4 腹ごしらえ〈神林猛〉
少しだけ緊張が解けた、エレベーター内の雰囲気。
それまで沈黙を守っていた神林猛の心持ちも、いくぶんかほぐれた。
中学二年生の彼は、見知らぬ大人がいると口数が減ってしまう。
それはこの年代の者として、ごく当たり前な傾向だろう。
しかし、一度気が緩めば打ち解けるのが早いのもこの年頃の強みだ。
アニメやゲームでしか聞かないようなお腹の音を聞かされて、猛もすっかり緊張が解けた。
「おい、これ食うか?」
そう言って猛は、学校指定のカバンからお菓子を取り出した。
チョコレート菓子だ。
黒パッケージで「高級」と安っぽく書かれたそれは、最近コマーシャルで人気のちょっと大人っぽいチョコレート菓子。
差し出された隼人はびっくりした。
「いいの?」
きょとんと見つめる隼人に対して、猛はかまわずにずいっとそれを押しつける。
「やるよ。俺はいらねーから」
「お、優しいな少年」
そんな猛に、隣にいた大谷が声をかけるが、それは無視されてしまう。
俺はお前に話しかけてねえっつーの、なんて猛は冷たく思う。
隼人はそんな猛の行動に困惑したようだったが、しかしお菓子の誘惑には勝てず、おずおずとチョコレート菓子に手を伸ばして受け取った。
「ありがとう」
笑った口からこぼれたお礼。
それを受けて、猛の心に針を刺されたみたいな痛みが走った。
──俺は、お礼を言われるような人種じゃない。
そう思った猛の視線は、下に落ちる。
「べつに」
そっぽを向いた猛の視線など気づかずに、隼人はパッケージの箱を開けた。
中からビニール袋を取り出し、不器用に破く。
現れた黒く丸いチョコレートに、目を輝かせた。
「うわあ、これ食べてみたかったんだ!」
「それ、今テレビで宣伝してるやつよね。ビターっぽいけど大丈夫?」
やり取りを見ていた沙都子が、口を挟む。
小さい子どもにはやはり話しかけやすいのか、大谷へとは違い柔らかい物言いだった。
「うん! ぼくビターよく食べるから」
「へぇ、おっとなー」
感心したようにそう言った沙都子だったが、次の隼人の言葉に一瞬、言葉を失った。
「ママがね、チョコはカカオ七十パーセント以上のものしか食べちゃダメだって」
「え?」
チョコを口のまわりにつけて食べる隼人は、沙都子のその反応に気がつかない。
同じく聞いていた大谷と猛も一瞬頭をひねってしまったが、隼人は気にせずに言葉を続けた。
「そっちのが体にいいんだって。他の甘そうなやつぼくも食べてみたいんだけど、ママは絶対買ってくれないんだ」
「自分で買えばいいじゃんか」
猛はつい、口を挟んでしまう。
カカオ七十パーセントのチョコレートは猛も食べたことはある。
たしか苦かったよなと思い返して、それを目の前の小さな小学生が食べていたことに少し驚く。
「財布はママが預かっているから、無理なんだ」
隼人の返事にますます猛は目を丸めた。
「はぁ? 何でだよ」
「ぼくが持ってると、無駄遣いするからって」
「はぁー?」
小学生なんて無駄遣いしかしねーよ!
と、最近小学生であった猛は、自分のことでもないのに憤る。
その横で大谷が「それはまぁ、教育熱心なママさんで」と呆れたように呟いていたので、己の感覚は合っているのだと安心をした。
そんなまわりからの反応を受けて、隼人は小さく笑う。
「そうかもしんない」
それはどこか、薄い笑いだった。
先ほどチョコレートを受け取ったような眩しさはどこにもなく、何かを諦めているかのような瞳に、猛は隼人の背景が見えたような気がした。
(食うもんから金まで、管理されてるのかよ。かわいそうなやつ)
でも……と、猛はすっと目を細めた。
(誰からも見られていないのと、どっちがマシなんだろうな)
そう思った猛の脳裏に浮かぶのは、今朝見たリビングの風景。
いつもどおり、誰もいない朝のそこには、テーブルの上に無造作に千円札一枚が置かれているだけ。
これで、昼食と夕食をどうにかしなさいという無言の指示。
いつからか、添えられる文章もなくなってお金だけが置かれるようになっていた。
そんなのは別にいい、いつものことだと猛は思う。
そう、いつものこと。
いつものように、誰にも見られていない。
見られていないなら、見てもいないなら……それなら盗まれても文句はねぇよな?
と、猛が自論を生み出すのに、そう時間はかからなかった。
スーパーの棚から、わざと滑り落としたチョコレート菓子。
ゲームのようにあっさりとカバンにゴールしたそれを、いつものように冷たい視線で猛は受け止めて、カバンの蓋を閉める。
何も知らない隼人に、それを猛は与えた。
(べつにだから、何だってことはないけどさ)
重くなりそうな頭を振り、猛は隼人を見つめる。
隼人は喉も乾いたのか、沙都子からペットボトルのお茶をもらい満足そうにしていた。
こんな状況下でも、無邪気なものである。
どうやらお腹の減りはおさまったらしい。
「どうもありがとう! お兄ちゃん、お姉ちゃん」
隼人はチョコレート菓子とお茶のお礼を、それぞれに述べる。
その笑顔が眩しく見えた猛は、なぜか小さくムカつきを覚えて視線をそらした。
「べつに」
そう言った猛の横で、大谷がガハハと笑う。
「少年は『べつに』が口癖だなぁ」
「はぁ? 何言ってんの」
急に馴れ馴れしくなった大谷の態度に、猛は人馴れしない猫のように睨みつけた。
「あ、いやその。ただ、そう思っただけで」
大谷はまた余計な一言を言ってしまったと反省するが、そんなのは猛にはわからない。
ふん、と鼻息を鳴らして猛はそっぽを向く。
中坊に睨まれたくらいで慌ててバカみてぇ、なんて冷たく思う。
しかしその時、猛は気がついた。
隼人の様子がどうも、おかしいことに。




