第1話 月曜日
私の晩ご飯は……
賞味期限が切れる2時間前の、海苔が湿気って袋に張り付いた130円のコンビニおにぎり(具なし塩)。
対して……
目の前の野良猫に貢ごうとしている缶詰は。
ドラッグストアで一番高い500円の『極上マグロの饗宴〜三ツ星シェフ監修〜』だ。
「……バグってる。どう考えても、この世界の仕様はバグってる」
深夜23時半。
シトシトと降り続く冷たい雨が、安物のリクルートスーツをじっとりと重くし、太ももに張り付く不快感を伝えてくる。
この路地裏特有の、カビとアスファルトが混じったような、湿った匂い。
そんな劣悪な環境は、週6で働く社畜から、正常な金銭感覚と判断力を奪うには十分すぎるフィールド効果を持っていた。
私の名前は陽葵、24歳。
「ITで世界を変える」というキラキラした求人広告に釣られ、入社初日の3時間後に「あ、ここ漆黒のブラックだわ」と気づいた、哀れなシステムエンジニア(SE)だ。
現在のステータスは、体力ゲージ赤点滅、精神力はマイナス突破。ついでに彼氏いない歴は年齢と同じ。
そんな瀕死の私の前に、銀色の流星──いや、ラスボス級の「イケ猫」が現れたのは、昨日のことだった。
古びた室外機の上。そこだけスポットライトが当たったように、1匹の猫が鎮座していた。
雨粒さえもアクセサリーのように弾く銀色の毛並み。その凛とした佇まいは、泥のように薄汚れたこの路地裏で、あまりにも異質で、あまりにも尊かった。
私は一方的に、運命を感じてしまったのだ。
「ほら、食べなよ。これ高いんだから。私の時給の半分くらいするんだよ」
私は雨で冷え切った指先で、缶詰のプルタブを弾いた。
『カシュッ』
静寂な路地裏に、小気味いい金属音が響く。
その瞬間、暴力的なまでに芳醇な魚介の香りが爆発した。
凝縮されたマグロの旨味と、ほんのり甘い出汁の香り。私が手に持っている塩おにぎりの「無臭」とは、次元が違う。
正直、お醤油を垂らして私が食べたいくらいだ。胃袋がキュルリと鳴る。
猫──私の中で勝手に銀と名付けた──が、スッと鼻を近づける。
宝石のような青い瞳が、私を捉えた。
(……格好いい。っていうか、美形すぎる)
至近距離で見て確信した。顔が良すぎる。圧倒的な美貌だ。
人間だったら、確実に学校のカースト最上位に君臨し、私のような陰キャ女子を見下しているタイプだ。
さあ、食べて。食べて私を癒やして。
そしてデレて。その極上の毛並みをモフらせて。指先に温かい感触をちょうだい。
これは「餌やり」じゃない。「課金」だ。癒やしというガチャを回すための必要経費だ。
銀は、缶詰の匂いを一回だけ、スンスンと嗅いだ。
そして。
「プイッ」
0.5秒の即決。
彼は「ふん、安っぽい匂い」とでも言いたげに軽く鼻を鳴らすと、優雅な身のこなしで、塀の向こうへと消えていった。
「…………は?」
残されたのは、開封済みの高級缶詰と、雨音に取り残された社畜女子が一人。
「嘘でしょ……一口も食べないわけ……!?」
その冷徹なまでの塩対応。私のなけなしの500円(税別)を、ゴミを見るような目で否定しやがった。
脳裏に、高校時代の忌まわしい記憶がフラッシュバックする。
バレンタインデー。義理チョコのふりをして、小遣いをはたいた高い本命チョコを渡そうとしたら、「お前の重い愛が入ってそうで無理」と一蹴された、あのトラウマ。
あの時の幼馴染──湊も、今の銀と全く同じ、氷のような目をしていた。
「……上等じゃないの」
私の中に、仕事では決して燃え上がらない、歪んだ対抗心が芽生えた。
バグがあれば修正する。仕様が無理ゲーなら攻略法を探す。それがSEの習性だ。
「明日も来るからね。覚悟しときなさいよ……!」
私は誰にともなく捨て台詞を吐き、高級缶詰に手を伸ばした。だが、その手を止めた。
「……食べないなら、カラスにでも食べさせとけばいいわ」
負け惜しみだ。だが、汁気がたっぷりの開封済み缶詰を、酔っ払いでごった返す深夜の電車に持ち込む勇気なんて、今の私には残っていなかった。
私は缶詰をコンクリートの上に放置したまま、逃げるようにその場を後にした。
明日もまた、地獄のような通勤ラッシュと、理不尽なエラーログが待っている。
だけど、今の私には──「猫への復讐(餌付け)」という、新たなクエストが発生していた。




