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残業帰りの社畜、路地裏の「塩対応なイケ猫」に貢ぐ  作者: あとりえむ


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3/6

第3話 水曜日

水曜日。

週の折り返し地点にして、私のメンタルサーバーは完全にダウンしていた。脳内で『503 Service Unavailable』の文字だけが、執拗に点滅している。


「あ? このコード書いたの誰だ? お前だよな陽葵ィ!」


昼下がりのフロアに響き渡った部長の怒号が、鼓膜の裏にへばりついて離れない。

金属を引っ掻いたようなキーンという高音の耳鳴りが、深夜の静寂の中でやけにうるさい。

原因は、私の単純な記述ミス。

修正作業と始末書作成で、気づけば時計の針は「25時」を回っていた。


「……はは。帰ろ」


終電はとっくに行った。タクシーを拾う金も、気力もない。

私はアスファルトに足をひきずる乾いた音だけを頼りに、ゾンビのように歩き出した。


夕方に飲んだエナジードリンクのケミカルな甘さと、せり上がる胃酸が混ざり合い、喉の奥を焼く。


癒やしが欲しい。

それだけが、鉛のように重くなった太ももを動かす、唯一の原動力だった。


「……お疲れ」


いつもの路地裏。

淀んだ空気と生ゴミの匂いが漂う闇の中で、銀はいた。

今日は室外機の上ではなく、地面に座って毛づくろいをしている。

街灯の光が届かない場所で、その銀色の毛並みだけが、ぼんやりと燐光を放っているように見えた。


「ごめんね、遅くなって。……今日はもう、おやつを買う元気もなかったわ」


銀は私を一瞥すると、ふいっと顔を背けた。

「使えない下僕だな」とでも言いたげだ。だが、逃げない。

昨日のように毛を逆立てて威嚇もしない。ただ、そこにいる。


私は糸が切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちた。


ドサッ


尻と太ももに、コンクリートの硬さと、底冷えする冷たさが突き刺さる。

普段なら「スーツが汚れる」と気にするが、今の私にはどうでもよかった。


「ねぇ、銀。君も大変だよね。こんな場所でさ」


膝を抱えて、独り言が漏れ出した。自分の声が、枯れてカスカスになっている。

「私さ、何のために働いてんのかな。東京来れば、何か変わると思ったんだ。カッコいい仕事して、高いご飯食べて、素敵な彼氏作って……」


言葉にすると、胸の奥につかえていた黒く重い塊が、喉を通って溢れ出してくる感覚があった。


「でも現実はこれだ。毎日怒鳴られて、謝って、終電逃して。晩飯は賞味期限切れのおにぎりで、唯一の話し相手は野良猫の君だけ」


視界が滲む。

まぶたが熱い。ただの汗が目に入っただけだ。そう自分を騙さないと、心が決壊しそうだった。


「……帰りたいなぁ」


ふと、鼻の奥で幻臭がした。

田舎の実家の、乾いた畳の匂い。

母親の作る味噌汁の湯気。布団の柔らかい感触。

今の私を取り巻く、このカビ臭い湿った空気とは正反対の世界。


横を見ると、銀が毛づくろいをやめていた。


手を伸ばしても絶対に届かない、1メートルほどの一定の距離を保ったまま、じっと私を見ている。

その青い瞳に、軽蔑の色はなかった。

ただ静かに、夜の底で溺れている女を観察している。


すると、路地の奥から、別の猫が現れた。

茶色くて丸々と太った、ふてぶてしい猫だ。

そいつも「餌はないのか」とばかりに、ズルズルと腹を擦りながら、私たちの間に割り込もうとしてきた。


私は反射的に、声を荒げた。

「シッシッ! あっち行って!」


大人気なく地面を叩く。パンッという乾いた音が響き、茶トラは驚いて逃げていった。


「……悪いわね。私、銀以外に媚びる気ないから」


私は苦笑して、立ち上がった。

膝の関節がパキポキと悲鳴を上げる。

重力がいきなり二倍になったかのように、体が重い。


「じゃあね」


明日も仕事だ。朝9時には出社して、また部長に頭を下げなきゃいけない。

その絶望的な事実は、1ミリも変わらない。


けれど──



「……ニャッ」


背後で、音がした。

空気を裂く威嚇音でも、甘ったるい媚び声でもない。

短く、鈴を転がしたような、凛とした音色。

それが鼓膜ではなく、空っぽだった胸の空洞に直接響いた気がした。


私は驚いて振り返る。

銀はまだそこに座っていた。

尻尾をパタパタと動かし、「さっさと帰って寝ろ、社畜」とでも言うように、私を見据えている。


「……!」


幻聴じゃない。

銀は今、私に声をかけた。

「二度と来るな」ではなく、「またね」と言われたような気がした。


胸の奥に、小さな火が灯る。

エナジードリンクの不快な熱さとは違う、じんわりとした確かな体温。


「……はは。分かったわよ。寝る寝る」


強張っていた頬の筋肉が緩む。

たった一鳴き。それだけの報酬で、私のブラックな労働環境は明日への延長戦を承認された。


明日は木曜日。私はスマホを取り出し、震える指で「猫 おやつ 最強」と検索した。


「見てなさいよ、銀。明日は絶対に君を陥落させるんだから」


夜風が、少しだけ優しくなった気がした。

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