第2話 火曜日
「猫 懐かない 理由」
「野良猫 グルメ 好み」
「24歳 独身女子 猫に無視される 末路」
火曜日。
乾いたタイピング音が響くオフィスで、私のブラウザは猫の生態データで埋め尽くされていた。部長の目を盗み、高速でウィンドウを切り替えるスキルだけが上達していく。
私はシステムエンジニアだ。
バグがあれば原因を特定し、修正パッチを当てる。それが仕事だ。
昨日の敗因は「相手のニーズを無視した、独りよがりの仕様(缶詰)の押し付け」にある。
有志による攻略Wiki──もとい、愛猫家ブログ──によれば、正解ルートはこうだ。
『猫は嗅覚が鋭敏です。人肌に温めたミルクや、香りの強いササミが効果的』
なるほど、香りね。
私は定時(20時)ダッシュを決め、ドラッグストアへ駆け込んだ。
購入したのは「子猫からシニアまで! 栄養満点ミルク」と、「無添加・国産鶏ササミの極み」
私の晩ご飯である半額の唐揚げ弁当より、グラム単価が高い。
だけど構わない。これは投資だ。
「待ってなさいよ、銀……。私のデータ分析に死角はないわ」
いつもの路地裏。
雨上がりの湿気を含んだ夜風が、生温かく頬を撫でる。
カビと排気ガスの匂いが充満するこの場所で、彼は今日もいた。
定位置の室外機の上で、まるでスフィンクスのように気高く夜空を見上げている。
私は検索した情報の通り、絶対に目を合わせないように注意しながら、ゆっくりと膝をついた。
ズボンの生地越しに、濡れたアスファルトの冷たく硬い感触が伝わってくる。
「……どうぞ、王子様。本日のスープでございます」
震える指先で、皿にミルクを注ぐ。
トプ、トプ……
静寂に液体の跳ねる音が響き、甘いミルクの香りがふわりと立ち上った。
続けてササミを割く。茹でた鶏肉特有の、食欲をそそる濃厚な匂いが路地裏の悪臭を上書きしていく。
銀の耳がピクリと動いた。
彼は音もなく室外機から降りてくると、ミルクの前に立った。
鼻先をヒクつかせ、香りを確かめている。
(……来た!)
心臓が早鐘を打つ。
緊張で脇の下に冷たい汗が伝うのがわかる。
飲んで。そのピンク色の舌で、私の貢物を味わって。
そして喉を鳴らし、私の足元に温かい体毛を擦り付けてちょうだい。
私の脳内で、好感度ゲージが上昇する音が聞こえた──その時だ。
ガサッ!
路地の入り口で、砂利を踏むような音がした。
風? それとも通行人?
だけど、銀の反応は劇的だった。
ビクッ! と体を跳ねさせ、ミルクから飛びのく。
そして私の方を睨みつけ、口を大きく開けた。
「カハッ、シャーッ!!」
喉の奥から絞り出したような、空気を裂く威嚇音。
背中の毛を逆立てた彼は、ミルクに口をつけるどころか、私に向かって後ろ足で砂をかけるような仕草をして、猛スピードで駆け出した。
「え、嘘……私、何もしてないよね?」
私の完璧な作戦が……甘いミルクの香りが、虚しく取り残される。
呆然としながら、逃げた先を目で追う。
路地の出口付近。薄暗い街灯の下に、誰かの足元が見えた。
シルエットからして、背の高い、スタイルの良い男性だろうか。
銀は、その人影に向かって一直線に走っていった。
そして──
「ニャ〜〜ン♪ ゴロゴロ……」
さっきの私への威嚇が嘘のような、砂糖菓子みたいに甘ったるい声。
さらに遠目でも聞こえるほどの、喉を鳴らす重低音。
銀はその男性の足に、これでもかというほど頭を擦り付け、長い尻尾をピンと立てて絡みつかせている。
あれは「デレ」だ。完全に心を許した相手に見せる、極上の反応。
「なっ……!?」
私には「シャーッ」で、そいつには「ゴロゴロ」なわけ?
私の高級ササミの匂いより、そいつの高級そうな革靴の匂いの方がいいって言うの?
NTR。
脳裏に、最悪のアルファベット三文字が浮かぶ。
私が必死に課金して育てようとした推しキャラが、既に他のプレイヤーの「旦那」だったのを見せつけられたような、内臓が焼け付くような敗北感。
あいつは誰だ。
この路地裏の主? それとも、私より高い餌を貢いでいる石油王?
人影は、銀の頭を一度ポンと撫でると、そのまま闇に消えていった。
銀もまた、名残惜しそうにその後を追って姿を消す。
「はぁ……結局、私じゃダメってことなの……」
残されたのは、手付かずの白いミルクと、乾ききった私の心だけ。
夜風が急に冷たく感じられ、私は身震いした。
「……食べないなら、いいわよ」
どうせ私が持って帰ってもゴミになるだけ。
野良猫なら、私がいなくなった後に食べるかもしれない。
そんな淡い、未練がましい期待を捨てきれない自分が惨めだった。
「……データ不足よ。まだ、変数が足りないんだわ」
私は逃げるようにその場を後にした。
悔しい。めちゃくちゃ悔しい。
だけど、あの鼓膜を揺らすような「ゴロゴロ音」を、私も一度でいいから聞いてみたい。
その欲望だけが、ブラック企業で摩耗した私の心臓を、微かに動かしていた。




