麻衣の再出発
――1ヶ月後。
夕方。
シャッター半分の酒屋。
オレンジ色の光が、店先に長く伸びている。
麻衣は、無言でビールケースを運んでいた。
ざっくり束ねた髪。
袖をまくった腕には、うっすらと浮く筋肉。
それでも――
肌はつややかで、どこか柔らかい。
“変わった”というより、
“整ってきた”という感じだった。
「おっ」
常連の居酒屋の店主が、軽く口笛を吹く。
「最近、綺麗になったな。彼氏でもできたか?」
間髪入れず、睨む。
店主はすぐに手を上げた。
「冗談冗談。でもさ、雰囲気変わったよな」
少しだけ、声のトーンが落ちる。
「女の子って、ちょっとしたきっかけで変わるもんだ」
その言葉を、店の奥で聞いている影があった。
父親だった。
何も言わない。
ただ、じっと見ている。
眉が、ほんのわずかに動く。
――誇らしい、はずだった。
でも。
胸の奥に浮かぶのは、
言葉にならない違和感だった。
――
麻衣はケースを置いて、顔を上げる。
そこに、父が立っていた。
腕を組んで、無言で。
「……なんだよ」
声に混ざるのは、
苛立ちと――ほんの少しの寂しさ。
昔は、違った。
くだらない話でも、笑ってくれた。
でも今は。
何を言っても、返ってくるのは一言。
「つまらない」
それだけだった。
――
父の視線は、どこか硬い。
まるで、何かを測るみたいに。
誰かに騙されているんじゃないか。
変な男に、からかわれているんじゃないか。
そんな疑いが、透けて見える。
麻衣は、瓶を戻しながら呟いた。
「……変わったんじゃねぇよ」
少しだけ、間を置く。
「戻ってきただけだ」
父は何も言わない。
そのまま、奥へ引っ込む。
その背中が――
やけに小さく見えた。
――
「お父ちゃん」
声をかける。
父の手が、止まる。
振り向かない。
それでも、聞いている。
「前はさ」
少しだけ笑う。
「母ちゃんがいない時間、
ずっとお父ちゃんが相手してくれてたじゃん」
「くだらない話でも、ちゃんと聞いてくれてた」
視線を落とす。
「……あの頃のほうが、よっぽど楽しかった。
でもさ」
少しだけ声が硬くなる。
「母ちゃんいなくなってから、
急に全部“つまらない”って言うようになったよな」
息を吸う。
「……あれが、一番キツかった」
沈黙。
店の奥で、時計の音だけが鳴る。
――
「返事いらねぇよ」
少しだけ笑う。
「でもさ、否定はしないでくれ」
声が、少しだけ震える。
「今、あたし――
ちょっとだけ、自分のこと好きになれてんだ」
「だからさ」
まっすぐ、奥を見て言う。
「もう一回、話したいんだよ」
「ちゃんと、届くように」
長い沈黙。
やがて。
父が、ぽつりと口を開く。
「……店、閉めるぞ」
それだけ。
でも。
少しだけ、声が柔らかかった。
「着替えてこい」
「……俺は、髭剃る」
「飯、行くぞ」
麻衣の拳が、ゆっくりほどける。
涙は出ない。
でも、奥がじんわり熱い。
「……おう」
それだけ返す。
背中が、少し軽くなる。
夜。
二人で歩く帰り道。
言葉は少ない。
でも。
街の灯りが、少しだけ優しい。
麻衣は、ふと思う。
(否定されねぇだけで――こんな楽なんだな)
それは、ずっと欲しかったものだった。
暖簾をくぐる。
昔と同じ居酒屋
同じ席。
母親の帰りが遅い時、よく連れてきてくれた店
でも、空気は少し違う。
「久しぶりだなぁ」
店主が笑う。
「娘さん、綺麗になったな」
父は軽くうなずくだけ。
照れくさそうに、目を逸らす。
味噌汁の湯気の向こうで。
麻衣がぽつりと話す。
「最近さ、友達できた」
箸を持つ手が止まる。
「はるたってやつ」
少しだけ、口元が緩む。
「最初はさ、女装して女子に媚びてるだけの軟弱だと思ってた」
「でも、違った」
「ちゃんと続けてんだよ。筋トレも、スキンケアも」
「……あたしも、ちょっと影響受けた」
父は黙って聞いている。
ゆっくり、味噌汁をすする。
「……いい友達だな」
その一言。
でも、その中に。
安堵が混ざっていた。
けれど同時に。
「はるた」
その名前が、引っかかる。
女装。
女子に媚びる。
でも、根性がある。
矛盾した像。
父は、何も言わない。
ただ、考えている。
帰り道。
夜風が、少し冷たい。
「お父ちゃん」
麻衣が口を開く。
「欲しいもんあるんだけど」
「ほう」
「美容家電」
一拍。
「肌スベスベになるやつ」
父が、少し驚いた顔で笑う。
「……いいぞ」
短く言う。
「足りなきゃ、出す」
「マジで!?」
一気に声が明るくなる。
その変化に、父が少しだけ目を細める。
「俺も使っていいのか?」
間髪入れず。
「無理」
即答。
父が苦笑する。
「ちょっとくらいいいだろ」
「俺だってスベスベになりたい」
「誰得だよ」
そう言いながらも。
麻衣は、少しだけ笑っていた。




