第99話 泣き声のあと
母親は首を振った。
「この子は、私が」
兵隊さんの手が近づくと、赤ん坊を抱いて身体を横へ向けた。背中が岩へ当たり、逃げるところがなくなった。
私はその間へ手を出した。
「待ってください」
腕を払われた。
指から布が落ちた。拾おうとすると、兵隊さんの脚が前へ出て、私は後ろへ押し戻された。
母親が赤ん坊を呼んだ。
名前だった。
泣き声に重なって、はっきり聞き取れなかった。
「離してください」
千代が立った。
母親の腕へ触れようとしたが、入口にいた兵隊さんが千代の肩を掴んだ。
「座っていろ」
千代はその手を振りほどこうとした。
文子も前へ出た。
「その子、何もしてないでしょう」
声が洞窟の中へ響いた。
兵隊さんは答えなかった。
*
母親の腕から、赤ん坊が離れた。
私は立ち上がり、兵隊さんの袖を掴んだ。引いたが、こちらへは動かなかった。背後から誰かに肩を押さえられ、膝が岩へ当たった。
母親が叫んだ。
赤ん坊の名前を呼び、手を伸ばしていた。その指が兵隊さんの上着へかかり、布を掴んだ。
私はもう一度、袖を引いた。
「やめて」
自分の声が、泣き声と重なった。
兵隊さんが身体を向けた。
何が起きているのか、岩陰に隠れて見えなかった。母親の顔だけが見えた。口を開け、同じ言葉を繰り返していた。
返して。
返して。
赤ん坊の声が、途切れた。
*
私は袖を掴んだまま止まった。
すぐにまた泣くと思った。
母親が手を伸ばした。兵隊さんは、その腕へ赤ん坊を戻した。
小さな身体は動かなかった。
母親はいつものように頭を支え、胸へ寄せた。それから、顔を覗き込んだ。
「ねえ」
頬へ触れた。
「ねえ、起きて」
私はそのそばへ寄った。
赤ん坊の手が、母親の腕の外へ出ていた。母親はそれを上着の中へ入れようとして、また顔を見た。
文子が口元へ手を当てた。
千代は兵隊さんに掴まれていた肩を押さえ、母親のすぐ横へ膝をついた。
「返事して」
母親が言った。
小さな額へ唇を当てた。
「お母さん、ここにいるよ」
外から、出てきなさいという声が聞こえた。
母親はその声へ顔を上げなかった。
*
兵隊さんは入口へ戻った。
私はその背中を見た。
岩へ身体を寄せ、外の様子を確かめていた。さっきまでと同じ位置だった。
母親の隣にいた女の人が、震える手で布を差し出した。母親は受け取らず、赤ん坊の顔を見続けた。
誰かが泣いていた。
大きな声ではなかった。息を吸うたびに喉が鳴り、それを手で押さえているような音だった。
私は床に落ちた布を拾った。
水を含んでいたところへ、土がついていた。
母親へ渡そうとしていたものだった。ほんの少しでも水があれば、何か変わるかもしれないと思っていた。
私は布を両手で握った。
千代が私の名前を呼んだ。
顔を上げると、千代の目が濡れていた。
文子は母親のそばにいた。何か言おうとするたびに唇が震え、結局、母親の肩へ手を置くことしかできなかった。
*
しばらくして、母親が私たちを見た。
「寝ちゃった」
私は返事をしなかった。
「さっきまで、あんなに……」
母親の声が途切れた。
千代が俯いた。
私は赤ん坊の手を見た。母親が自分の指を握らせようとしていた。小さな指を曲げ、そこへ人差し指を入れ、落ちると、もう一度入れ直していた。
見ていられなかった。
目を逸らすこともできなかった。
文子が私の手を握った。
「理恵」
声が耳元へ来た。
「出よう」
私は母親を見たまま首を振りかけた。
この人を残していくのかと思った。
けれど、何をすればよいのか分からなかった。誰に頼めば助けてもらえるのかも、この洞窟の中では、もう分からなかった。
千代が袋を私へ渡した。
私たちは荷物を持った。
立ち上がると、母親がこちらを見た。私は何か言おうとして、喉を動かした。
言葉は出なかった。
母親は赤ん坊へ目を戻し、上着の端を小さな足へ掛けた。
私は入口へ向かった。
後ろから泣き声は聞こえなかった。
その静けさが怖くて、一度だけ振り返った。




