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残業帰りの社畜、路地裏の「塩対応なイケ猫」に貢ぐ  作者: あとりえむ


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第6話 土曜日

土曜日、13時。

目が覚めると、見慣れない白い天井が視界に飛び込んできた。


「……あれ? ここ、どこ……?」


一瞬、心臓が跳ね上がる。まさかまた寝ぼけて会社に出社したのかと焦ったが、漂ってくる匂いが違った。

コピー機のトナーと加湿器の生ぬるい匂いじゃない。

ニンニクとバター、そして少し焦げた醤油の香ばしい、猛烈に食欲をそそる匂いだ。


そこでようやく、昨夜の記憶が鮮明に蘇る。

ボロボロになって銀を捜し回っていたこと、公園の街灯の下で幼馴染の湊と再会したこと、そして手の怪我の消毒ついでにウチに来いと不器用に誘われ、彼の部屋のソファーを借りて泥のように爆睡してしまったこと──



「あ、やっと起きたか。社畜女子」


そこには黒いエプロンを身に纏った湊が立っていた。フライパンを煽る姿が、悔しいくらいに様になっている。


「……湊。私、お昼過ぎまで寝てたんだ」


「すぎ、じゃねえよ。もう13時半だ。ほら、座れ。ちょうど飯ができる」


差し出されたのは、私の大好物であるベーコンとキノコの和風パスタだった。

ふと自分の手元を見ると、昨日までの自分で巻いた雑な包帯の代わりに、驚くほど丁寧に新しい包帯が巻き直されている。


「これ……湊が巻いてくれたの?」


「お前が爆睡して起きないからだろ。……一応、傷口は綺麗に洗って消毒しといたから。その程度なら跡は残らないと思うぞ」


湊はふいっと視線を逸らし、パスタの皿をテーブルにドンと置いた。

いつものツンツンした態度。だけど、その耳の端が微かに赤い。昔からこいつは、優しいことをする時に限ってこういう顔をするのだ。


「……いただきます。……ん、美味しい!!」


「……多めに作ってやったから、しっかり食え。一週間、まともなもん食ってなかったんだろ」


二人で並んで遅めの昼食を摂る。

お腹が満たされていくうちに、昨夜からずっと胸の奥に引っかかっていた疑問が、ぽろりと口から溢れ出た。


「ねえ、湊。……高校の時のこと、なんだけどさ」


「……あ?」


「バレンタインの時。私、一応あれ、本命のつもりで高いチョコ買ったの。なのに、あんた『重い愛が入ってそうで無理』って……。あの時、本当に私のこと嫌いだったの?」


湊のパスタを巻いていたフォークが止まる。その目は、信じられないものを見るように私を凝視していた。

そして次の瞬間、彼の顔が髪の毛の付け根まで真っ赤に染まる。


「……お前、本気で言ってるのか?」


「え?」


「嫌いなわけないだろ! あの時、お前が急に……なんか、いつもと違う大人っぽい格好してくるから、俺がパニックになっただけだ! 素直に受け取るのが恥ずかしくて、頭に血が上って……あんな最悪な言い方しかできなかったんだよ!」


数年越しに明かされた、致命的な誤解。

あまりの勢いに、今度は私の脳がフリーズする。じゃあ、あのトラウマは、ただの湊の「究極の照れ隠し」だったっていうこと?


「ニャーーーン♪」


そんな甘ったるい声が、私たちの足元から響いた。

見下ろすと、銀色の美しい毛並みを誇る銀が、私のスネにこれでもかと体を擦り付けている。昨日までの、あの路地裏での冷徹な「塩対応」はどこへ行ったのか。完全に「おやつを出す下僕」としてロックオンしている。


「……あ、そういえば、これ。まだポケットに残ってたんだ」


私はリクルートスーツのポケットから、昨日食べかけのまま残っていた『最強の兵器(液状おやつ)』を取り出した。

カサッ、とビニールが鳴った瞬間、銀の瞳がパッと輝く。


「ほら、おいで。銀」


今度は、空気を読まない上司からの鬼電も鳴らない。静かで温かいリビング。

銀は私の膝に前足をかけると、差し出したペーストを「ペロペロ、ガツガツ」と一心不乱に舐め始めた。

指先に伝わる、ジョリッとした生き物特有の温かい感触。今回は邪魔されることなく、その愛おしさを存分に噛み締めることができた。


「……完全に味を占めてるな、こいつ」


湊が呆れたように笑いながら、銀の背中を撫でる。

私も反対側から手を伸ばし、その滑らかな銀色の毛並みに触れた。

偶然、銀の小さな体の真上で、私と湊の手が優しく重なる。


「あ……」


「……」


ハッとして手を引こうとした私の手首を、湊の大きな手が、少しぶっきらぼうに、だけど解けない強さでキュッと捕まえた。


窓の外を見ると、いつの間にか夕暮れのオレンジ色の光が部屋に差し込んでいる。

ブラック企業に心も体も摩耗させられた暗黒の一週間だったけれど、驚くほど満たされた、最高の土曜日だった。


「あ、もうこんな時間……。そろそろ帰るね」


これ以上ここにいたら、心臓が保たない。そう思って、私は名残惜しさを隠しながらソファーから立ち上がり、玄関へ向かった。


湊は、私の後ろを静かについてくる。


「……明日は、何か予定あるの?」


靴を履こうと屈みながら、私は振り返らずに答えた。


「うーん。溜まった掃除とか、洗濯とか、するくらいかな」


私の知ってる昔の湊なら、「そっか、じゃあな」とぶっきらぼうに見送るはずだった。

だけど、今日の彼は違った。


背後から、不意に温かい塊が押し寄せる。

驚く間もなく、湊の長い腕が私の前で交差され、後ろからぎゅっと抱きしめられた。


「……っ!? み、湊!?」



耳元で、彼の低くて、少し震える真剣な声が鼓膜を震わせる。


「……じゃあ、今日も泊まっていけよ」


心臓がドキン、と跳ね上がった。

全身の血が頭に上り、顔から火が出そうになる。

パニックになった私の口から、とっさに飛び出たのは、一番可愛げのない拒絶の言葉だった。


「……帰るっ!!」


力任せに腕を振りほどき、湊を突き放す。


玄関に取り残された湊は、あからさまにショックを受けた顔で呆然と立ち尽くした。その姿は、まるで世界が滅亡したかのような絶望に満ちていて、片手を額に当てて床を見つめている。


「……やっぱり、急に攻めすぎたか……最悪だ……」と、頭の中で後悔が駆け巡っているのが一目でわかった。


私はドアノブを掴み、ガチャリと扉を開ける。

だけど、そのまま飛び出すことはしなかった。



真っ赤になった顔を隠すように、俯いたまま、上目遣いで、消え入りそうな声でボソッと付け足す。


「……っ、帰るけど! 着替えとか、明日必要なものを取ってくるだけだから! すぐ戻るから……っ!」


パタン!!


自分の心音を隠すように、勢いよくドアを閉めた。



──静まり返った玄関。


閉まったドアの前で、湊は数秒間、彫刻のように固まっていた。

だが、今の言葉の意味がゆっくりと脳内にコンパイルされた瞬間、彼は両手で顔を覆い、声にならない歓喜の雄叫びを上げてその場にしゃがみ込んだ。


「……っしゃあ!」


そんな主人の様子を、リビングの境界線から眺めていた銀は、フリフリと機嫌良さそうに尻尾を揺らす。

その青い瞳は、「今夜はもっと、極上の高級缶詰が期待できそうだな」と、すべてを計算通りに進めた大賢者のように、妖しく、そして愛らしく輝いていた。


(完)

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