↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

100/124

第100話 戻ってくる足音



 洞窟を出ても、私はすぐに立ち上がれなかった。


 入口の横へ膝をつき、岩に片手を当てた。外の光が眩しく、目を細めると、白く霞んだ景色の中へ焼けた茎が少しずつ現れた。


 後ろから千代が出てきた。


 低い入口を抜けるために背中を丸め、袋を先に押し出した。私のそばへ下りてきてからも、一度、洞窟の中を振り返った。


 母親の姿は見えなかった。


 あの人は、まだ赤ん坊を抱いているのだろうか。


 小さな指へ、自分の指を握らせようとしているのだろうか。


 私は自分の手を見た。岩から滲んだ水を吸わせた布を握っていたため、指の腹だけが湿っていた。手首から袖にかけては土がつき、乾いたところが白っぽくなっていた。


 文子が私の腕へ触れた。


「理恵、行こう」


 その声で、ようやく顔を上げた。


     *


 どちらへ行けばよいのか、三人とも分からなかった。


 先生と別れた場所へ戻るには、焼けた広場を通らなければならない。そこへ着いても、先生がまだいるとは限らなかった。ほかの壕を探そうにも、近くに口を開けている岩陰は見えなかった。


 文子は身体を低くしたまま、石垣の向こうを確かめた。


 石が崩れ、畑との境に隙間ができていた。その先には窪んだ地面が続き、少し離れたところに大きな岩があった。


「あそこまで行けば、少し隠れられるかもしれない」


 文子が指した。


 私はその岩を見た。


 ほんの少し先だった。学校から食堂へ帰る道なら、何も考えずに歩いてしまう距離だった。


 けれど、そこへ行くまでには、身を起こさなければならなかった。畑には背の高い葉が残っておらず、焼けて倒れた茎の間から、私たちの身体が見えてしまう。


 千代が私の脚へ目を落とした。


「膝、大丈夫?」


「うん」


 答えてから、手をついて立った。


 曲げていた膝を伸ばすと、傷の周りが引きつれた。もんぺの下で、巻いていた布がずれている気がした。


 千代には言わなかった。


 ここで歩けないと言えば、二人は私を支えようとする。そうなれば、一人で歩くより遅くなってしまう。


 私は袋の紐を肩へ掛け直した。中に入れられた手榴弾が、腰の横へ重く当たった。


     *


 石垣の陰を離れたとき、文子が先にいた。


 私はその背中を追い、千代がすぐ後ろへ続いた。


 走るというより、足を早く出し続けていた。地面には砲弾の落ちた穴があり、その縁を避けると、焼けた茎を踏まなければならなかった。乾いたものが足の下で折れ、細かな灰が舞った。


 文子が低いところへ下りた。


 私もそこへ足を向けた。


 横から、声がした。


 知らない言葉だった。


 文子の肩が動き、こちらを振り向きかけた。その瞬間、短い銃声が聞こえた。


 胸へ、強く押し込まれるような衝撃が来た。


 何かにぶつかったと思った。


 足はまだ動いていた。次の一歩を出そうとしたのに、地面の位置が分からなくなった。息が口から抜け、肩の袋が前へ滑った。


 身体が傾いた。


 手を出すより早く、肩が土へ当たった。頬に砂が擦れ、唇の間へ乾いた土が入った。


 私は目を開けていた。


 目の前に、焼けた茎の切れ端があった。


     *


「理恵?」


 文子の声がした。


 返事をしようとして、息を吸った。


 胸の奥が痛んだ。


 外から叩かれた痛みとは違った。息を入れようとするたび、身体の内側で何かが引っ張られ、途中から吸えなくなった。


 口を開けた。


 空気が少し入ったが、それだけでは足りなかった。もう一度吸おうとして、喉から細い音が漏れた。


 起きなければと思った。


 ここで倒れていたら、また撃たれる。


 両手を胸の下へ寄せようとしたが、片腕は身体の下に挟まっていた。動かすと肩が痛み、上着が胸へ貼りついた。


 濡れていた。


 私は空いている手でそこへ触れた。


 戻した掌が赤かった。


 その色を見て、初めて、撃たれたのだと分かった。


     *


「理恵!」


 千代の足音が戻ってきた。


 私のそばへ膝をつき、肩に両手を入れた。


「起きて。ここ、駄目だから」


 引き起こされかけた瞬間、胸へ痛みが広がった。私は千代の腕を掴んだ。


 声を出したつもりだったが、喉を擦るような音しか出なかった。


 千代の手が止まった。


「どこ。理恵、どこが痛い?」


 私の顔を見てから、胸元へ目を落とした。


 その表情が変わった。


 上着の色が濃くなり、濡れたところが広がっていた。千代が指で布を持ち上げると、その下から血が滲んだ。


「文子、布」


 声が急に高くなった。


「早く、布出して」


 文子も戻ってきた。


 私の反対側へ屈み、袋を地面へ置いた。結び目を引いたが、固く締まっていた。もう一度引き、爪を差し込んだ。


「待って。今」


「早く」


「分かってる」


 文子の声が震えた。


 紐がほどけ、袋の口が開いた。中へ手を入れると、畳んであったものが一緒に引き出され、土へ落ちた。


 文子は拾わなかった。


 白いところの残っている布を選び、千代へ渡した。


     *


 千代が布を重ね、胸へ当てた。


 私は身体を強張らせた。


「ごめん」


 千代が言った。


「ごめんね。でも、押さえないと」


 その言葉を、私も患者さんへ言ったことがあった。


 痛いと言われても、傷から手を離せなかった。布を当て、先生を呼び、少しでも血が止まるのを待った。


 今は、自分の身体に起きていた。


 千代の掌の下で布が温かくなっていくのが分かった。押さえられると痛い。けれど、その手が離れれば、もっと怖かった。


 私は千代の袖を握った。


 千代は一度、私の顔を見た。


「ここにいるから」


 そう言ってから、文子へ顔を向けた。


「ほかにも布ある?」


 文子がもう一枚取り出した。


 千代の指の間へ、赤いものが回っていた。


     *


「岩まで運ぼう」


 文子が言った。


 顔を上げ、さっき目指していた場所を見た。


「ここにいたら、駄目だよ」


 私はその岩を見ようとした。頭を動かすと、頬に貼りついた土が擦れた。視界の端に岩の黒いところが見えたが、思っていたより遠かった。


 文子が私の腕を持った。


「肩に回せる?」


 私は肘を動かした。


 胸が痛み、途中で止まった。


 文子は腕を下ろし、今度は背中へ手を入れようとした。千代は傷を押さえたまま、私の肩を持ち上げようとした。


 二人の手が身体の下でぶつかった。


「待って、そこ、私の手」


「じゃあ、こっちを」


 千代が動くと、胸の布がずれた。


 文子がすぐに押さえ直した。


 私たちは、傷のある人を何度も運んできた。担架を持ち、兵隊さんに背負ってもらい、腕を肩へ回して歩いた。


 けれど、ここには担架がなかった。


 頼める兵隊さんも、持ち方を教えてくれる高橋さんもいなかった。二人は私を起こそうとするたび、血で濡れた胸へ目を戻さなければならなかった。


「理恵、少しだけ、足に力入る?」


 文子が尋ねた。


 私は膝を曲げようとした。


 踵が土を擦った。


 力を入れたつもりなのに、身体は持ち上がらなかった。


     *


 咳が出た。


 止めようとしたが、胸の奥から押し上げられた。口の中へ温かいものが入り、私は顔を横へ向けた。


 文子が頭を支えた。


「こっち。理恵、横向いて」


 唇の端から、血の混じったものが土へ落ちた。


 文子の手が、私の頬のそばで止まった。


 千代が名前を呼んだ。


「理恵、聞こえる?」


 私は頷こうとした。


「目、閉じないで」


 閉じるつもりはなかった。


 けれど、目を開けているだけで疲れた。顔の下にある砂も、千代の袖の縫い目も見えているのに、少し離れたものへ目を向けることが難しくなっていた。


 文子が顔を近づけた。


「すぐ、そこへ行こう。あの岩まで」


 私はその顔を見た。


 文子は私を見ている間も、何度も外へ目を向けていた。千代も、布から手を離せないまま、肩を小さく竦めていた。


 二人とも、怖かった。


 怖いまま、私のそばに戻ってきてくれた。


     *


 外で、また声がした。


 文子が振り向いた。


 私はその袖を引いた。


「行って」


 やっと言葉になった。


 文子が私を見た。


「何言ってるの」


「二人で」


「今、運ぶから」


 文子は私の肩へ手を戻した。


 千代が身体を低くし、向こうを確かめた。銃を持った人影が見えた。何かを叫んでいたが、言葉は分からなかった。


 私は、三人ともここに倒れるところを考えた。


 胸を押さえている千代の手も、私の頭を支えている文子の手も、動かなくなってしまう。


「逃げて」


 声を出すと、息が続かなかった。


「お願い」


 文子は首を振った。


「理恵も、一緒」


 すぐそばで土が跳ねた。


 乾いた粒が頬へ当たり、文子が身を縮めた。


 千代が私へ覆いかぶさるように屈んだ。


 その身体の向こうで、もう一度、銃声がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。