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残業帰りの社畜、路地裏の「塩対応なイケ猫」に貢ぐ  作者: あとりえむ


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第4話 木曜日

木曜日、決戦の夜。

私の安物のスーツのポケットには、昼休みに会社の近くのドラッグストアで確保した「最強の兵器」が装填されている。


猫界隈で「魔法の杖」と囁かれる、スティック状の液状おやつ。これを前に理性を保てる猫はいないらしい。


「銀、今日は覚悟しなさいよ。私の全てを賭けた一撃なんだから」


逸る気持ちを抑えきれず、私は路地裏への道を早足で進んだ。

靴底がアスファルトを叩くカツ、カツという硬い音が、高鳴る心臓の鼓動と重なる。



いつもの場所。

雨上がりの湿った夜気の中で、銀は待っていた。

室外機の上から、私の姿を認めるなり「ニャッ(遅い)」と短く鳴く。

昨日の今日だ。向こうも、明らかに私という存在を認識し始めている。


私は深呼吸を一つして、彼の前に膝をついた。

距離は50センチ。まだ、触れることは許されない聖域。


「……見なさい。これが何かわかる?」


私はポケットから、鮮やかなパッケージのスティックを取り出した。


カサッ


ビニールの擦れる微かな音がした瞬間、銀の目が釘付けになる。

瞳孔が開き、黒目がちになったその瞳が、獲物を狙うハンターの色を帯びる。


私はゆっくりと、封を切った。



プチッ!


その瞬間だ。

濃厚で、それでいて上品な魚介のエキスが凝縮された香りが、ふわりと爆発した。

人間である私の鼻腔すら刺激する、強烈な「旨味」の塊。

路地裏特有のドブ臭さが、一瞬にして高級料亭の厨房に変わったかのような錯覚を覚える。


銀が、身を乗り出した。

「スンスンスン」と激しく鼻を鳴らす音が聞こえる。

もう、我慢できないらしい。


私は震える指先で、ペースト状の中身を少しだけ押し出し、差し出した。


スッ……


警戒心が、食欲に塗り替えられていく。

銀の顔が近づいてくる。

私の指先まで、あと10センチ。5センチ。1センチ。


そして。



──ペロッ


「……っ!!」


食べた!

私の指先に、ジョリッとした舌の感触が伝わる。

紙やすりのように粗く、けれど生き物特有の生温かさと湿り気を帯びた、極上の感触。


「フゥ、フゥ、ガツガツ……!」


銀は夢中だった。

私の指を両前足でガッチリとホールドし、一心不乱にペーストを舐め取っていく。


(肉球のプニプニした弾力が私の手に食い込んでいる!)


ハフハフという荒い息遣い。クチャクチャという咀嚼音。

すべてが愛おしい。


(か、可愛い……! なによこれ、天使!?)


脳内でドーパミンが噴出する。

仕事のストレス? 部長の小言? そんなものは、このザラリとした舌の感触ひとつで浄化された。

勝った。私はついに、この気高い生き物を攻略したんだ。


あと少し。

あと数センチ手を伸ばせば、その柔らかな頭を撫でられる。


私の左手が、銀の頭上へ伸びた。

至福の時まで、あと0.1秒。


その時だった。


『♪〜〜〜〜〜〜〜ッ!!』


静寂な路地裏に、空気を読まない電子音が、ドリルで脳を穿つような爆音で鳴り響いた。

会社支給の社用携帯のデフォルト着信音だ。


「ギャッ!!」


銀の体が、バネ仕掛けのように跳ね上がった。

驚愕に見開かれた目。

パニックになった彼は、とっさに目の前の物体──つまり、私の手──を足場にして逃げようとした。


ザシュッ!


「いっ……!?」


鋭い痛みが走る。

爪だ。恐怖に駆られた銀の爪が、私の手の甲に深く食い込み、そして蹴り上げた。


ダダダダッ!

アスファルトを爪で掻きむしる音を残し、銀は闇の向こうへ消え去った。


「あ……」


残されたのは、私だけ。

爆音で鳴り続けるスマホと、地面に落ちた食べかけのおやつ。

避けることのできない現実が、私の夢を引き裂きにやってきた。


私は震える手で、スマホの画面を見た。

『部長』の二文字。


「……はい、もしもし」


声が震える。痛みでか、絶望でか、自分でもわからない。


『逢坂ァ! お前、さっきの報告書の数値、合ってんのか!?』

「……申し訳ありません。確認して、すぐに折り返します」

『今すぐやれ! まったく、お前は……』


一方的に切れた通話。

ツーツーという無機質な音が、耳の奥で反響する。


私はスマホを下ろし、自分の手を見た。

三本の赤いミミズ腫れ。

ジンジンと熱を持って脈打つ傷口が、さっきまでの幸福が幻ではなかったことを教えてくれる。


「……嫌われたよね、完全に」


あんなにパニックになって逃げたんだ。

もう、この場所は「怖い場所」として記憶されただろう。

私はもう、「おやつをくれる人」ではなく、「爆音で驚かせてきた敵」だ。


地面に落ちたスティックからは、まだ甘い魚介の匂いが漂っている。

拾おうと手を伸ばしかけたが、手の甲の傷がズキリと痛み、止めた。


「……あげるよ。お詫びのしるし」


私は食べかけのスティックを、そのままコンクリートの上に置いた。

それが私の手の甲の、鉄錆のような血の匂いと混ざり合い、どうしようもない吐き気を催させた。


「……帰って、仕事しなきゃ」


私はよろめくように立ち上がった。

血の滲む手をハンカチで押さえながら、光の届かない路地裏を後にする。



明日は金曜日。

だけど私にとって、明日はもう、何の意味も持たないただの平日だ。


……。

立ち去る私の背後で、カサッ、と猫が忍び足で戻ってくるような音がした気がしたが、私は振り返らなかった。

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