第5話 金曜日
金曜日。
傷心と寝不足、そして手の甲のズキズキとした疼きを引きずり、私はいつもの場所へ向かった。
傷口は包帯の下で、心臓の鼓動に合わせてジンジンと熱を持って脈打っている。
だけど、それ以上に胸の奥が重い。
あんな爆音で驚かせたんだ。もう二度と、この路地に銀色の影が落ちることはないかもしれない。
「……いないよね、やっぱり」
路地裏は、死んだように静まり返っていた。
室外機の上にも、アスファルトの隅にも、あの燐光を放つ瞳はない。
ただ、雨上がりの湿った湿気と、鼻を突く生ゴミの腐敗臭が、肺の奥まで侵食してくるだけだ。
ふと、遠くで救急車のサイレンが鳴っているのが聞こえた。
頭の奥にこびりつくように流れるその音が、私に最悪の結末を予感させる。
「銀……っ」
冷たい指で背筋をなぞられたような戦慄が走る。
あの時、もしパニックのまま車道に飛び出していたら。私のせいで、あの小さな鼓動が止まっていたら――
「銀! 銀!」
なりふり構わず走り出していた。
路地裏を抜け、住宅街を抜け、公園へ。冷たく乾いた夜風が喉を焼き、肺の奥に錆びた鉄の味が広がる。
ハァ、ハァ、ハァ……
自分の鼓膜を叩く荒い呼吸音だけが、深夜の静寂の中でやけに耳障りに響く。
いない。どこにも。
足がもつれ、視界が絶望で暗く染まりかけた、その時だった。
公園の奥。街灯の下に、ポツンと人影があった。
ベンチに座る男性。そして、その膝の上には――
「……あ」
銀色の毛並み。
街灯のオレンジ色の光を浴びて、神々しいまでに輝くその姿。
間違いなく、銀だ。
彼は男性の膝の上で丸くなり、背中を撫でられながら、遠目にも伝わるほど深く、重低音の「ゴロゴロ」という音を響かせている。
「……よかった」
無事だった。その安堵で、膝の関節から一気に力が抜ける。
だけど同時に、胸の奥に冷たい鉛を流し込まれたような疎外感が襲った。
やっぱり、飼い主がいたんだ。
私はただの不審者で、彼は温かい「家」へ帰る途中だっただけなんだ。
帰ろう。私が関わっていい存在じゃない。
踵を返そうとした瞬間、男性が顔を上げた。
「……え、陽葵?」
その声に、心臓が跳ねた。
記憶の底に刻み込まれた、少し低くて、懐かしい響き。
恐る恐る振り返る。
街灯に照らされたその顔は、記憶の中より少し大人びているけれど、あの勝ち気な瞳は変わっていない。
高校以来、一度も会っていなかった幼馴染――湊だった。
「……湊? あんた、なんでここに」
「え、俺、先月から近くに住んでて……って、お前こそ何そのボロボロな姿」
湊の視線が、私の青白い顔、包帯の巻かれた手、そして足元の銀を往復する。
気まずい沈黙。風が木々を揺らす「ザワザワ」という音だけが大きく聞こえる。
沈黙を破ったのは、猫だった。
銀は私の方を見ると、「ニャーン」と甘く一鳴きし、湊の膝から軽やかに飛び降りてきた。
そして、私の足元に体を擦り寄せる。
ストッキング越しに伝わる、驚くほど柔らかい毛並みと、生き物特有の温もり。
「え?」
私と湊の声が重なる。
「お前……もしかして、この猫に会いに来たのか?」
「……まあね。毎日貢ぎ物をしては、ガン無視されてたけどさ」
私が自虐的に笑うと、湊はポカンと口を開け、次の瞬間、お腹を抱えて吹き出した。
「あはは! 犯人はお前だったのか!」
「は? 犯人?」
「だってこいつ、月曜から毎日、すっごい高級なごはんの匂いさせて帰ってくるんだもん」
「……はい?」
私の思考回路がフリーズする。
「口の周りをテッカテカにして、高級な出汁の香りをプンプンさせて帰ってくるのよ。おかげで、俺が用意した安いカリカリなんて『フン』って見向きもしないし」
湊が呆れたように、でも楽しそうに続ける。
「外でいい女捕まえて美味しいもの貰ってるのか〜、なんて話してたんだけど……まさか陽葵だったとはな」
私は恐る恐る、足元の銀を見る。銀は「何か?」と言わんばかりに、優雅に前足を舐めて顔を洗っている。
「……銀」
私の声が震える。私が失意の中で置いて帰ったあのご飯を、全部……?
「私が見てる前ではツンとして、私がいなくなった後にこっそり戻って完食してたわけ!?」
「あははっ!一口も食べてないフリして、毎日グレードアップするのを狙うなんて……策士すぎるだろ」
湊が笑いながら、銀の頭を撫でる。銀は気持ちよさそうに目を細める。
「……何よそれ。私、完全に弄ばれてただけじゃない」
思わず全身から力が抜ける。
私の悩みも、苦しみも、昨日の絶望も。全部、この猫の肉球の上で転がされていただけだったのだ。
手の甲の傷が、急に「名誉の負傷」のように思えてくるから不思議だ。
「ふふっ。まあ、でも……」
湊が、ふと真面目な顔をして、私を見た。その瞳が、街灯の光を反射して揺れている。
「お前の前だと素直になれないなんて、飼い主に似たのかな」
「……え?」
時が止まった。湊がハッとして、慌てて口元を手で押さえる。端正な顔が、耳までみるみる赤く染まっていくのが見えた。
「……い、今のなし! 忘れろ!」
「いや、ばっちり聞こえたけど」
「うるせえ! ……あーもう、最悪!」
湊は乱暴に髪をかき上げると、私を睨んだ。その目は、昔バレンタインデーに本命チョコを突き返された時と同じ……いや、違う。
あの時は気づかなかったけれど、今の私なら分かる。
それは拒絶ではなく、精一杯の照れ隠しの瞳だ。
「……とりあえずさ、余ったそのおやつ、ウチで一緒にあげるか?」
湊が視線を逸らしたまま、ボソッと言う。
「……いいの?」
「一人であげるの下手なんだろ? 手も怪我してんだし、俺が消毒ついでに教えてやるよ」
「そうね。……じゃあついでに、極上のビールとおつまみも奢ってもらっていい?」
「ふふっ、それ銀も狙ってくるぞ?」
「上等じゃない!負けないわよ」
湊がベンチから立ち上がる。銀が嬉しそうに、二人の間を八の字に歩き、ゴロゴロと喉を鳴らす重低音が夜に響いた。




