第98話 滴る水
喉が渇いていた。
口を閉じると、舌が上顎へ貼りついた。唾を飲もうとしても、喉が動くだけだった。私は容器を逆さにし、底を掌で叩いた。口元へ落ちてきたのは、水ではなく、縁についていた細かな砂だった。
「もう、ない?」
文子に聞かれ、頷いた。
洞窟の中には、咳と、衣擦れの音があった。座っている人が脚を動かすと、隣の人も少しずつ位置を変えなければならなかった。入口に近いところには兵隊さんが二人いて、外を覗いては身体を岩へ寄せていた。
私は壁へ背中をつけた。
冷たいものが上着へ染みた。手を後ろへ回すと、岩が濡れていた。
「千代」
呼ぶと、千代が顔を寄せた。
「ここ、水がある」
岩の表面に細い筋があった。指で触れ、そのまま口へ入れた。土の味がしたが、舌に触れた冷たさを、もう一度確かめたかった。
私は袋から布を出した。
血がついていないところを探し、端を細く折って岩へ当てた。流れは目で追えるほどわずかで、布はなかなか濡れなかった。押さえている腕が疲れても、離せば雫を落としてしまう気がした。
ようやく角の色が変わった。
口へ持っていき、唇で挟んだ。吸うと、湿った布の臭いと一緒に、わずかな水が舌へ触れた。
私は布を文子へ渡した。
「ここへ当てると、少しだけ」
文子は私の指したところへ布を置いた。次に千代へ回るまで、三人とも同じ岩を見ていた。
*
少し離れたところで、赤ん坊が声を出した。
母親は胸元へ抱き直し、背中を撫でた。赤ん坊は顔を寄せたが、すぐに離れ、口を開けた。
母親の上着は汗で濡れていた。襟元を直す手が痩せ、腕の中にある頭を支えるだけで、肘が小さく震えていた。
「お腹、空いてるのかな」
文子が言った。
母親は私たちを見て、困ったように頷いた。
「さっきから、出なくて」
私は手元の布を見た。
これを渡してよいのか分からなかった。私たちでも、土の味を感じる水だった。ほかに何か持っていないか袋を開けたが、食べられるものはなかった。
千代も自分の袋を探した。
母親は私たちの手元を見てから、首を振った。
「大丈夫。すみません」
大丈夫ではないことが、その声で分かった。
*
外から、言葉が届いた。
「ナカニイル、ミナサン……」
入口の兵隊さんが顔を上げた。
「ブキヲ、モタズニ、デテキテクダサイ」
私は布を持ったまま止まった。
昨日の壕で聞いたときより、声が近かった。岩の外へ人が立っているのではないかと思い、入口へ目を向けたが、眩しい光の向こうには何も見えなかった。
「オンナノヒトモ、コドモモ、デテキテクダサイ」
母親の手が止まった。
赤ん坊の顔を見て、入口を見た。
そのとき赤ん坊が泣き始めた。
細い声が、岩へ当たって返ってきた。母親はすぐに身体を揺らし、小さな声であやした。けれど、泣き声は一度途切れても、次の息でまた続いた。
「泣かせるな」
入口にいた兵隊さんが言った。
「すみません」
母親は赤ん坊の頬へ顔を寄せた。
「もう少し、もう少しだけ」
誰に頼んでいるのか分からなかった。
私は濡れた布を握り、そのそばへ膝を進めた。
「何か、できること……」
母親は私を見た。
答える前に、赤ん坊が大きく泣いた。
入口の兵隊さんが立ち上がった。
*
「ここが見つかったら、全員死ぬんだぞ」
母親は赤ん坊を胸へ抱き締めた。
「泣き止ませます。すぐに」
「さっきから言っているだろう」
兵隊さんの声に、隣の子供が母親の膝へ顔を伏せた。老人がこちらを見たが、何も言わなかった。
外の呼びかけが続いていた。
私は、その声が一度だけでも止まればよいと思った。赤ん坊の声と重なるたびに、兵隊さんの顔が強張った。
「泣き止ませられないなら、殺せ」
文子が私の腕を掴んだ。
母親は動かなかった。
「できないなら、外へ出ろ」
「待ってください」
文子が言った。
声が震えていたが、聞こえた。
「お腹が空いてるだけです。何かあれば……」
「お前たちに聞いていない」
兵隊さんが言った。
私は岩に押しつけていた布を差し出した。
「水、少しあります」
母親は布を見た。
手を伸ばしかけたが、赤ん坊を抱く腕を離せなかった。私はその手へ布を寄せ、どう使えばよいのかも分からないまま、そこにいた。
もう一人の兵隊さんが、入口からこちらへ歩いてきた。
母親が赤ん坊を抱え直した。
その人は私の前で止まり、母親へ手を出した。
「貸せ」




