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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第101話 握ったまま



 千代の手が、胸の布から外れた。


 私の肩へ身体が落ち、腕が背中を滑った。急に重みがかかって、私は息を詰めた。


 千代が起き上がろうとした。


 片手を地面へつき、肘を伸ばしかけたが、すぐに崩れた。


「千代?」


 文子が呼んだ。


 返事を待たずに、その肩を支えた。


「千代、どうしたの」


 千代は口を開けていた。


 息を吸おうとしているのが分かった。私と同じように、胸が十分には動いていなかった。


 片手が上着の脇へ回った。


 文子がそこを見た。


「当たったの?」


 千代は答えなかった。


 指の下の布が濡れていた。文子が手を添えると、掌へ血がついた。


 私はその赤いところを見ていた。


 私のために戻ってきて、私を起こそうとして、千代も撃たれた。


 そのことを考えると、胸の痛みとは別に、喉の奥が詰まった。


     *


 文子は持っていた布を千代の脇へ当てた。


「押さえるよ」


 千代の顔が歪んだ。


「ごめん。ちょっと、待って」


 文子は私の胸元を見た。


 布がずれていた。すぐに片手を伸ばし、元の位置へ戻した。反対の手では、千代の傷を押さえていた。


 二人の間で、文子の身体が斜めになった。


 このままでは、どちらも十分に押さえられなかった。


「理恵、手、動く?」


 文子が私の手首を取った。


 胸の布へ載せられた。


「ここ。ここを押さえて」


 私は指へ力を入れた。


 濡れた布が滑った。手の位置を戻そうとすると、肩が痛んだ。


 文子が私の手の上から押さえた。


「そう。そこ」


 そう言いながら、千代を見た。


 千代の脇へ当てた布も、赤くなっていた。


 文子は唇を噛み、私の手をもう一度置き直した。何度やっても、片方へ目を向けた間に、もう片方が動いてしまった。


     *


「誰か」


 文子が顔を上げた。


「誰か、手伝って」


 声が焼けた畑へ出ていった。


 返事は聞こえなかった。


 少し離れたところに、人が倒れていた。伏せているのか、もう動けないのか、分からなかった。


 文子はもう一度呼びかけようとして、やめた。


 銃を持った人影が近づいていた。


 こちらへ何かを言っていた。


 文子は私たちへ身体を寄せた。逃げるために立ち上がることも、助けを求めて手を上げることもできず、二つの傷を交互に見ていた。


「どうしよう」


 小さな声が漏れた。


 文子はすぐに首を振った。


「大丈夫。ちょっと待って」


 誰へ言っているのか、分からなかった。


     *


「文子、行って」


 私は言った。


 文子は顔を上げなかった。


「喋らないで」


「行って」


「まだ、動かせるから」


 文子は私の肩へ手を入れた。


 千代を見て、また手を止めた。


 私を持ち上げれば、千代の傷から手を離さなければならない。千代を支えれば、私は地面へ残る。


 一人では、二人を運べなかった。


 文子も、そのことは分かっていた。


 分かっていても、私たちの身体へ手を入れ、腕を持ち、立ち上がる方法を探していた。


 千代が文子の袖へ触れた。


「文子」


 声が掠れていた。


「逃げて」


 文子が千代を見た。


「千代まで、そんなこと言わないで」


 涙が頬へ落ちた。


「二人とも、置いていけないよ」


     *


 私は信子のことを思い出した。


 行かないでと言われた。


 袖を握る指を、私は外した。


 あのときも、誰かが一緒に残れば助かるわけではなかった。けれど、残される信子へ、そのことを言えなかった。


 今、文子の前にいるのは私だった。


 そばにいてほしかった。


 怖かった。


 血が出る胸を押さえてもらい、名前を呼び続けてほしかった。文子が離れたら、自分が死ぬことを止めてくれる人がいなくなる気がした。


 それでも、文子がここに残るところは見たくなかった。


「お願い」


 私は言った。


 文子の袖を掴んでいた指を、ゆっくり離した。


「逃げて」


 千代も頷いた。


 頷いたあと、痛みに顔を歪めた。


「早く、文子」


 文子は二人の顔を見た。


 千代の傷へ当てていた手を、少し緩めた。血を見て、すぐに戻した。


「でも」


 その先が続かなかった。


     *


 文子は布を直した。


 千代の手をその上へ置き、私の胸に載せた手も、もう一度確かめた。


 離れる前にできることを、探していた。


「ここ、押さえて」


 私たちは頷いた。


「動けたら、あの岩に」


 文子が言った。


 千代は文子を見ていた。


 私は返事をした。


 動けないことは、三人とも分かっていた。それでも、文子がその言葉を言い終えるまで、私は待った。


 文子は地面へ片手をついた。


 立ち上がりかけ、またこちらを見た。


 私の顔、千代の顔、それぞれの傷へ目を向けた。そのたびに身体が止まった。


 外で声がした。


 前より近かった。


「逃げて!」


 千代が叫んだ。


 声のあとに咳が続き、身体が小さく折れた。


 文子の顔が崩れた。


 私へ手を伸ばしかけたが、途中で引いた。


 それから、低い姿勢のまま走った。


 石垣へ着く直前、一度だけ振り向いた。


 私は手を動かそうとした。


 持ち上がらなかった。


 文子が石の向こうへ消えた。


     *


 そばに、千代がいた。


 文子がいなくなると、畑の音が急にはっきりした。遠くの砲声、風で動く焼けた茎、どこかで人を呼ぶ声。


 千代は傷へ手を当てていた。


 押さえる力が弱くなったのか、指が少しずつ下がっていた。


 私はその手を見た。


 握りたかった。


 けれど、傷を押さえている手を離させてよいのか、迷った。


 千代が私を見た。


 私の指が土の上で動いていることに気づき、空いている方の手を伸ばしてくれた。


 指先が触れた。


 それだけで、私は息を吐いた。


 千代が少しずつ手を寄せた。私も動かし、ようやく指を絡めることができた。


 血で滑った。


 離れそうになると、二人とも握り直した。


     *


「ごめん」


 私は言った。


 千代が首を振った。


「戻って、こなくて……」


 言葉が途切れた。


 千代は私の顔を見ていた。


「理恵が」


 息を吸った。


「倒れたから」


 私は目を閉じかけ、また開けた。


 千代が私を見つけたとき、考えるより先に戻ってきたのだと分かった。血を見ても、銃声がしても、私を起こそうとしてくれた。


 私だったら、同じように戻れただろうか。


 そのことを考えて、また謝りたくなった。


 千代が指へ力を入れた。


「もう、いいよ」


 小さな声だった。


     *


「痛い?」


 千代が尋ねた。


 私は頷いた。


「千代は」


「……うん」


 正直に答えてくれたことが、悲しかった。


 痛くないと言われても、私は信じられなかっただろう。けれど、痛いと聞いても、何もしてあげられなかった。


 千代の額に汗が浮いていた。


 土のついた髪が頬へ貼りついていた。いつもなら、手で払ってあげられた。食堂で話しているときなら、千代が嫌がるまで、そんなことをしていられた。


 私は握った手を見た。


「文子、行ったね」


 千代が言った。


「うん」


「よかった」


 私も、そう言いたかった。


 声を出すために息を吸うと、胸の奥が痛み、言葉が喉へ残った。


 千代は返事を待たなかった。


 文子の消えた方を、しばらく見ていた。


     *


 足音がした。


 土を踏み、焼けた茎を折る音が近づいてきた。


 靴が、私たちのそばで止まった。


 顔を上げると、鉄帽をかぶった兵隊さんがいた。もう一人が後ろに立っていた。


 何か言った。


 別の人が答えた。


 言葉は分からなかった。


 一人が屈み、私の胸元を見た。布へ手を伸ばしたので、私は腕を寄せようとした。


 怖かった。


 銃を持っているその人が、何をしようとしているのか分からなかった。傷を見るためなのか、私の袋を調べるためなのか。中に手榴弾があると思い出したが、それを伝える言葉を知らなかった。


 その人は私の顔を見て、何かを繰り返した。


 私は千代の手を握り直した。


 離さないで、と思った。


 口に出せたかどうかは、分からなかった。


     *


 千代の指は、まだ私の指に触れていた。


 握り返す力は弱くなっていたが、離れてはいなかった。


「千代」


 名前を呼んだ。


 千代の唇が動いた。


 顔を寄せたかった。あと少し近づけば、何を言ったのか聞こえる気がした。


 身体が動かなかった。


 兵隊さんがまた声を上げた。誰かを呼んでいるように聞こえたが、それも私がそう思っただけかもしれなかった。


 私は千代の顔を見ていた。


 目元がぼやけた。


 涙なのか、目が見えにくくなっているのか分からなかった。


 食堂へ帰りたかった。


 おばちゃんが鍋の蓋を取る音を聞きたかった。三人で戸を開けると、遅かったねと言われる。千代が先に謝り、文子が言い訳を始め、私はその横で笑う。


 そんな続きを、まだ考えられた。


 けれど、息が入らなかった。


 もう一度吸おうとした。胸がわずかに動き、そこで止まった。


 千代の手を感じるために、指へ力を入れた。


 入れたつもりだった。


 目の前の土の色が薄くなり、兵隊さんの声が遠くなった。


 最後まで、千代の指がどこにあるのかを確かめようとしていた。

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