第102話 白いベッド
ごう、と低い音が近づいてきた。
考えるより先に、私は頭を下げていた。肩を丸め、両腕を胸へ寄せ、顔を伏せる。どこから来るのか分からなくても、音が通り過ぎるまで低くなっていなければならなかった。岩の陰へ入れないなら、せめて地面へ身体をつけなければ。
身体を捻ったところで腕が引かれ、胸の奥に痛みが蘇った。私は動きを止め、息を詰めたまま、次に来る衝撃を待った。
音はしばらく続き、やがて遠ざかっていった。
何も落ちてこなかった。身体の下も揺れなかった。頬へ押しつけているものは柔らかく、息をするたびに、洗われた布の匂いがした。
目を開けると、白い皺が見えた。
私は少しずつ顔を離した。頭の下にあったのは枕だった。その先にも白いシーツが続き、胸から下には薄い掛け布団が載っていた。顔を伏せた拍子に布団を引いたらしく、端が斜めにずれていた。
左手から、細い管が伸びていた。
手の甲に貼られた透明なものを見つめ、それから管の先を追った。ベッドの横に透明な袋が吊られ、小さな容器の中へ、雫が一定の間隔で落ちていた。
見覚えがあった。
けれど、それを何と呼ぶのか思い出す前に、私は隣へ顔を向けていた。
「……千代」
声は喉に引っかかり、掠れた音になった。
返事はなかった。そこにあったのは白い柵と、その向こうに置かれた椅子だった。
*
右手を伸ばした。
シーツへ指が触れた。血で滑ることも、土へ爪が引っかかることもなかった。私はそのまま手を動かし、千代の指を探した。
ついさっきまで、握っていた。
傷を押さえていた千代が私の指に気づき、少しずつ手を寄せてくれた。触れたときには温かかった。離れそうになるたびに、二人で握り直した。
私は掌を開いた。
血がついていなかった。爪の間もきれいだった。指を曲げても、そこにあるはずの手の形が戻ってこなかった。
左手で包もうとすると、管が引かれて手の甲が痛んだ。そこで初めて、自分の身体が寝ている場所と、頭の中に残っている場所が違うのだと感じた。
私は胸へ触れた。
薄い服は乾いていた。千代が布を当ててくれたところを探し、指を押しつけたが、血は出なかった。襟元を少し引くと、傷のない皮膚が見えた。
息を吸ってみた。
空気が入ったのに、途中で止めてしまった。深く吸えば、またあの痛みが来る気がした。胸の内側を引かれ、どれだけ口を開けても足りなかった息を、身体がまだ覚えていた。
窓の外から、車の音が聞こえた。
肩が跳ね、腕を頭へ寄せかけた。顔を上げた先には白い天井があり、長い灯りがついていた。炎ではなかった。そこから壁へ目を移すと、呼び出しのボタンと、小さな音を繰り返す機械が見えた。
窓にはガラスが入っていた。
その向こうに壊れていない建物が並び、道路をトラックが走っていた。大きな車体が遠ざかるにつれて、さっき聞いた音も小さくなった。
戻ったのだろうか。
そう考えた途端、千代の顔が浮かんだ。私はもう一度、隣を見た。
*
扉が開き、看護師さんが入ってきた。
手に持っていたものを台へ置き、こちらを向いたところで足を止めた。私と目が合うと、すぐにベッドへ近づいてきた。
「寺田さん。理恵さん、聞こえますか」
私は頷いた。看護師さんは少し屈んで顔を覗き、腕から伸びる管と、そばの機械を確かめた。
「今、先生を呼びますね。起き上がらなくて大丈夫ですよ」
「ここ……」
声を出すと、喉の乾いたところが擦れた。看護師さんは私の言葉を待っていたが、続きが出なかった。
「病院ですよ」
病院なのは分かっていた。どこの病院なのか、今はいつなのかを聞きたかった。千代がどこにいるのかも。
看護師さんが廊下へ声をかけた。近づいてきた足音に顔を向けると、扉のところにお母さんが立っていた。
肩へ袋を掛け、片手に上着を持っていた。髪を後ろでまとめていたが、こめかみに何本か落ちていた。顔が、私の記憶より痩せて見えた。
お母さんは私を見たまま、しばらく動かなかった。
「理恵」
その声を聞いて、喉が詰まった。
台所から私を呼んでいた声だった。朝、まだ布団にいる私へ、早く起きなさいと言っていた声だった。
「お母さん」
呼ぶと、お母さんがベッドへ来た。
*
右手を握られた。
私はその手を見つめた。爪の形も、指の付け根にある小さな傷も知っていた。お母さんは椅子へ座らず、私の顔を確かめるように屈んだ。
「お母さん、分かる?」
「うん」
答えると、お母さんの目から涙が落ちた。口元へ手を当てたが、声が漏れ、私の手を両手で包み直した。
「よかった……理恵、よかった」
私はその顔から目を離せなかった。
会いたかった人が、そこにいた。何度も謝りたいと思い、帰りたいと思った。けれど、食堂の戸を出ても、学校から帰っても、お母さんのいる家へは辿り着かなかった。
今は、手を伸ばせば触れられた。
医師が来て、名前や、そばにいる人のことを尋ねた。私は答え、手や脚を動かすように言われると、少しずつ動かした。思っていたより身体が重く、腕を持ち上げるだけで疲れた。
痛むところを聞かれ、胸へ指を置いた。
「撃たれた……」
言葉が出ると、医師の手が一度止まった。お母さんもこちらを見たが、私は続けられなかった。医師は痛みの場所や感じ方を確かめ、身体を診ながら、ゆっくり息をするように言った。
深く吸う手前で身体が強張った。
お母さんが握った手を少し動かし、ここにいるよと言ってくれた。私はその手を見て、もう一度、息を吸った。
*
医師たちが離れてから、お母さんが椅子へ座った。
「事故のこと、覚えてる?」
私は目を閉じずに考えた。家を出たことは覚えていた。歩いていて、明るい光が来た。そのあとに大きな音があった。
「トラック……」
「うん。トラックにはねられたの」
お母さんは私の手の甲を撫でた。
「救急車で運ばれて、手術を受けて。それから、ずっと意識が戻らなかったの」
「どのくらい?」
「三か月」
私はお母さんを見た。
三か月という言葉は聞こえたが、その長さを、自分の記憶へ合わせられなかった。
おばちゃんに部屋を見せてもらった。学校へ行き、文子と千代に会った。季節が変わり、進路を話し、三人で登校した。食堂で働いているうちに、使う皿の場所も、鍋の重さも覚えた。
そのあとに空襲が来た。
春子が死んだ。照子に嘘ついてた。信子を置いてきた。千代と手を握り、文子が逃げるところを見た。
私の中では、どれも順番に起きていた。その全部が、お母さんの言う三か月の間にあったことになる。
今日の日付を聞いた。
お母さんは答えてくれた。年も尋ねると、少し心配そうな顔をしながら、もう一度教えてくれた。
私が家を出た年だった。
*
「最後に、あんなことを言って」
お母さんが俯いた。
「何度も考えたの。追いかければよかったって。もう少し、ちゃんと話を聞いていれば……」
「ごめんなさい」
私は遮った。
お母さんが顔を上げた。謝ろうとすると涙が出て、声がうまく続かなかった。それでも、今言わなければならないと思った。
「ごめんなさい、お母さん」
「もう、いいの。目を覚ましてくれたから」
私は首を振った。
あの日の言葉を、何度も思い出していた。もう一度会えたら謝ろうと思っていた。けれど、会えないまま何年も過ごし、あの畑では、もう帰れないと思った。
「帰りたかった」
口にすると、泣き声になった。
「ずっと、帰りたかった」
お母さんが立ち上がり、私の肩へ手を回した。管へ触れないように身体を寄せてくれたので、私はその服を掴んだ。
柔らかい、見覚えのある服だった。顔を押しつけると、家で洗ったものの匂いがした。
「会いたかった」
「うん。お母さんも、会いたかったよ」
背中を撫でられた。
私は服を掴み直し、泣きながら何度も謝った。お母さんは理由を尋ねず、そのたびに頷いてくれた。
*
泣くと、息が苦しくなった。
少し身体を離すと、お母さんが枕を直し、私の頭をゆっくり戻してくれた。私は椅子へ座り直したお母さんを見続けた。
目を閉じるのが怖かった。
次に開けたとき、また岩の下にいるかもしれない。お母さんがいなくなり、胸へ当てた布が血で重くなっているかもしれない。
「どこにも、行かない?」
尋ねると、お母さんはすぐに頷いた。
「ここにいるよ」
右手を握ってくれた。
私はその温かさへ指を回した。安心した途端、千代の手を思い出した。千代も、最後まで温かかった。
お母さんの手を見たまま、また涙が出た。
「痛い?」
私は答えようとして、胸へ左手を置いた。傷はなかった。服もシーツも乾いていて、息をすれば、空気が身体へ入ってきた。
それなのに、胸を撃たれた痛みは消えていなかった。右手には、千代が弱い力で握り返してくれた感触が残っていた。
お母さんが涙を拭いてくれた。
私はその手へ頬を寄せ、白いベッドの上で、もう少しだけそばにいてほしいと頼んだ。




