3 沈黙〈水口沙都子〉
水口沙都子は、やれやれとため息をついた。
その隣では大谷が、
「とりあえず、あと一時間の辛抱だから頑張ろうな!」
と、子どもたちに声をかけている。
一体、何を頑張れというのか。
見当はずれな声かけをしている大谷を尻目に、沙都子は今後の自分の段取りを頭で考えていた。
沙都子は、この近辺にある中小企業の営業社員だ。
文房具を取り扱う小さな会社で、取引先もこの近辺が多い。
今日は営業先へ新商品のお知らせをする予定だったが、こうなってしまったはもうできないだろう。
腕時計を見れば、時刻は午後の五時過ぎとなっている。
(とりあえず会社には連絡……しなくてもいいか)
ホワイトボードには「直帰」と書き込んだ。
営業職のいいところは、自分のスケジュールがある程度コントロールできる点だ。
今日行けなかった得意先は事前連絡もしてないし、明日回ればいい。
頭の中で算段がついたところで、沙都子は小さく息を吐いた。
あらためてエレベーター内を見渡せば、男ばかりの風景。
しかし子どもが多いので、むさ苦しくなくてよかったと失礼にも考えてしまう。
そうしてしばらく流れる沈黙の時間。
大谷の見当違いな励ましから、このエレベーター内では誰もしゃべらずに、ただ静かな時が流れていた。
無理もない。
ここに閉じ込められているのは、見も知らぬ赤の他人なのだから。
世間話ができるほどの余裕も、沙都子には今はない。
それは他の三人も、同じように見えた。
小学生の隼人は仕方ないにしても、中学生男子は当事者でないかのように無関心にそっぽを向いているし、大谷は落ちつかないのかポリポリと頭を掻いている。
それを見て沙都子は「フケとか出ないかな。やめて」なんて考えてしまう。
(あーあ。……ついてないな)
思えば、水口沙都子という女の人生は、ついているということも特にない平坦な人生だ。
今日みたいな厄介ごとや事故もなく、平々凡々とした人生が沙都子のものだった。
きっとこれからもそうだろうと沙都子は思い、そして思考は今週末のスケジュールに向けられる。
(そういえば今週末、合コンに誘われてたな)
社会人五年目、二十七才。
そんな彼女のまわりでは、ちらほら結婚や出産の波が来ていて、そろそろ何か動かなければいけないのかな、なんてぼんやりと沙都子も思うようにはなってきていた。
しかし気乗りするかどうかは、別な話で。
(面倒くさいな)
そう思ってしまう。
仕事に対しての不満は今のところないし、恋愛ごとには昔から淡白な方だ。
今時三十過ぎてからの結婚は珍しくもないのだから、のんびりと過ごさせてほしいなんて考える。
(ていうかさ、三年ぶりの連絡が合コンの誘いってどうなのよ)
それよりも、希薄になりつつある友人関係の方が沙都子にとっては重要だ。
(あの子、私のこと引き立て役として呼んでない?)
嫌な考えが沙都子の頭をもたげた時だった。
きゅーぐるるる、と。
まるで漫画のような、お腹の鳴る音がエレベーター内に大きく鳴り響いた。
その音を受け、一斉にエレベーター内のメンバーが顔を見合わせる。
しかし、なぜか大谷と中学生男子は、沙都子の方に視線を向ける。
それに気がついて、沙都子は慌てて口を開いた。
「ち、違うわよ! 私じゃないってば!」
両手を前に出し慌てて振る。
そんな彼女の隣で、隼人がおずおずと右手を挙手した。
「ご、ごめんなさい。ぼくです」
赤面して、ちょいと手を挙げる隼人は照れ隠しかのように小さく笑っている。
隼人が、沙都子たちに初めて見せた笑顔だった。
それを見て、中学生男子の口から「ぷっ」と小さく息が漏れる。
沙都子の口端からも、笑みがこぼれた。
「あははは、そうだよな! 夕方だし、腹も減るよなぁ」
豪快に笑ったのは、大谷だった。
どこかホッとしたようにも見える柔らかい笑みを浮かべて、目尻にくしゃりとカラスの足跡を作っている。
それを受けて、照れた隼人は反撃するように怒ったような表情を作った。
「わ、笑わないでよ! 今日の給食、お代わりできなかったんだから」
「何だ坊主、争奪戦に負けたのか」
怒られたのに、どこか大谷は嬉しそうに言葉を返す。
子どもとの会話に慣れている様子に、もしかしてお子様がいるのかなと沙都子は考えた。
「だってハンバーグ、人気だもん」
隼人はふくれっ面のまま、でも先ほどよりも温かみのある顔で、大谷に答えた。
そうか、今の子の人気給食メニューはハンバーグか、なんて沙都子は考えて笑う。
そんな小さなことがやけに微笑ましく思えて、先ほどまでのささくれ立った気持ちが、少しだけ薄らいでいた。




