて」


 と、呟く。

 一瞬の静寂のあと。

 最初に沈黙を破ったのは、意外にも猛だった。


「……ぶは! 何だよその歌!」


 それで堰を切ったかのように、隼人と沙都子も笑い出した。


「あははは! やだぁ、それいい、ナイスアイディア!」


 と、沙都子は笑い。


「てか音痴すぎっしょー」


 猛はさらにつけ加えた。それにつられて隼人も、


「いっトイレーって、ぼく初めて言う人見たよ!」


 なんて、目尻を擦っている。

 面白くておかしくなってしまった隼人は、さらにおしっこが漏れてしまいそうだ。

 三人が思った以上に笑うものだから大谷は困惑し、しかし嬉しそうに目を細める。


「は、ははは……そっかな?」


 その顔は、隼人から見てもとても情けない表情。

 しかしとても、優しそうに見えたのだった。

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