第100話 戻ってくる足音
洞窟を出ても、私はすぐに立ち上がれなかった。
入口の横へ膝をつき、岩に片手を当てた。外の光が眩しく、目を細めると、白く霞んだ景色の中へ焼けた茎が少しずつ現れた。
後ろから千代が出てきた。
低い入口を抜けるために背中を丸め、袋を先に押し出した。私のそばへ下りてきてからも、一度、洞窟の中を振り返った。
母親の姿は見えなかった。
あの人は、まだ赤ん坊を抱いているのだろうか。
小さな指へ、自分の指を握らせようとしているのだろうか。
私は自分の手を見た。岩から滲んだ水を吸わせた布を握っていたため、指の腹だけが湿っていた。手首から袖にかけては土がつき、乾いたところが白っぽくなっていた。
文子が私の腕へ触れた。
「理恵、行こう」
その声で、ようやく顔を上げた。
*
どちらへ行けばよいのか、三人とも分からなかった。
先生と別れた場所へ戻るには、焼けた広場を通らなければならない。そこへ着いても、先生がまだいるとは限らなかった。ほかの壕を探そうにも、近くに口を開けている岩陰は見えなかった。
文子は身体を低くしたまま、石垣の向こうを確かめた。
石が崩れ、畑との境に隙間ができていた。その先には窪んだ地面が続き、少し離れたところに大きな岩があった。
「あそこまで行けば、少し隠れられるかもしれない」
文子が指した。
私はその岩を見た。
ほんの少し先だった。学校から食堂へ帰る道なら、何も考えずに歩いてしまう距離だった。
けれど、そこへ行くまでには、身を起こさなければならなかった。畑には背の高い葉が残っておらず、焼けて倒れた茎の間から、私たちの身体が見えてしまう。
千代が私の脚へ目を落とした。
「膝、大丈夫?」
「うん」
答えてから、手をついて立った。
曲げていた膝を伸ばすと、傷の周りが引きつれた。もんぺの下で、巻いていた布がずれている気がした。
千代には言わなかった。
ここで歩けないと言えば、二人は私を支えようとする。そうなれば、一人で歩くより遅くなってしまう。
私は袋の紐を肩へ掛け直した。中に入れられた手榴弾が、腰の横へ重く当たった。
*
石垣の陰を離れたとき、文子が先にいた。
私はその背中を追い、千代がすぐ後ろへ続いた。
走るというより、足を早く出し続けていた。地面には砲弾の落ちた穴があり、その縁を避けると、焼けた茎を踏まなければならなかった。乾いたものが足の下で折れ、細かな灰が舞った。
文子が低いところへ下りた。
私もそこへ足を向けた。
横から、声がした。
知らない言葉だった。
文子の肩が動き、こちらを振り向きかけた。その瞬間、短い銃声が聞こえた。
胸へ、強く押し込まれるような衝撃が来た。
何かにぶつかったと思った。
足はまだ動いていた。次の一歩を出そうとしたのに、地面の位置が分からなくなった。息が口から抜け、肩の袋が前へ滑った。
身体が傾いた。
手を出すより早く、肩が土へ当たった。頬に砂が擦れ、唇の間へ乾いた土が入った。
私は目を開けていた。
目の前に、焼けた茎の切れ端があった。
*
「理恵?」
文子の声がした。
返事をしようとして、息を吸った。
胸の奥が痛んだ。
外から叩かれた痛みとは違った。息を入れようとするたび、身体の内側で何かが引っ張られ、途中から吸えなくなった。
口を開けた。
空気が少し入ったが、それだけでは足りなかった。もう一度吸おうとして、喉から細い音が漏れた。
起きなければと思った。
ここで倒れていたら、また撃たれる。
両手を胸の下へ寄せようとしたが、片腕は身体の下に挟まっていた。動かすと肩が痛み、上着が胸へ貼りついた。
濡れていた。
私は空いている手でそこへ触れた。
戻した掌が赤かった。
その色を見て、初めて、撃たれたのだと分かった。
*
「理恵!」
千代の足音が戻ってきた。
私のそばへ膝をつき、肩に両手を入れた。
「起きて。ここ、駄目だから」
引き起こされかけた瞬間、胸へ痛みが広がった。私は千代の腕を掴んだ。
声を出したつもりだったが、喉を擦るような音しか出なかった。
千代の手が止まった。
「どこ。理恵、どこが痛い?」
私の顔を見てから、胸元へ目を落とした。
その表情が変わった。
上着の色が濃くなり、濡れたところが広がっていた。千代が指で布を持ち上げると、その下から血が滲んだ。
「文子、布」
声が急に高くなった。
「早く、布出して」
文子も戻ってきた。
私の反対側へ屈み、袋を地面へ置いた。結び目を引いたが、固く締まっていた。もう一度引き、爪を差し込んだ。
「待って。今」
「早く」
「分かってる」
文子の声が震えた。
紐がほどけ、袋の口が開いた。中へ手を入れると、畳んであったものが一緒に引き出され、土へ落ちた。
文子は拾わなかった。
白いところの残っている布を選び、千代へ渡した。
*
千代が布を重ね、胸へ当てた。
私は身体を強張らせた。
「ごめん」
千代が言った。
「ごめんね。でも、押さえないと」
その言葉を、私も患者さんへ言ったことがあった。
痛いと言われても、傷から手を離せなかった。布を当て、先生を呼び、少しでも血が止まるのを待った。
今は、自分の身体に起きていた。
千代の掌の下で布が温かくなっていくのが分かった。押さえられると痛い。けれど、その手が離れれば、もっと怖かった。
私は千代の袖を握った。
千代は一度、私の顔を見た。
「ここにいるから」
そう言ってから、文子へ顔を向けた。
「ほかにも布ある?」
文子がもう一枚取り出した。
千代の指の間へ、赤いものが回っていた。
*
「岩まで運ぼう」
文子が言った。
顔を上げ、さっき目指していた場所を見た。
「ここにいたら、駄目だよ」
私はその岩を見ようとした。頭を動かすと、頬に貼りついた土が擦れた。視界の端に岩の黒いところが見えたが、思っていたより遠かった。
文子が私の腕を持った。
「肩に回せる?」
私は肘を動かした。
胸が痛み、途中で止まった。
文子は腕を下ろし、今度は背中へ手を入れようとした。千代は傷を押さえたまま、私の肩を持ち上げようとした。
二人の手が身体の下でぶつかった。
「待って、そこ、私の手」
「じゃあ、こっちを」
千代が動くと、胸の布がずれた。
文子がすぐに押さえ直した。
私たちは、傷のある人を何度も運んできた。担架を持ち、兵隊さんに背負ってもらい、腕を肩へ回して歩いた。
けれど、ここには担架がなかった。
頼める兵隊さんも、持ち方を教えてくれる高橋さんもいなかった。二人は私を起こそうとするたび、血で濡れた胸へ目を戻さなければならなかった。
「理恵、少しだけ、足に力入る?」
文子が尋ねた。
私は膝を曲げようとした。
踵が土を擦った。
力を入れたつもりなのに、身体は持ち上がらなかった。
*
咳が出た。
止めようとしたが、胸の奥から押し上げられた。口の中へ温かいものが入り、私は顔を横へ向けた。
文子が頭を支えた。
「こっち。理恵、横向いて」
唇の端から、血の混じったものが土へ落ちた。
文子の手が、私の頬のそばで止まった。
千代が名前を呼んだ。
「理恵、聞こえる?」
私は頷こうとした。
「目、閉じないで」
閉じるつもりはなかった。
けれど、目を開けているだけで疲れた。顔の下にある砂も、千代の袖の縫い目も見えているのに、少し離れたものへ目を向けることが難しくなっていた。
文子が顔を近づけた。
「すぐ、そこへ行こう。あの岩まで」
私はその顔を見た。
文子は私を見ている間も、何度も外へ目を向けていた。千代も、布から手を離せないまま、肩を小さく竦めていた。
二人とも、怖かった。
怖いまま、私のそばに戻ってきてくれた。
*
外で、また声がした。
文子が振り向いた。
私はその袖を引いた。
「行って」
やっと言葉になった。
文子が私を見た。
「何言ってるの」
「二人で」
「今、運ぶから」
文子は私の肩へ手を戻した。
千代が身体を低くし、向こうを確かめた。銃を持った人影が見えた。何かを叫んでいたが、言葉は分からなかった。
私は、三人ともここに倒れるところを考えた。
胸を押さえている千代の手も、私の頭を支えている文子の手も、動かなくなってしまう。
「逃げて」
声を出すと、息が続かなかった。
「お願い」
文子は首を振った。
「理恵も、一緒」
すぐそばで土が跳ねた。
乾いた粒が頬へ当たり、文子が身を縮めた。
千代が私へ覆いかぶさるように屈んだ。
その身体の向こうで、もう一度、銃声がした。




